SepT
ファビアンさまはすべてをお話になられた訳ではない。それは明白だ。あの日の彼の言葉にどれだけの真実が含まれているのか、それも定かではない。都合の良い真実だけを聞かせたと、そのような気がしなくもない。彼は未だ、謎の人。私にとっての彼はいまもなお、未知のベールの無効に存在する神秘に他ならず。
けれども私は、以前のような焦りに駆られはしなかった。彼を知りたいという気持ちが失せた訳ではなくとも、初めて出会った時に感じたあの焦がれるような気持ちは和やかな思慕へと落ち着きつつある。彼の側にあるという事実を噛みしめるだけで、穏やかな歓びを抱く己を自覚する。
それにいずれにせよ私という女は、ニヶ月の後にはここを離れなければならない身。彼への想いに焼かれることこそが過ちであると、今更ながらに振り返れたのだ。彼と私の香りは一時的に混ざりあったハーモニーを奏でただけで、遠からず揮発してしまうものであるのだと。それが私の、運命であるのだと。
ただ――ただせめて、いまだけは。彼の側に在れる幸運に、“私自身の感情”に、素直にこの身を任せていたい。私は切に、そう願う。
そうして彼と出会ってから、三週間の月日が過ぎて。
ニコラに呼び出された。
「ああ姉上、お美しい。とても良くお似合いです!」
「……ありがとうございます、ニコラさま」
「本当にお美しいです姉上。さあでは、次はこちらなど如何でしょう。こちらもきっとお似合いになるはずですよ」
ニコラの示したドレスへと、私は黙って着せ替えられる。二人の侍女が着付けを行い、きつくコルセットを締め付ける。内蔵が圧迫され、逃げ道を求めて上滑りしたのが判る。着替え終え、ニコラの前にて披露する。ニコラは変わらず満足そうに、両手を叩いてはしゃいでいた。
私達の他に客はいない。ニコラが店ごと貸し切ってしまったのだそうだ。私達だけのために開かれた店内でニコラは、あれも良いこれも良いと自分のものではなく、私を着せ替えさせるための服を次々に見繕ってくる。ニコラのためだけに開かれたファッション・ショー。既にこれで、ニ〇着はまとっただろうか。
「試着したものはすべて買う。後でホテルまで届けておいてくれ給え」
ニコラの放った号令に店長らしき口ひげを蓄えた男性が、腰を折り曲げながら喜悦の笑みを浮かべていた。その顔に父の面影を見て私は、優れぬ気分に一層不快な重石を抱く。反してすこぶる上機嫌なニコラは私の腕へと自らのそれを回して、陽々たる様子で声を発した。
「さあ姉上、次の店へと向かいましょうか!」
そうして私たちは、本日四軒目の服飾店に向かって馬車を走らせた。
「ニコラさま、ダヴィッドさまは……」
五軒、六軒、七軒と、馬車は『オドレウム』の街を巡る。
「未だ。けれどご安心ください、手がかりは揃ってきていますから」
服飾店だけでなく靴屋、宝飾品、化粧品店にも巡り。
「私は、お邪魔ではありませんでしょうか。このようにお時間を割かせてしまって……」
その度にニコラは私に試用を求め。
「とんでもない! 姉上がいらっしゃること、それだけで充分励みになるのです」
美しいと褒めそやして。
「ですが、私は本当に何も……」
それら全てを購入し。
「それでよいのですよ。女性の仕事とは貞淑に着飾り、夫の帰りを待ち続ける他にないのですから。姉上とて、兄上のことはご心配でしょう?」
陽の目を見るかどうかすら定かでない衣服の山が積み重なり。
「ですが……」
馬車の中には宝石が溢れ。
「それとも」
荷重に耐えかねた馬車馬は荒い息を吐き。
「何か他に、気になることでもお有りなのかな?」
「そんな、ことは」
「さあ、最後はこちらです」
そうして目を血走らせた馬の止まった、その店は――。
「さしたる高級店ではありませんが、主人の腕は『オドレウム』一だという噂もある程だそうですよ」
「ここ、は」
「さあ姉上、エスコート致します」
