QuinzE
大人しくしていた。石の壁に囲まれたこの牢の中で私は身動ぎせず、大人しくしていた。大人しく、その機が訪れるのを待ち続けていた。ニコラに閉じ込められ、三日後に帰郷することの決められた私には、常に二人一組の監視が付けられていた。彼らは執務に忠実に無駄な会話をすることもなく、私を見張り続ける。下手な行動を取ればすぐにも取り押さえられることは目に見えていた。
だから私は待ち続けたのだ。一日二日と、私に逃げ出す気などないとその心へ植え付けるために、貞淑な婦女子を演じ続けてきたのだ。そして、三日目。いつ迎えの馬車が訪れてもおかしくない、その日。当番を任されたその二人の見張りはぽつぽつと、他愛のない会話に興じ始めていた。そこには明確に、油断があった。
「もし、お二方……」
私の呼びかけで、監視の二人に緊張が走る。
「そのままで結構です。そのままで結構ですので、私の願いをお耳に挟んではいただけないでしょうか」
訝しむ気配が、匂いに乗って伝わってくる。
「私、大変なことを思い出してしまいました。大切なものを宿に忘れてしまったのです。ニコラさまからの、頂きものを」
ニコラの名前に、彼らが反応を示す。
「それは小さな小さな小瓶です。香水瓶。橙色の、とても芳しい香りの」
指先で描いた小さな小瓶の小ささに、二人がぎゅうと凝視する。
「私はそれを、身にまとっていきたいのです。ニコラさまから頂いた、その香りを。モラリアム家、そしてニコラさまへの反省と、心からの恭順を示すためにも……」
胸の前で、両手を組んで。
「だからどうか、お二人に慈悲の心がお有りなら。どうか私の忠誠を汲み取っては頂けませんでしょうか」
懇願の姿勢を、全霊に演じて。
「この哀れな女に、どうか御慈悲を……」
明らかに、二人は戸惑う様子を見せていた。私には聞こえぬよう小さな声で耳打ち合い、私の言葉に思案を巡らせている。私はそれを、祈りの形で見上げ続ける。祈りを捧げているのは、本心からに。
「他言は無用に願います」
感情を抑制した低い声で、監視が言った。そして彼はもう一人の監視に目配せすると、目に見える範囲から去っていく。よく響く足音が次第、上方へと消えていく。いなくなった。うまくいった。条件は整った。私は胸を抑え、確認する。大丈夫、問題ない。
「レア様、どうされたか」
立ち上がる。立ち上がって歩く。壁の隅に向かって。
「用がなければみだりに歩きまわらないで頂きたい、レア様」
石の壁、ごつごつと硬いその壁に手を触れ伝って。平坦の少ない起伏だらけの壁の中にあって、比較的に平らなその場所を目指して。監視が私に呼びかける。私はその声を無視し、目的の場所へ行く。たどり着く。ここでいい。ここでならばおそらく、“少々の怪我”で済む。私は両の手をその壁の側に付け、そして――。
「レア様!」
壁に頭を、叩きつけた。強烈な振動に、くらりと意識が途絶えかける。だめ。まだ、耐えて。もう一度叩きつける。もう一度、もう一度、もう一度――。
「なに――」
顔色を変えて、監視が牢へと駆け込んでくる。――よかった、目算通り。彼ら監視の仕事は私を逃さないこと。けれどそれは表向き。監視たちが本当に任された仕事はおそらく、私の安全を確保することなのだと私は考えたのだ。
私の身体は私のモノではない。いずれはニコラが所有するモノ。だから彼らが最も危惧していたのは脱走ではなく、私から私への加害行為、私が私を殺めようとすることのはず。自殺をさせないために彼らは、常に私を取り押さえられる二人一組でいたのだと、私はそう、考えたのだ。
けれど彼らは、警戒を怠った。この三日に渡る、大人しい私の態度に騙されて。そしていま私を取り押さえようとしているのは、ただ一人。当然、力では敵わない。けれど私は、持っている。胸に秘めたこの力を――ファビアンさまから頂いたこの香水を、持っている。
「を――――」
一吹き。振り返りざまに、浴びせた。屈強な肉体の監視が、重量を感じさせる音を立てて倒れる。うつろな目をして、私の血が染み付いた壁へと視線を向けている。この様子であれば、しばらくは意識を取り戻すこともないだろう。
牢の扉は開いていた。もはや私を阻むものはなかった。通路の構造は三日の間に、監視たちの足音が教えてくれた。出口はそこにあった。陽の光が差していた。光に包まれた私は自由を許され、望みを叶えに行くことが、私にはできた。緑の薔薇へ向かうことが、私にはできた。『ユィット・サン・パルファム』へ向かうことが、私にはできた。
私の意思に従うことが、私にはできた。
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