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『ユィット・サン・パルファム』。ファビアンさまのお店の名前。素敵なお名前。けれどその由来が、私には判らない。どういう意味かとお尋ねしても、ファビアンさまは笑ってはぐらかされる。

『ユィット・サン・パルファム』。そこまで繁盛した有名店ではないようだった。大抵の時間は閑散とし、常連だという方々が時折大量に買い込まれていくのが主な取引となっているらしい。

 釈然としなかった。だって、ファビアンさまの香水は贔屓を抜きにしても素晴らしいものばかりで。なのにどうして、このようにひっそりとした商売を続けておられるのか。ファビアンさまに尋ねてみた。「これくらいで丁度よいのです」と、ファビアンさまは微笑まれた。

『ユィット・サン・パルファム』。商品を陳列した店舗の裏には、香りの基礎となる薬剤が整理された工房が広がっていて。原材料から匂いを抽出するための蒸留器や、遠心分離機という名の工業的な装置もそこには並べられていた。危険なものもあるので気をつけてと言われ、とにかく私はそれらを割らぬよう、細心の注意を払うことを心に決める。

『ユィット・サン・パルファム』。私の担当は店番と掃除。といっても、するべきことは殆どない。お客様がいらっしゃることは稀にしかなく、それらの稀も私ではまず応対できない。言伝を頂き、それをファビアンさまに伝えるのが精一杯といったところ。

 それに、掃除も。ファビアンさまは綺麗好きであられるのか、それとも精油作りには清潔であることが不可欠なのか、私が掃除するべき箇所など僅かにも残されてはおらず。だから私は、既に綺麗な箇所を更に磨くような、そのような甲斐なき仕事にしか従事することはできなかった。けれどそれでも私の心は、かつてない輝きに満ち満ちていて。

 原料となる植物などが、船に乗せられ遠い遠い海の向こうから運ばれてくるだなんて知らなかった。熊のような薔薇の山から、一粒の涙程度の精油しか抽出できないだなんて知らなかった。瓶の細工があのように熱く危険な職人の技で行われているだなんて知らなかった。こんなに小さな香水瓶が、これだけ多くの人を介して完成していただなんて知らなかった。

『ユィット・サン・パルファム』。ファビアンさまの店。『ユィット・サン・パルファム』。華やかな香水香る、秘されし花園。『ユィット・サン・パルファム』。私の、新しい居場所。素晴らしき場所。

 だけれども。違う、そうじゃない。私が、私が本当に知りたいのは。

「行ってらっしゃいませ、ファビアンさま」

 私が任された掃除場は、店舗と工房の一部だけ。厳命されたわけではないけれど、他の場所には触れぬようやんわりと言い含められていた。表に置いている物以上に危険な薬剤や装置があるからと言って。

 うそではないのかもしれない。でも私は、ファビアンさまのことをまだ知らない。知らないどころか、なにかひとつでも理解している確信を持てていない。ファビアンさまのことが知りたくてここへ来たというのに。それもニコラには秘密のまま、いつ露見してもおかしくないという状況で。ニコラはきっと、良い顔をしない。下女のように働くことも、誰かにこうして仕えることも。ニコラはきっと、許さない。

 だから私はなにより早く、彼のことを知らなければならない。ファビアンさまという方のことを、その神秘の底に至るまで、知り尽くしてしまわなければ収まらない。でなければ私の狂えるこの感情は、私自身を燃やし尽くしてしまうだろうから。猛る期待に呑み込まれたまま、二度とは下にもどれないだろうから。

 工房の奥の、そのまた奥。煉瓦造りの作りにあって、明らか異様なその扉。分厚く無骨な鋼鉄の、重苦しさを覚えるそれ。これが開けられているところを、私は見たことがない。一度尋ねてはみたものの、店には関係のない場所だと素っ気なく返された。使わなくなった、古いスペースだと。

 けれど私は知っている。うっすらと締まりきっていない扉の奥から、人の話し声が聞こえてきたのを。ファビアンさまがそこにいる誰かと、私と話すときとは異なる声で歓談されていたのを。

 知りたい、と、思った。

 だから私は、機を待った。ファビアンさまが得意先へと向かう、その機会を。そしていま、機会はここに訪れた。しんと静まる工房に、私の足音が反響する。いやに大きな音。いつもはこんなに響かないのに。かつん、こつん、かつん、こつん。後ろを振り返る。

 だれもいない。当然だ。この店にはファビアンさまと私以外に働き手はいない。お客様も、ここまで入ってこられることはない。だからここには、私以外だれもいない。だというのに、だれかに見られているような気配を感じる。私の足跡に隠れて、誰かが異なる足音を立てているように感じる。

 それでも私は、歩み進んだ。扉の奥の、その奥目指して。ここにはきっと、ファビアンさまの秘密がある。それがなにかは判らないが、絶対確実になにかある。私の勘が、そう告げている。鋼鉄の扉。のぶを手に取る。鍵はかかっていない。

 いけないことをしている。私はいま、いけないことをしようとしている。耳の奥が圧迫して、視界が白んで、いまにも倒れそうな心地になる。それでも、知りたい。ファビアンさまを、知りたい。あの方の正体を、私は――。

 地面を削る重い音。僅かな隙間から漏れ出た空気が、圧縮されて、そのまま雪崩れて――。

「何をされているのかな、マドモアゼル」

 反射的に、手を離した。振り向こうとする。ただその場で、振り向こうとするそんな単純な動作が、なぜだか異様にぎこちなく。錆びた鉄のようにきしんだ音を立てて、私はようやく向き直る。そこにいたのは――ファビアンさま。

「わ、たし」

 ……いやです、私。

「その」

 私、これきりで。

「掃除、を」

 貴方と、離れたく――。

「マドモアゼル」

 伸ばされる、彼の手。その手に怯えるよう不随意に、私の身体は私を無視して強張って。これでは拙い言い訳すらも、用をなさない空言と知れてしまうというのに。けれど彼はそれでもなお、あくまで紳士の装いで。

「ついてきて頂けますか」

 差し出されたその手に押し付けはなく、ただただ私の応えを待って。緑の薔薇の微笑みは、崩れることなく私を見つめて。だから私は彼のその手に、いつかのように我が手を重ねる。

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