Dix-neuF
この日、この時、この瞬間。至福に満ちたこの瞬間のために、私はこれまでを生きてきた。至福に満ちたこの感情を、永遠の裡へと封じ込めるために。永遠の裡の香りと化して、ファビアンさまに所有して頂くために。
衣の一枚も纏うことなく、私は装置の前に立つ。私を永久へ留めるための、小さな小さな凍れる世界。息も心も魂も、匂いまでをも封じる世界。私はここで、私を終える。私を終えて、“彼”になる。リュカくん。部屋の中央にて、自我なく椅子に腰掛ける彼。佇む彼に纏われて、今宵私は二人でひとつの“彼”となる。
「ファビアンさま」
彼のための、“彼<薔薇>”となる。
「次に会う時、私はセブランさまなのですね」
「ええ、マドモアゼル。次に会う時、貴方はセブランだ」
「離さないでくださいね」
「離すものですか」
「忘れないでくださいね」
「忘れるものですか」
「捨てないでくださいね」
「捨てるものですか」
「いなくならないでくださいね」
「いなくなるものですか」
歓び。彼のモノになるという、歓び。恐怖など、欠片もなかった。ひどくて、こわくて、おそろしくて――故にこそ彼は余りに魅力的だった。例え私自身に興味がなくとも、彼に選ばれたという事実が私の胸を至上に包んだ。そして私は極寒へ、裸足の足を踏み入れた。
寒くはなかった。痛みもない。ただ感覚が、感覚だけが、急速に私から離れていく。白に覆われ視界は狭まり、熱も音も消失していく。白き暗闇に落ちていく。生命の停止が迫りつつあるのを、いやにはっきりと残る意識で感じ取る。
死を間近にした時、人はこれまでの生を整理するかのように記憶を遡ると聞いたことがある。楽しかった思い出、悲しい思い出。親しかった人々、愛する者、思い出すこともできなくなった在りし日の記憶と対面するものと、そのように聞いていた。
私には何もなかった。楽しかった思い出も、悲しい思い出も、親しい人々も、愛する者も、何も思い浮かびはしなかった。父の姿も、母の姿もなかった。後悔も罪悪感も、私には存在しなかった。
ただ薔薇だけが、現実として存在する緑の薔薇の一輪だけが、私の目にするすべてであった。それだけでよかった。それさえあれば、幸せだった。それさえあれば、穏やかだった。それさえあれば、救われた。それさえあれば。それさえあれば――――――――。
薔薇が、散った。
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