QuatorzE

 母は美しい人だった。美しく、儚く、そして不自由な人。常に視線を足元へと落とし、死ぬまでに一度として微笑む姿を見せなかった人。

「また、男児」。ボクを産んだ時、母はそうつぶやいたらしい。ボクを含めて母の産んだ子はすべて男児で、厳然と存在する性差の常として母の立場はボクら息子たちよりも明確に下へと置かれていた。まだ一人で用を足すことのできないボクへも母は、まるで下女のように畏まった言葉を使い、反発することを忘れてボクらに付き従い続けた。母の目は、いつも死んだように光を喪っていた。

 そんな母を、ボクは愛していた。なぜなら母は、美しかったから。その光のない瞳が、世界でなにより美しい宝石であったから。だからボクは、母を愛した。

 しかし母は、ボクのモノではない。母の所有者はあくまでも父で、ボクたちは父の息子としてそのおこぼれに預かれていたに過ぎない。本当の意味で母を自由にできるのは、父しかいなかった。生かすも、殺すも、飾り立てるも、すべては父の裁量に委ねられていた。死後、我がモラリアムの墓へと収められた後までも。

 ボクはいつも求めていた。ボクだけの母を。ボクだけのあの美しき瞳を。しかし世の女というものは大概が醜く、それは高貴な血を有するはずの王侯貴族たちですら大差ない。社交場へと足繁く通おうと、足を踏み外して庶民の盛り場へと赴こうと、ボクの眼鏡に適う女性はいなかった。母はどこにもいなかった。

 母とは唯一無二の幻であったのかもしれない。ボクはもう既に、諦めかけていた。母という存在は、この世に二つと無い奇跡であったのだと。奇跡は起こり得ないゆえの奇跡であり、あの昏き瞬きを目にすることはこの生涯においてもはや二度とないのだと。ボクはそのように、諦めていた――諦めていたのだ、あの時までは。

 姉上。

 ボクは運命を、神を呪った。二度とは目にすることの叶わぬ奇跡と断じた存在と、どうしてこのような形で再会させたのだと。姉上は、ボクに紹介された時にはもう、姉上となることが決まっていた。どこで見つけたのか兄ダヴィッドが既に、姉上を自らのモノとする契約を交わしてしまっていたのだ。

 この人がボクのモノにならないという現実。それがボクをどれだけ苦しめ、絶望させたことか。なぜボクではなく兄上なのか、愚鈍で知恵足らずのダヴィッドなのか。彼女はボクのモノになるべき人なのに。彼女の美しさを真に理解できるのは、ボクを置いていないはずなのに。

 煩悶し、懊悩し、しかし裁定者である父に歯向かえばボクは家に残ることすらできない。それは即ち、姉上を覗き見る機会すら喪われるということ。父のおこぼれによって母を眺めたように、兄のおこぼれによって姉上を眺める。それだけが唯一、ボクに残された最後の慰みなのだと思われた。そうではなかった。転機はすぐに、訪れた。

 兄ダヴィッドが、失踪した。神は存在したのだ。

 兄の捜索には、ボク自ら志願した。これはチャンスだった。兄がこのまま行方をくらまし、その消息を絶つのならばそれもいい。穏当に、兄上と姉上の婚約解消を打診するまでだ。しかしもし生きて、その姿を現そうとしたならば――殺してしまえばいいのだ。誰かに発見されるよりも先に、このボクの手で。そしてボクは、姉上を所有する。今度こそ、ボクだけのモノにする。ボクだけのモノに。

 だからあの男――ファビアンという調香師は、非常に目障りな存在だった。姉上があの男に惹かれていることなど、一目で判った。判らないはずがないのだ。なぜって、あの目に光が宿っていたのだから。姉上のもっとも美しい箇所が、邪な光に濁っていたのだから。故に始めは、あの男を排除することも考えた。けれどボクは、考えを改めることにした。ボクは、姉上を自由にさせてみることに決めた。

 姉上がボクを何とも思っていないことなど、百も承知だ。しかし、それでいいのだ。そうでなければならないのだ。あの目に光が宿ることなど、あってはならないのだ。だから、そう。ボクは姉上のその目が爛々と輝くその日を待った。爛々と、希望のきらめきでその輝きが最高潮に達したその時――あなたの希望が叶うことはありえないのだと突きつける。

 手の届きかけた希望を奪われた者の目に、光が宿ることは二度とない。

 そうだ。そのとき姉上は――レアは本当の意味で、母となるのだ。

「これがボクの望み。どうです、他愛ないものでしょ? 誰しもが持ちうる美への欲求ですよ」

 気のおけない友人と接するように、ボクは彼へと話しかける。ボクの言葉に彼が、何か言いたげに唸る。

「ああ、待って。もう少し」

 彼の言葉を遮って、ボクはベッドへと押し付けた鼻で思い切りその残り香を嗅ぐ。ここはつい先日まで姉上が使っていた部屋で、これはつい先日まで姉上が眠っていたベッドだ。あえて掃除をせぬよう言い含めておいたおかげで、彼女の香りは消えることなく残っている。その染み付いた痕跡を独り占めするように、肺の中へと吸い入れていく。はあ、姉上……匂いまで美しい。

