SiX

「このような場所で申し訳ありません。ですが、味の方は私が保証致します」

 お食事。ファビアンさまと。海辺の店で。賑やかしく、ごった返して、荒々し気な歌まで聞こえる。これまで私が、足を踏み入れたことのないような場所。食卓を隙間なく敷き詰めるかのように並べられた、獲物の原形をそのままに留めた見知らぬ料理の数々。どのように口をつければ良いのか、まるで判らなかった。

「マドモアゼル、このように」

 戸惑う私にファビアンさまが、目の前で実演される。力任せに殻を剥ぎ、頭を千切って、身をしゃぶる。あるいはそれは、下品としか言いようのない食し方。けれども私は、私の心臓は、紳士的な振る舞いしかされてこなかったこの方の意外に野性的な側面に際して、きゅうと弱々しい悲鳴を上げるばかりで。

「さあ、貴方も」

 見様見真似で、模倣する。油に触れた手の感触に軽い不快感を覚えながら、見守る彼の前で殻を剥ぎ、頭を千切り……そこだけは手で覆い隠しながら、身に歯を立てた。口いっぱいに拡がる、海の香り。刺激的な味がした。

「あの、ファビアンさま。お尋ねしても宜しいでしょうか」

「なんなりと」

「あの少年は、どういう」

 羞恥心を些か麻痺させこの海辺の食事に慣れ始めた私は、彼に向かって問いかける。あの家で起こった出来事、そしてあそこから私に何を教えようとしたのかを。けれどファビアンさまは、微笑んだまま。

「貴方はどう思われましたか」

「私ですか?」

「ええ、マドモアゼル。貴方がどう思われたか、それを先にお教え頂いても宜しいでしょうか」

「私は……」

 質問を返された私は、あの場で起こったことを思い返す。部屋の中央で、人形のように座っていたリュカ少年。生物感のない、その有り様。それが突如として、その様を変えた。ファビアンさまが香りを変える度まったく違う態度に、まったく違う存在のように。同じ身体を共有する、別人のように――。

「……このように思うのは失礼なのかも知れませんが」

 店の一角で、子どもが騒いでいた。遠慮のない声で、言葉というよりも泣きわめく叫びのように。トマ、こらトマと、父親らしき人物が叱れども、トマという名のその子はまるで治まる様子を見せず。その駄々を起こす純真な自由さには、まさに子ども

らしさというものが詰まっていて。子どもらしい、子どもらしさ。それに引き換え、あの屋のあの少年は。

「……私にはあの少年が、不可思議な絡繰のように思われました。特定の刺激に反応して、決まった行動を再現する、そのような、絡繰に……」

「素晴らしい」

 ファビアン様が手を叩く。あるいは気分を害されるかもしれないとすら思っていた私は彼の反応に、むしろ戸惑いを覚えた。しかし彼は私の戸惑いを他所に、私の最初の疑問への回答を行っていく。

「彼は確かに人間でありながら、けれど同時に絡繰なのです。自己同一性を失った、記憶なき絡繰機械」

「自己、同一性?」

「連続する自分を、確かに自分と認識する機能です。彼にはそれがない。それがない故あのように、静止する以外の行為を行えないでいるのです」

 それを人は、病と呼ぶのですがね。そういう彼の顔には、どこか悲しげな影が宿り。打ち消すように、のどから言葉がついて出る。

「けれど彼は、確かにあなたとお話を」

「あれは香りの記憶なのです」

 香りの……記憶?

「ご存知ですか、マドモアゼル。香りとは、人の記憶と密接な関わりを持つものなのですよ」

「そう、なのですか?」

「新緑の葉に包まれた時、淹れたての茶に口をつけた時、焔が走る焦げた烟りに呑まれた時。ふとした瞬間に嗅いだ香りから在りし日の出来事がありありと呼び覚まされる――そのような経験、貴方にもあるのではありませんか」

 言われてみれば、そのようなこともあったかもしれない。けれどそれとこれとに、どのような関わりが。続く彼の言葉に、私は耳を傾ける。

「私がリュカくんに行っているのも、同じことなのです。同一性を失った彼に、連続性を与える。匂いという刺激を介して、彼が彼であるための記憶を呼び覚ましているのです。その人格を、一から形成するように」

「そんな、魔法みたいな……」

「けれど現実に、貴方は目撃された。そうでしょう?」

 そう言われては、私に返す言葉はなくなる。事実として私は、その現場に居合わせていたのだから。

「ですがマドモアゼル、それはリュカくんに限った話ではありません」

「え?」

「多かれ少なかれ人というものは、決まった刺激に決まった反応を反復してしまうという習性を持つ、そのような生き物なのですよ。物質的に定められた行動のみしか行えないという点で言えば、人間も機械もさしたる違いなどないのです。歯車が狂えばすぐにも己を保てなくところも、また」

 私達も、同じ? あの、少年と? 本当に、そうなのだろうか。疑問に思う。けれど同時に、何かが深々と突き刺さる。『物質的に定められた行動しか行えない』。『人間も機械もさしたる違いなどない』。果たして私は――私は?

