HuiT
「またお会いしましたね」
「はい?」
とつぜん声をかけられたことに訝しんだのか、箒を携えたシスターが困惑したように眉根を寄せる。私は彼女の警戒を解くよう努めて穏やかに、「礼拝の作法をお教えいただいた者です」と説明する。シスターは少し逡巡した様子を見せ、小首を傾げ、それと共に綺麗に切りそろえられた前髪がさらりと揺れた。そうして彼女は得心いったのか、長いまつげをぱぁっと開く。
「あの時の御婦人ですね、大変な事件の。如何ですか、あれから大事ありませんか?」
「ええ、お陰様で」
「それはよかったです。きっと神の思し召しですね」
破顔した彼女の顔は、彼女本来の魅力を存分に照らし。美人というよりは可愛らしいといった容貌の、女性から見ても愛おしさを覚えてしまうようなその。間違いなかった。あの時は服装が違うせいですぐには気が付かなかったけれど、彼女だ。眼の前のこのシスターが、そうだ。
「本日はどうされました? 再び礼拝に?」
「いいえシスター。私の用は、あなたに」
「私に?」
「シスター。ファビアンさまのお店へは、何用で来られたのですか?」
「ファビアンさま?」
「はい、ファビアンさまの」
繰り返して、私は問う。問われてシスターはまた再び、考え込む姿勢を取った。切りそろえられた前髪が揺れる。彼女の答えが返ってくるのを、私は待つ。
「すみません、私にはなんのことか……」
本心から申し訳無さそうに、彼女はいう。無条件で信じたくなるような表情。少なくとも、うそをついているような匂いはしない。けれど――。
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。人違いだったようです」
「そう、なのですか?」
「本当に、失礼いたしました」
「そんなことは。何かあればまた、いつでもお声掛けください」
「ありがとうございます」
「はい、では私はこれで」
恭しく会釈をしたシスターが背を向け、手放していた箒を持って、講堂を離れようとする。その背中に向かって、私は再び声をかけた。
「はい?」
彼女の手にした箒が転がり、講堂に響き渡る。あの朗らかで愛らしい表情はその顔から消え失せ、目は焦点が合わず、その口は力なく開かれている。私の仕業によって。私が手にするこの香水によって。ファビアンさまから譲られた、“人の意識を奪う香水”によって。
「シスター、聞こえますか。私の声が聞こえますか、シスター」
「……はい」
ワンテンポ遅れて、シスターが返事をする。あの時のあの男――私を人質に取った、あの男のように。
「私の問いに答えて頂けますか、シスター」
「……はい」
抑揚のない答えが返ってくる。本当に、成功してしまった。ファビアンさまが行ったようにすれば成功するはずだと思ってはいたが、本当にうまくいってしまった。香水に、ファビアンさまの作られる魔法のような香水の力に、いまさらながら恐れを抱く。けれどいまは、臆して怯む時ではない。
「あの手紙を書いたのは、あなたですか」
「……手紙?」
「ファビアンさまに渡してほしいと、あなたが持ってきた手紙です」
「よく覚えて……いません。私ではないと……思います」
「確かですか」
「…………うぅ」
シスターがうめき声を上げる。苦しそうに。大丈夫だろうか。彼女の心は、きちんと正気にもどるのだろうか。不安が増す。すべて自分の勘違いなのではないかと、自責の想いが芽を出し始める。――いや違う、きっと聞き方が悪かっただけ。聞き方を変えれば、きっと。
「質問を変えますシスター。あなたはなぜ、あの手紙を渡そうとしたのですか」
「……知らない、知りません。私じゃありません……う、うぅ」
「いいえ、あれはあなたでした。間違いなくあなたです。シスター、よく思い出して」
「うぅ……判らない、知らない……うう」
ついには頭を抑えてシスターは、その場にうずくまってしまった。どうして、なぜこうなってしまう。ファビアンさまの時はもっと素直に言うことを聞いていた。何がいけないのか、何かが足りていないのか。彼女ではないのか? あの手紙を書いて、渡してきたのは、彼女じゃなかったのか――?
そこまで考えて、閃く。あの場に来たのはこのシスターだ。それは間違いない、そこを疑う訳にはいかない。けれどもし、もしそれが、彼女の意思による行いでなかったとしたら――?
「もしかしてあなたは、あれを渡すよう誰かに頼まれたのではないですか」
「……頼まれた?」
「そうです。あなたが書いたものではない手紙を、誰か別の……あなたのよく知る人に頼まれて持ってきたのではありませんか」
「…………そう、そうです。そうです、そうですそうです。私頼まれた、頼まれました。私頼まれたんです、頼まれたんだ」
興奮した様子でシスターは、私は頼まれたのだと繰り返している。正解だ。やはり私の考えは間違っていなかった。あの手紙は間違いなく、強固な意図を持ってファビアンさまの下へと送られたものだったのだ。“ファビアンさまの謎につながる、絶対的な一事”なのだ。“私の直感を、裏付ける”。だから私は、更に踏み込む。もう一歩、もう一歩先へ。私は――。
「では、シスター」
核心へと、一歩を。
「それは、誰に」
「う、ぁ……それは、う、うぅぅ」
一歩を。
「シスター、答えて」
「ぅぅぅぅ…………」
「シスター」
「ぅぅぅぅぅぅぅぅ……………………」
「シスター!」
「……………………シモン、さま」
「何事ですか」
講堂の入り口から、よく通る声が響き渡った。ぴたりと寄り添う二人の配下を引き連れて、後光とともに現れたその人物は――。
「シモン……司教、猊下」
「御婦人、声を荒らげていたのはあなたか。いったい何事か」
私のすぐ側には投げ出された箒と、うつろな瞳で天井を見上げるシスター。これは、どう答えれば良いのだろう。真実をそのまま答えるわけには、当然いかない。私の行いは、誰に知られるわけにもいかないものだ。特に――この男には。
シモン。手がかりにつながる、男。
「……司教猊下。その……彼女が急に、倒れられて」
「シスターが?」
シモンが厳かにこちらへと近づき、シスターの前に座る。ごつごつと節くれだった指が、意識の朦朧としたシスターを検分する。まぶたを開き、瞳孔を覗き込む。心臓が、早鐘を打つ。気づかれるはずがない、気づかれるはずが。自分にとって都合の良い展望を、心の中で祈り通す。
「ハインツ、彼女を医務室へ。頭は揺らさぬように」
私の祈りは、どうやら何かに通じたようで。部下へと指示を送ったシモンはシスターから離れ、成り行きを見守るように一歩後ろへ退いた。助かった。安堵がにじむ。けれどそれでも心臓は、未だ収まる様子を見せず。私は「では」と言い残し、足早にその場を去ろうとして――。
「待ちなさい」
呼び止められた。シモン、その人に。
「確かレア……と言いましたね、レア女史と」
私は答えず、ただ首肯によって肯定する。
「レア女史、貴方には伺いたいことがある。付き合って頂きます」
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