VingT
「姉上」
冷気が薄れていく。視界が開けていく。音がもどり、寒さと痛みが蘇る。しゅうしゅうと私を囲む世界から空気が抜け、止まった時が稼働を始める。外界と途絶するために固く閉じられていた扉がぎちぎちと音を立て、強引に捻じ曲げられていく。内と外とがつながってしまう。
「ダメじゃないですか姉上、あなたはボクのモノなんだから。モノが一人で出歩くなんてそんなおかしなこと、許されるはずがないでしょう?」
ニコラ、どうして。乾いた唇からは声がでない。ニコラにつかまれる。引っ張り出される。生暖かな空気が、私を急速に解凍していく。表皮に留まらず、のどの奥から肺の中まで激痛が走る。不必要な生の機構が私を強く刺激する。痛い。ニコラにつかまれた手が、痛い。
「姉上がいけないんですからね? なにもかも姉上のわがままが招いたことなんです。だからほら、見て下さい姉上。姉上ほら――」
顔をつかまれた。ねじられた。ぱきぱきと、割れる音が首に響いた。白に掛かった視界の膜が、ぱきぱき割れて剥がれていった。眼の前の光景を、有限の現実へと映し出していった。現実に、映し出されていたのは――。
「あなたの勝手が起こした悲劇ですよ」
緑の薔薇の、散った花弁。
「なにが悪魔ですか、あのイカレ司教。撃てば死ぬんです、それがなんであったって。そうですよ、邪魔するやつは殺してしまえばいい。みんなみんな、殺しちゃえばいいんだ。ふふ、ふふふ……」
代わりに咲いた、朱い華。
「ぃ」
倒れ動かぬその人の。
「ぃ、や」
胸にて咲いた、血色の華――。
「ああ姉上……これでもう、ボクたちを邪魔する者はいなくなりましたね」
ニコラが耳元でささやく。触れてくる。抱かれる。拘束される。私をモノだと伝えてくる。彼の携えたライフル銃の先端が、冷えた皮膚に張り付いてくる。ニコラと共に、張り付いてくる。
いや、いやだ。こんなのいやだ。私はもう、あなたを知った。あなたを知った私はもう、かつての私にもどれない。あなたが私を狂わせたんです。あなたが私に望ませたんです。一度望みとまみえては、二度とは過去へと帰れないんです。ファビアンさま。私、もう、母のようにはなれません。あなた以外のモノにはなれない――!
だから起きてくださいファビアンさま。だってあなたは言ったはずです。離れないと、忘れないと、捨てないと、いなくならないと。確かにそう、約束を交わしてくださった。そうではありませんか。なのにこれでは……こんなのあんまりです。だから起きてくださいファビアンさま、起きて、お願い、起きて――。
血色の華が、ぐにゃりと歪んだ。
「こいつ、まだ生きて――」
轟音。同時、破砕音。ファビアンさまの手に、拳銃。撃たれたのは、私――ではない。ニコラでもない。それがなにか、目視はできない。けれど、判った。“匂い”で、判った。
「なん、これ――」
私に張り付いていたニコラが力を失い、倒れていく。空虚な瞳、自我のない顔をして。ファビアンさまの、香水。意識を飛ばす、匂いを発する。そしてそれは例外なく、私の意識へも作用を始め――。
「――――」
けれど私は、落ちなかった。あの人の、私を所有するあの人の、私を呼ぶ声が聞こえたから。私はあの人のモノ。あの人に使われて、あの人の希望に応え、あの人に愛されるモノ。こんな香水よりも、私のほうが、あの人のモノだ。だったら、落ちない。落ちるわけがない。だってあの人にとっては私の方が、こんな香水よりも価値がある。
だから私は這っていく。感覚のない足をずりずり引きずり、腕の力で這っていく。ファビアンさまへと這っていく。ファビアンさまへと、ファビアンさまへと。漂う彼の香りへと。ああこの匂い、この匂いです。この匂いを嗅いだ瞬間、私はあなたのモノと化していたのです。逃れることなどできなかったのです。だからもっと、もっとあなたを、あなたの匂いを――。
「――――」
ファビアンさまに触れる。ファビアンさまに重なる。ファビアンさまを嗅ぎ取る。ファビアンさま、ここに来ました。あなたのレアが這ってきました。なんですか。私は何をすればいいのですか。私はあなたの何になれますか。声にならない問いかけを、心の匂いに飛ばして問う。
ファビアンさまは、笑っていた。いつものように微笑を浮かべていた。微笑を浮かべて、それを手に持ち、私の前で、煌めかせた。
散った緑の薔薇の茎、鋭利に尖って、刃物みたいな。
それが、ファビアンさまの首に、ささった。ファビアンさまが、刺した。刺して、裂いた。
血が、吹き出た。びゅうびゅうと、びゅうびゅうと、止め処なく吹き出した。
それらすべてが降り注いだ。むせ返るようなその匂いが、私の鼻へと降り注いだ。
ファビアンさまは笑っていた。いつものように微笑を浮かべていた。
鮮血の薔薇が、微笑を浮かべて、ささやいた――――。
オレの匂いを忘れるな――――セブラン。
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