CinQ

「ああファビアンさま、お越し頂けるとお教え頂ければこちらから出向きましたのに」

「いいえ、マドリエさん。お気遣いは無用です。リュカくんは?」

「いつものように、大人しく。ささ、中へ、中へ」

 繁華街から離れ、住宅地の中でもどことなく寂れた――歯に衣着せずに言ってしまえばうらびれた場所。どこからか得体の知れない腐臭が漂う地の一角に、そのあばら家は建っていた。中から現れたのは、傷んだ髪を長く伸ばし放題にしている女性。前面が固まった前髪に覆われたその顔からは表情を読み取ることはむつかしかったものの、彼女とファビアンさまが旧知であること、そして彼女がファビアンさまを信頼している様は容易に感じ取られた。

 ファビアンさまに続き、私も家の中へと足を踏み入れる。ぎぎぃと、頼りのない音が足元から響く。バランスを崩さぬよう注意を払いながら通りすがり、この家の家主らしきマドリエ女史に会釈をした。彼女からの返事はなかった。ただ、髪の隙間から覗く彼女のその目が、私を見ていることだけは判った。妙な熱を感じる視線を背中に受けながら私は、一人で先へと進むファビアンさまの後を足早に追う。

「ファビアンさま、こちらは?」

 辿り着いた先には、少年がいた。大人しく、椅子に座っている少年。まるで眠っているかのように――あるいは、呼吸を停止しているかのように、みじろぎひとつしない少年――いや、もしかしたら少女だろうか――が、そこに座っていた。

「彼はリュカくん。私の大切な友人です」

「リュカ、さま……?」

「マドモアゼル、彼はまるで死んでいるようでしょう?」

「え。いえ、そんな」

「事実として彼はいま、死の眠りに耽っているのですよ」

「お手を」と、ファビアンさまが私の手を誘導する。私は彼に導かれるまま、眠る少年の手に触れる。温かい。ちゃんと、生きている。ファビアンさまの手が、更に上方へと私の手を誘導する。少年の腕に、肩に、首に、私の手が触れる。その顔に、どことなく気品を感じさせる少年の中性的なその顔に、私の指先が触れる。艶やかな肌。押し込んだ指が、皮膚そのものの持つ弾力に弾かれる。

 閉じた目元、形の良い小ぶりな鼻、結ばれた唇。それらをゆっくり撫でていく。人に向かってそうするのではなく、愛らしい人形を愛撫するように。少年は、まったくの無抵抗だった。むずがるでもなく、一向に目を覚ます気配もない。本当に、生命を持たぬ死体のように。死体のように、そこに在る。

 匂いを発さず、そこに在る。

「ファビアンさま。彼は、いったい」

 あなたはいったい彼を通じて、私に何を示そうとしていらっしゃるのですか。心の中での私の訴え。その疑問にファビアンさまが答えることはもちろんなく、彼は手品師が自身の技を披露する時のように持参した荷物を拡げていた。即ち、調香用具と、無地のハンカチーフと、一個の美術品として完成された香水の小瓶。

 ファビアンさまが、私に微笑む。微笑んで、ハンカチーフへと少量の香水を垂らし、なじませたそれを中空でふわりと振った。濃厚な、重量を有した香りが辺りに漂う。部屋の中に、数万を超える果実の結晶が充満していく。その行為になんの意味があるのか判らないまま、しかし私は彼の動きに魅せられていた。手品のような――魔法のような、彼の動きに。

「……ファビアン」

 聞き慣れぬ声が、部屋の中央から発せられた。大人のものではない、甲高な声。まさかと、私は部屋の一点を凝視する。あれほど触れてもなんの反応も示さなかった少年が、目を見開いていた。

「ファビアンファビアンファビアンファビアン」

 少年特有の甲高な声で、彼が同じ言葉を繰り返す。抑揚なく、一定のリズムを刻むような調子で。これは、いったいなにが。その答えを得るよりも早く、ファビアンさまが彼の前に膝をついた。