 その間も彼は何事かボクへと訴えようとしていて、待ってと言ったのに言うことを聞かないその声はすこぶる耳障りで。だからボクは部下に命じてもう一度、彼の指へと金槌を下ろさせる。猿轡をした口の奥から、のどが千切れんばかりの絶叫が轟いた。

「うん、さすがは最上級のスイートだ。防音設備も完璧。安心して叫びましょうか」

 どうぞとボクは彼へと促す。けれど彼はふぅふぅと、荒い息を吐くばかりで。やれやれ、天邪鬼な人だこと。部下に預けた金槌受け取り、彼の頭をこつこつ叩いて。

「それで、なんでしたっけ。そうそう、司教猊下でしたね。いやでも、いまさらそんなに畏まることもないかな。ボクとあなたの仲ですもの、シモンでいいですよね。ねえ、シモン?」

 これが『オドレウム』の統治者だったなどと信じられないくらいに変貌したシモンが、それでも両のギョロ目でボクを睨む。憎悪と憤怒に血管が破れてしまいそうな眼力で。

「そんなに嫌な顔しないでくださいよ、傷つくなぁ。奥歯まで見せてくれた仲じゃないですか。まあボクのは見せませんけど」

 そう言ってボクは、彼に“見せてもらった”奥歯を投げ返す。拘束された彼は避けることすらできず、額でそれを受け止めた。額に生じた小さな傷からつつりと細い、朱い筋が垂れていく。

「あのですね、シモン。ボクはあなたと対立するつもりはなかったんですよ。ボクとしては兄が見つからない方がありがたかったし、そういう意味ではあなたがたに感謝したいくらいだったんです。兄をさらってくれてね。……おや、意外でしたか? 侮りすぎですよ、それくらいの調べはついてます」

 放蕩で知られている兄のことだ。どうせいらぬ好奇心を働かせ、開いてはならぬ箱の底へと首を突っ込んだのだろう。とうの昔に消され、魚の餌にでもされたものとボクは思っている。ざまあみろ、だ。

「それで、ボクが告発するとでも思ったんですか? とんだ見当違いだ。立場上捜索を指揮する振りはしてきたものの、あなたの不利益になることはしないとそれとなくサインは送ってきたはずなのに。ボクへの猜疑心で、あなたのその大きな目は曇ってしまったようだ。挙げ句、よりにもよって姉上を襲うだなんて――」

 ボクの姉上を所有しようとした、その罰だ。どいつもこいつも、ボクの姉上に手を出そうとしたやつは罰を受けるべきなんだ。

「先走りましたね、シモン。あなたが手を出しさえしなければボクは、姉上を連れて穏便に帰るつもりだったんですよ。ボクは愛する人を手にし、あなたはここで王様を続けられた。それが最善だったんです。でも、それももう手遅れだ」

 だからボクは、決して許さない。シモン。

「ボクのモノに手を出して、ただで済むと思うなよ」

 絶叫。金槌を下ろすと同時。持ち上げると血と共に、砕けた彼の爪が付着しているのが見えた。その様子を見せつけるように彼の前で振っていると、粘ついた粘液とともに爪も床へと落ちていった。爪の剥がれた指はひしゃげて人の形を失い、それはもう、見るも無惨に痛々しかった。なんて可哀想なシモン。だからボクは、努めてやさしく語りかけてやる。

「ねえシモン。ボクはもう、調べ尽くしてあるんですよ。あなたが何のために誘拐なんて行為に手を出していたのかも、誘拐された不運な人々がどこへ送られていったのかも」

 意思力などでは抗しきれない反射運動によって、彼の目からは眼球うるおす涙が溢れ続けている。

「聖職者というものは大変ですね。妻帯も許されず、俗と交わることも認められず、人を買うなど以ての外。けれど誰もが聖人君子な訳じゃない。当然ですよね、人の性は欲だもの」

 血の付着した金槌で、右からその涙を拭ってやる。

「許されぬことだと判っていても、自分だけの“モノ”を欲しがる輩はうようよいる。さりとて市井の奴隷商など信用ならない。そいつがふと口を滑らした瞬間、それは身の破滅を意味するのだから」

 金槌の朱と混じった右目の涙は、まるで血涙のような体裁を表して。

「“モノ”は欲しい、けれど信用できる売り手以外と取引する危険も冒したくない。ああどこかに、リスクなく望みを叶えてくれる者はいないものか」

 その様がなんとも、どうにも不自然に見えて。

「ねえシモン、ここがあなたの出発点でしょ? 露見すれば互いの破滅を導く、謂わば共犯者という関係を構築することでその信用を勝ち取ることに成功した。地方の有力者から中央の枢機卿に至るまで独自のパイプを築き上げていった。どうですか? ボクの推論、当たってますよね?」