「ですがそれでは、魂は。神の教えは――」

「まやかしです」

 一切の逡巡なく、切り捨てた。碌な信仰も抱いていないはずの神を否定されて、しかしなぜだか酷く、それがショックで。

「ああ、誤解しないで頂きたい。それでも私は人間の尊厳を信奉しております。もしかしたらそれは大多数の人々とは異なる考え方なのかも知れませんが、これでも私は人間を尊いものだと思っているのですよ。例えば――」

 ファビアンさまが、自身の胸元に触れた。

「貴方に恐れを抱いたように」

 緑の薔薇が、ちりりと回った。

「……私に?」

「ひとつ、うそをついておりました」

「うそ……ですか?」

「貴方にはセブランが――弟が遠くにいるとお話しましたが、あれはうそなのです」

 薔薇そのものでなく、薔薇を通じて何かを視ているかのように、ファビアンさまが花弁を撫でる。

「弟は私と一緒に暮らしているのです。貴方が入ろうとした、あの扉の奥に」

「ファビアンさま、それは――」

「そしてセブランは、リュカくんと同じ病なのです」

 乾いた花が、瑞々しく。

「リュカ、さまと?」

「ご覧になった通り、私の香水はまだ不完全。一時的な覚醒に導くことはできても、その効力が切れればすぐにもまた死の眠りへと落とさせてしまう。それでは足りない、全く足りない」

 生花<せいか>のように、脈打って。

「私はリュカくんの、そしてセブランの同一性を完全なものとする匂いを追い求めているのです」

「もしかして」

 私は見つめる。

「ファビアンさまは、そのために調香師に――?」

 彼が視ているものを、見出すように。

「あいつは薔薇が好きなのですよ。それも緑の、この薔薇が」

 彼に良く似た、けれどわずかに幼さを残した顔を想像して。よく似た二人が、睦まじく談笑されている様を想像して。ああ、そうか。あの奥の部屋。あそこから漏れ聞こえてきたファビアンさまの声色がずいぶん明るく軽妙に感じられたのは、お相手が弟君であったから。

「ファビアンさまは、弟君のことを“あいつ”とお呼びになられるのですね」

「ああ、これはお恥ずかしい」

 ――女性では、なかったのだ。

「お恥ずかしついでに白状してしまえば、私は貴方を恐れたが故に、貴方を欺いてしまったのです」

「恐れたから、欺いた?」

「真実を話せば貴方に嫌われてしまうのではないかと、それを恐れて」

『この男はこう見えて、ずいぶんなさびしがりなんだ』。リュカ少年の言葉が脳裏をよぎる。この人が、恐れている。私に嫌われることを。本当に? 心の底を見せないその微笑からは、到底本心を図ることはできない。もしかしたら全部、私を喜ばせるための巧言なのかもしれない。でも、けれど――。

「ファビアンさまは、何色がお好きなのですか」

「マドモアゼル?」

「薔薇の、色」

 この質問が意外であったのか、能弁な彼にしては珍しく、思い悩む様子を見せた。そうしてしばらくのあいだ同じポーズを取り続けていた彼は深い声で、彼にしては小さな声で、なんだか自信なさげにつぶやいた。

「青を」

 青。青の薔薇。深い群青のそれを胸元に差したこの人を思い描く。ああきっと、きっとそれは、この人によく似合って。賑やかしい喧騒。刺激的な初めての味。私の知らない世界。私の知らない世界を知る、彼。彼の世界。彼の大切なもの。大切なものを想う、心情。彼の、心。心の、匂い。

 ファビアンさまのことが少しだけ、ほんの少しではあるけれど私は、彼を理解できたような気がした。


「トマくん、あまりお父さんを困らせてはいけないよ」

 食事を終え、そろそろ退店しようかという頃になってもまだ、先のトマ少年は喚き声を上げていた。喧騒に呑まれてさほど耳障りという程でもなく、けれども確かに意識を刺激するその声を横目にそろそろと、私はファビアンさまの側を付き歩く。店の外へ出る、そのつもりで。トマ少年の声が、次第に大きくなっていった。ファビアンさまの足は、トマくんの方へと向かっていた。

「でないといざという時、お父さんは君を守ってくれないかもしれない」

 しゃがみこみ、視線を合わせたファビアンさまが、白地のハンカチーフで目元を拭う。あるいはただ驚いていただけかもしれない。けれど事実として、あれだけ騒いでいたトマ少年はたったこれだけのことで大人しくなってしまった。トマ少年の父親は、あっけにとられた様子でファビアンさまを眺めていた。その視線に微笑を伴う会釈を返し、ファビアンさまは今度こそ店の外へと出る。

「マドモアゼル、これを」

 店の外で、香水を賜った。いつか見たのと同じ香水。砕けたそれ。暴漢の自我を奪った、あの。

「護身用として携帯しておくと安心でしょう。くれぐれも、無闇に人に向けてはいけませんよ――」

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