腕をつかまれる。固く、有無を言わさぬ力で。それはいつも通りのようで、けれどいつもより荒々しさを感じるようでもあって。抵抗の欠片もなく私はニコラに引っ張られ、店の中へと入る。どうしてここへと、言う間もなく。『ユィット・サン・パルファム』。ファビアンさまの、お店に。
「これはムッシュニコラ、お久しぶりでございます」
「おや、あなたは確か……ファビアンさん、でしたか?」
本来ならば。
「いや、気づきませんでした。そうですか、ここはあなたの店だったのですね。街での評判を伺って来たのですが――いや、驚きました」
本来ならば、私は向こうへ立っていたはずだった。ファビアンさまの隣で、この店に働く一従業員として。ニコラにとつぜん連れ回されたりしなければ。
「ねえ姉上。想像だにしておりませんでしたよね」
「え、ええ。そうですね」
「ムッシュニコラ、本日はどのような?」
ファビアンさまはどう思われているだろう。なんの連絡もなく店を空け、挙げ句にこうして客として来店している女のことを。緑の薔薇、常なるアルカイックスマイル。彼の態度からは、その心を読み解くことはできない。ただ、どうか。どうかファビアンさま――。
「姉上に見合った香水を。その魅力を一層際立たせる一品を願いたく」
「畏まりました。ではムッシュ。それに――」
ニコラの前で、私達の関係が露見するようなことだけは――。
「マダム」
――ファビアンさまはやはり、聡い方で。
「こちらなどは如何ですか」
ファビアンさまが棚の中から、銀細工の施された小瓶を引き抜く。その香水なら、知っている。以前ファビアンさまに教えていただいた、バニラがそのベースとなっている甘さの強調された香りのもの。その香りをハンカチーフに染み込ませ、ファビアンさまがニコラの前でそれを振る。
「ああ確かに、これは良い香りです」
陶酔したような表情で、ニコラがつぶやいた。当然だろう。だってこれは、ファビアンさまの作られた香水なのだから。その素敵な香りに参ってしまわない者など、いるはずがない。表に出さぬまま、私は密かに胸を張る。けれどニコラは陶酔から覚めた途端、信じられないことを言い放つ。
「しかしこれは、少々魅惑的に過ぎるのでは? これではまるで、男を誘う娼婦のようだ」
あなたに香りの何が判るのか。憤りを覚えつつ、だけれど私は何も言えず。
「そういえばご存知ですか。つい先日、不義密通の罪で裁きを受けた男女の話を」
「寡聞にして」
他のものをと指示しつつ、ニコラは自分の話を勝手に続ける。
「貴族の男と街の娘が、逢引していたのですよ。それもはしたないことに、夫を持つ娘の方から誘いをかけたのだと。それが顕になったという話です。娘の方は両の目を潰し両の手の親指と小指を切り落とした上で街から追放され、男の方は教会からの破門と家名の剥奪を受けたそうです。この話をファビアンさん、あなたはどう思われますか」
「秩序のためには仕方のない処置であったのではないかと」
「ボクは手ぬるいと感じましたね」
ニコラがちらりとこちらを見た――気がした。
「神の掟にも反しておりますがそれ以上に、人としての倫理に悖るとボクは思うのです」
彼の弁舌は留まることなく、加熱していく一方で。
「人は一途であるべきなのですよ。だってそうでしょう、ボクたちは崇高な魂を有した人間です。唾棄すべき畜生として生まれた訳ではない」
それはまるで通り一遍の世間話を越えた、何らかの訓告を示しているかのようですらあって。
「自ら畜生へ堕ちた者に、人間的な扱いなど不要。そのような堕落した存在には野山の獣や海の魚畜に等しい扱いをするべきであると――ファビアンさん、あなたはそうは思いませんか?」
「仰る通りかと」
「ああよかった、あなたが道理を解されている方で。ねえ姉上」
警告のようで。
「ねえ?」
「私」
その場で、立ち上がっていた。
「私、外へ……」
「どうされました姉上。お加減でも?」
「いえ、いえ……なんでもありません。少し、外の空気を吸いたく……」