 だからボクは、彼の目元を砕いてやる。痛みにうめくシモンの左目から、紅い雫が垂れ落ちる。うん、これでいい。これで綺麗な左右対称だ。

「御返事ありがとう、シモン。野心家の生臭坊主。取るに足らない助祭だったあなたが異例の速度で司祭となり、司教に選ばれたのも、あなたの努力の賜物ですね。行く行くは大司教――いやいや教皇の地位だって夢じゃなかったかもしれない。あなたと――あなたの協力者が手を結び続けていれば」

 金槌の裏、扁平にすぼんだ側を彼の頬に当てる。

「調香師、ファビアン。あなたの協力者」

 そして勢い、振り下ろす。彼の頬が裂ける。その口を覆っていた猿轡と共に。

「だからシモン、そろそろ話してくださいよ。あの男が何者なのか。どういうわけかあの男については、調べても調べても碌な情報が出てこないんです。なぜあなたの事業に加担していたのか……その目的だけじゃない。この街へはいつ訪れたのか、出身は何処なのか、親は存命なのか? 伴侶は? 兄弟は? それすらも判らない。“まるでそんな人物、この世に存在していないかのように”」

 まったく不思議なこともあるものですと、ボクは彼に同意を求める。どうせお前が隠蔽したんだろうと、言外に含めながら。荒い呼吸を繰り返し、明らかに疲弊しきった様子のシモン。しかしさすがは司教にまで上り詰めた男。その胆力は大したもので、なおもその目にはボクへの敵意が失せることなく宿っていた。

「……知って、どうするというのです」

「決まってる」

 その目に向かって、ボクは笑む。

「あの男のすべてを奪い、辱め、衆目に晒した上で公開処刑に掛けてやる。そしてその様を、姉上に観劇して頂く。そうしてボクはそっと、姉上にささやくのです。あなたのせいで彼は、あのような目にあってしまったのですよって……」

 起こりうる未来をそこに見出し、歓喜に頬を緩ませる。

「ああきっと……きっときっと、姉上の瞳はこれまでにない美しさで彩られることでしょう……!」

 ボクの姉上、ボクのレア。ボクのモノが、目の前に。

「……不可能だ」

 陶酔するボクの気持ちへ冷水をかけるような、嘲る声で彼がつぶやく。怒りや嘆きであれば、いくら向けられようと構わない。が、上から目線は気に入らないな。彼のまだ無傷の指に、金槌を振り下ろす。しかし彼は驚くことに、歯を食いしばってうめきを堪えた。この執念、いったいどこから沸いてくるのか。こいつはなぜ頑なに、ファビアンとかいう男について口をつぐむのか。あのような平民風情に、何を義理立てする必要があるというのか。

「……判りました」

 扉の前に立つ部下に、指示を出す。部下が扉を開き、別の部下が別室から、ナプキンに包んだそれを持って入室してくる。

「あなたがあんまり頑固なものだから、ある人物の“手”を借りることにしました」

 入室してきたそいつに、シモンの前に座るよう目配せする。そして――。

「なにもかも調べたと言ったでしょう? マドリエという頭のいかれた女性の話が切欠ではありますが、ちゃんと裏付けも取っています。いくつものバイパスを通じて援助金を送り続けていたってことも聞いてますよ。罪滅ぼしのつもりかな? 野心のために子捨てた男が、いまさら何をと思ってしまいますがね。なんにせよ、可哀想なことです。まだまだ小さな、未来に夢見る少年だというのに」

 ナプキンに包んだものの中身を、シモンの眼の前へと晒させた。そこに収められていた小さな、肌色の、それを。

「あなたの息子の指ですよ。目を逸らさず、我が子の成長をきちんと見てあげてくださいね、おとうさん?」

 シモンの両目が、それを凝視する。

「どうです、話してくれる気になりました? もしその気にならないというのならいいですよ、あの子の指ならまだ九本も残っていますから。ああ、足も含めれば更に一〇本もあるのかな。交渉の時間はたっぷり取れそうですね」

 そしてそこから目を逸らすように、視線が落ちる。影が差す。俯いて、肩を震わせる。さて、どのような狂態を晒すのか。これは見物だと、彼の一挙一動を観察し、観察し、観察していると、途端――シモンが、笑い出した。

「何がおかしいんです……?」

「ふは、ふはは……何がおかしい? 何がだと? お笑いだ! これが笑わずにいられようか!」

 その笑い声は、神経を逆なでにするほどきりきりと頭に響いて。

「私の息子を捕らえた? まさか! あの男がそのような真似を許すはずがない! アレはあの男が必要とした素体、お前たちなどに渡すはずがないでしょうに!」

 前触れなく頬を張られたかのような衝撃が、司教へと上り詰めた男の底力がそこには溢れていて。

「まだ判りませんか、お前たちはかつがれたのですよ! お前たちが捕まえたのは“私の子では決してない”! お前たちはあの男に敵わない! その証拠を! いま! 私が! 説教してやります! さあ、だから告白なさい!」

 その迫力に、ボクは、つい――。

「お前たちが捕らえた少年とやらの名をさあ、告白なさい! さあ! さあ! さあ!!」

 その名を、つぶやき。


 トマ。

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