「おはよう、リュカくん」

「遅い遅い遅いファビアン遅い遅い」

 無表情のまま少年が、ファビアンさまを責める。異様な迫力。この子はいったい、なんなのか。しかしファビアンさまは気にする様子もなく、あくまでもあの微笑みを崩さずに。

「今日はまた、ずいぶんと饒舌な君だね」

「腹の底がかっかしているかっかだファビアンこのぼくは短気だずいぶんと短気みたいだ」

「おや、この香りは好みでなかったかい」

「判らない判らないけれど冷静な感じはしないしないなファビアン」

「そうかい、ではこれならどうかな」

 言ってファビアンさまは、手元の用具で調香を開始した。限られた道具を器用に扱い、そしてまた、匂いを染み込ませたハンカチーフを少年の前に振る。するとあれほどまくし立てていた少年がとつぜん安定感を失い、ふらふらと頭を揺らしだした。

「ファビアン……これはよくない……。朦朧としすぎる……。まぶたを開くのも……一苦労だ……」

「それはすまない。ではこうしてみようか」

 少年の求めに応じて、ファビアンさまが再び調香を行われる。今度は先程までよりも時間を掛け、慎重で、真剣な様子が傍から見ていても伺えた。そして完成させたそれをファビアンさまは、少年の鼻前へと漂わせる。少年の瞳に、確かな理性が煌めいた。

「……うん、冴えている。今日のぼくにぴったりな感じがする」

「それはよかった」

 そうして、何かが一段落ついたようであった。しかし私には、この場で何が行われていたのか判らない。判ったのはなんの反応も示さなかった少年がいきなり目を覚まし、その調子を非人間的に可変させたこと。そしてその変化の前には、必ずファビアンさまの香水が部屋の中に漂ったこと。それくらいのことしか、私には判らなかった。

 ファビアンさまがいったい何をされているのか。この少年はいったい何者なのか。そしてなぜ、私をここへ連れてきたのか――。

「ファビアン、こちらの女性は」

 少年の声で、疑問に支配された私の思考が途切れる。

「彼女はレアさん。私の店で働いて頂いている方だよ」

「そうか」

 椅子に座った少年が、私を見上げている

「レアと言ったな」

 椅子に座ったままで少年が、手を差し出してくる。

「ファビアンを宜しく頼む。この男はこう見えて、ずいぶんなさびしがりなんだ」

「え? あ、はい」

 彼の言葉の意味を理解するより前に、差し出された手を握っていた。リュカという名の、この少年。ずいぶんと大人びた言葉遣いのこの子はいま、なんと言っていたのだろうか。ファビアンさまが、さびしがり?

「リュカくん、女性を困らせてはいけないよ」

 私と少年の握り合わされた手に、ファビアンさまの手が重なる。

「なぜだ」

「今日の君は男性だろう?」

「……言われてみれば、そうかもしれない」

「紳士は淑女に礼儀を尽くすものだよ」

「そういうものだろうか」

「そういうものだとも」

 少年の手から、力が抜ける。私の手から、少年の手が離れる。ファビアンさまは受け皿のようにその手を支え、少年は力なくその手を下ろしていく。

「……ファビアン。今日のぼくは、これで終わりか」

「その通りだよリュカくん。今日は彼女に、君のことを紹介しようと思ってね」

 そうして少年は、私達がこの部屋へ入ってきたその時のように目を閉じて。

「おやすみリュカくん。次はもっと長い時間話せるようにしておこう」

「楽しみに……している……」

 部屋の中から、匂いが消えた。


「ああファビアンさま、ありがとうございました。リュカもきっと、ファビアンさまに感謝しているはずでございます」

「いいえマドリエさん。これは私が好きでしていることですから。どうかそのように畏まらないでください」

「いえそんな、とんでもない、とんでもないことで……」

 マドリエ女子はずいぶんと熱っぽい様子でファビアンさまの手を握り、中々それを離そうとはしなかった。ありがとうございますと散々に繰り返す彼女。そこから漂う、匂い。彼女の本心が、匂いに漂う。

 一〇分も過ぎてからだろうか。ようやく開放されたファビアンさまは私を連れて、マドリエ女史と少年を残した家を離れる。腐臭漂う区画を後にする。そうして立ち去る私の背には、入った時と同じように射すくめる視線が、暫くのあいだ突き刺さり続けていた。

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