TreizE

 子が、宿ったんです。私のお腹に。相手との間に愛はなかったけれど、けれどもこのお腹の子には愛を抱いて。こんにちはの日を心待ちに、楽しみに、楽しみに、待っていたんです。その子は、生まれてきてはくれませんでした。生命を宿すことなく、流れてしまいました。

 想像できますか、想像できないでしょうね。だってあなたは男の人。この悲しみは女にしか判りません。判られて堪るものですか、あなたたちなんかに。私がどれだけ悲しみに打ちひしがれ、いっそのこと生命を立てば解放されると死に希望を見出し、枯れた木の下で首をくくろうとし、そして――あの子との出会いが、私をどれだけ救ってくれたか。

 愛らしくも弱々しい赤ん坊。小さくか細いその泣き声は、木の下の更に下、土の中から聞こえてきました。はじめは幻聴かとも思いました。産んでやることのできなかったあの子が、私を責める声ではないかと。ああごめんね、ごめんねと、私は狂乱するばかりで、けれどもどうもその声は、幻というには現実的で。

 頭を傾げて、地に耳を付け、その声が本当の声であると、私は確かに確信したのです。そこからはもう、必死でした。爪が剥げる痛みにも気付かず、必死になってぬかるむ土を掘り返しました。ただただ一心に、一心にその子を守りたいと――産みたいと私は思ったのです。

 リュカ。愛しい愛しい私の息子。

 むつかしいことは判りません。およそ学術というものに、私は縁がありませんでしたから。ただお医者さまが言うにはリュカは、まともに育つことができないということでした。脳の一部が麻痺し、正常な思考能力が働かないのだと。乳児期に呼吸困難へ陥るなど、著しく酸素が欠乏した場合に起こりうる現象であるとお医者さまは説明されていました。

 お医者さまが説明された通りリュカは言葉を覚えることもなく、どころか成長するに従って奇妙に静止することが増え、そしてその時間は日増しに長くなっていきました。どうにかしなければなりませんでした。けれど、どうしようもありませんでした。私は無学で、裕福な家の生まれでもなく、お医者さまも手立てはないとさじを投げられて。

 私にできることといえば、神に祈りを捧げるくらいで。来る日も来る日も教会へと通っては、私は神に祈りを捧げました。どうかリュカを、私の息子をお助けください。そのためなら何を喪っても構いません。私はどうなっても構いません。だからどうか、どうか――。神は、私の願いを聞き届けてくださいました。

 救世主。緑の薔薇を、携えた。

 それはまるで、魔法そのものでした。彼の用いた香水。それによって、もはや眠りこそが恒常となっていたリュカの目に、生の光が確かに宿ったのです。例え一時的なものにせよ、それがどれだけ私の歓びとなったか。それにあの方は、約束してくださいました。必ず、そう必ず、永遠の意識をこの子に授けてみせると。私はその言葉を信じました。疑いだなんて、露とも抱きませんでした。だってあの方は、救世主なのだから。

 そうして私は息子と共に、来るべき永遠の日を待ち続けてきたのです。あの方の起こす奇跡が、真の永遠となるその日を。一切の疑問を抱くことなく、その神にも等しき御業を待ち望み続けてきたのです。それが私の希望であり、生き方であると信じて。

 ……なのになぜ。

 あの女が訪れ、あの恐ろしい武器に撃たれ。私はなぜ、息子を置いて逃げようとしたのでしょう。息子だけが私の希望、私の愛であったはずなのに。私はなぜ、ああ私はどうして――どうしてあんなにも息子を愛しいと思っていたのでしょう。だっておかしいではありませんか。何もかもがでたらめです。

 だって私は、“男の人と関係を持ったことすらないんですよ”。

 なのにどうして子を宿したなどと、私は思いこんでいたのでしょう。存在しないはずの腹の子を、どうして流すことなどできましょう。私ではない、誰かの記憶。だけどそれを覚えているんです。私ではない誰かが男性と関係を持って、それを私は覚えてるんです我が事として。

 ねえいったい、これはどういうことなのでしょう。あの女は言いました。あなたは本当にマドリエですかと。私はマドリエです、マドリエのはずです。貧民窟に生まれ、食うや食わずやで生きてきた、それが私です。あんなに下品に華やかに、男どもへと媚びを売って生きてきたのは私ではない。ああけれど、そっちが本当の私なの? 本当と思う貧しい暮らしこそ、妄想にまみれたまやかしなの?

 やめてください、やめてください。落ち着いています、おかしくなどはありません、私は正気です、正気ですともそうですとも。そうですそうです、だから私は覚えています。正気な私は確かにそれを覚えています、しっかとこの頭で覚えています。

 私達の子を、私のリュカを葬ると決め、枯木の下へと埋めたのはあの人です。あの人、あの人――『オドレウム』の長、シモン!


 有意義な話をありがとう、マドリエさん。

 あなたの想いはこのニコラが、決して無駄には致しませんよ。

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