「では、ボクもご一緒に」
「大丈夫です。ニコラさまには、私に合った香水を、選んで頂ければ――」
返事も聞かず、私の足は動き出していた。不審に思われたかもしれない。それでも、逃げる他なかった。この場に居続ける胆力など、私にはない。考えすぎなのだろうか。それともニコラは気づいているのだろうか。気づいていて、敢えて泳がせている? けれどなんのために? 理由など思いつかない。ならやはり、私の考え過ぎか。けれどあの話は、あの男女の話は、あまりにも私へと向けられたもの過ぎていて。
「……ふぅ」
陽の落ちかけた外の空気は存外に涼しく、熱する額をいささか冷やしてくれた。やはり私の気にし過ぎだろう。ニコラならきっと私の行動を知った瞬間、外出の禁止を命じてくるはずだ。貴族的な男というのは、みなそういうものだった。怪しんでいるくらいのことはあるかもしれないが、発覚したわけでは、きっとない。
もしかしたらもう、ここへ来ることはむつかしくなるかもしれない。ニコラの目が光ればすぐにも、私の小さな自由など消えてなくなるのだから。部屋から出られぬよう軟禁されるか、父の下へと送り返されるか。いずれにせよ、いままでのようにはいかなくなる。
それに、そうだ。ファビアンさまにだって迷惑がかかるかも。浮かれた頭では思いもしなかったけれど、私の行動は私だけの責任で済まないかもしれないのだ。私が表に引きずり出されれば、ファビアンさまにも好奇は向く。それでは済まず、神の下での審判を受けることすらありえるやも。もちろん、私とファビアンさまの間に邪なつながりなど存在しない。それは断じて、神に誓って。けれどその訴えが、どこまで通じるものか。ニコラはどこまで、追求するか。
想いを断ち切る、時なのかも。
「すみません、あなた」
「え?」
気づけば目の前に、女性がいた。妙齢の、私と同じくらいの年頃の女性。艶やかな肌に、切りそろえられた髪。女の私から見ても可愛らしいと思うような人。
「これを、ファビアンさまに」
可愛らしいその女性は仄かに頬を朱に染めて、押し付けるように何かを私に手渡し、そうしてあっという間に走り去っていってしまった。なんだったのだろう。それに、彼女は誰だったのだろう。どこかで見たような気もするけれど、はっきりとは思い出せない。走り去り、間もなくその姿を隠した彼女を見届けた私は、押し付けられた何かに視線を移す。
それは、手紙だった。畏まった装飾の施された立派な手紙ではなく、薄い桃色に縁取られた差出人と同じく可愛らしさがその表に現れている手紙。それを見て私は、直感する。
恋文。
……ああ私は、いったい何を考えているのか。許されるはずがない。そんなこと、決して許されはずがない。そんなことをすれば先の彼女にも、ファビアンさまにも申し訳が立たない。手紙の中を、改めようだなんて。そんなことをする権利は誰にも、神にも許されてはいないというのに。
ああしかし、けれどもしかし、私の指は理性とは裏腹に、封の閉じたこの愛らしい手紙をかりりと掻いて。どうこうするつもりは毛頭ない。破り捨てるだなんて、そんな姑息な真似はしない。そんなつもりは本当に、どこにもまったく存在しない。
ただ指が、震える指が、蝋の封をかりかり掻いて。私には関係のないこと――関係ないことのはずなのに、私はもう、彼から離れるべきなのに、なのに私は止まらない。かりかりと、かりかりかりと、中身を掘ろうとうごめいて。
だってあなた、私は諦めなければいけないのよ?
――封が、開いた。
「え」
思わず、声が漏れた。そこに書かれていた、短い文章が目に飛び込んで。店の中を覗き見る。中ではまだ、ニコラがファビアンさまと話を続けていた。ファビアンさまは変わりなく、紳士に微笑を浮かべていた。真意の読めぬその顔で、紳士に微笑を浮かべていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます