TroiS
「姉上、ニコラのためにも外出はお控えくださいね。姉上の身に何かあればジョエル卿や兄上に顔向けできませんから」
どうかしていた。明らかに、気をおかしくしていた。私はモラリアムの家に嫁ぐことが決まったモノで、私は私のものではない。立場も、身体も、それに心も。所有されるモノである私に、感情など不要なのだ。
私は何を期待していたのだろう。あの出会いに、その佇まいに、なんの特別を見出したというのだろう。そんなものは、ない。ないのだ。私の人生において、特別などというなにがしかは過去にも未来にも存在しない。存在してはならない。だからもう、彼と会うことはない――いや、会ってはならないのだ。
ファビアンさま。
……ああ、いけない。考えてはいけない。想ってはいけない。考えるだけで、想うだけで、封じたはずの心が騒ぎ出す。私が私の支配を目論む。これまで感じたことのない情動が、尽きせぬ水の如くに沸き上がってくる。いけない、いけない。望んではいけない、願ってはいけない。期待してはいけない、いけない――。
「レアさま、お手紙が届いております」
かしこまったボーイが届けてくれた、丁寧に設えられた手紙。華美には過ぎず、さりとて高貴な気配は損なわず。父からだろうか。しかし父の意匠にしては、余りに品が良すぎている。手紙を裏返して私は、控えめに記された差出人の名前を見た。
「あ」
息を、呑んだ。どうして。なぜ。なぜ――あの方から。心臓が早鐘を打つ。逸る気持ちを抑えて私は、努めて呼吸を整え、手紙に書かれた本文に目を通していく。
『レアさま、お加減は如何でしょうか』
ファビアンさま。ファビアンさまだ。ファビアンさまからのお手紙だ。
手紙には昨日の食事のお礼と、私の体調を心配する文言が、彼の印象と違わぬ流麗な筆致で綴られていた。その文章を、指の腹でなぞっていく。何度も、何度も、これを書いたあの人そのものをなぞるように、触れていく。指の先が、燃えるような熱を帯びていく。
『もし迷惑であれば、捨ててしまわれても結構です。お気に召しませんでしたら、交換にいらしてくださっても構いません。私の店はルドニツカ通り三番地の――』
気持ちを落ち着かせ、癒やしをもたらす効果のアロマを同封したと、手紙には書かれていた。私を想って用意してくださった。ファビアンさまが、私に。抑え込もうとしていたものが、吹き出す。ベッドの上に背中を着けて、ああどうしようもなく、私は転がる。
しかしそこで、はたと気づく。手紙の中に書かれていたアロマ。その姿が、影も形も見当たらなかった。送り忘れたのだろうか。まさか、彼に限ってそんなこと。けれど事実として、彼の贈り物は私の手元に存在していない。これはどういうことだろう。ちくちくとした痛みに、心が左右へ揺さぶられる。
戸口から、ノックの音が聞こえてきた。
「申し訳ありませんレアさま、こちらの手違いで別のお客様の手に渡してしまったようで」
薄っすらと額に汗を浮かばせ、支配人が何度も頭を下げる。どうやら彼が言うには香水を受け取った客は既に出かけてしまっているそうだ。帰ってき次第事情を説明するつもりだが、いつ帰ってくるかも判らないのだという。申し訳無さそうに何度も頭を下げる支配人に、けれど私は責めるつもりなど毛頭なく。彼の謝罪の言葉も、耳にはほとんど入っていなかった。
その時私は、まったく異なることを考えていた。
「マドモアゼル、いらしてくださったのですね」
来てしまった。来てしまった。本当に来てしまった。ニコラにも告げず、一人で本当に来てしまった。震える。治まらない。いけないことをしている後ろめたさと、この人を前にした正体不明の高揚とがないまぜとなって、身体の震えがまるで収まることを知らない。
だって、そう、私は来てしまったのだ。ファビアンさまのお店へと、来てしまったのだから。
「……申し訳ありません、ファビアンさま」
違う。私は、正当な理由があって来たのだ。
「ファビアンさまが送ってくださったアロマですが、お受け取りすることができず――」
せっかくの好意をすぐに頂戴することができなかったお詫びとして、マナーとして、謝意を伝えに来たのだ。私がここに来た理由はそれだけ、たったそれだけのことに過ぎないのだから。
「マドモアゼル――いや、マダムとお呼びすべきでしたか」
マダム、彼が言う。
「気にされることはありませんよ、マダム。貴方の非など、どこにも存在しないのだから」
マダム、マダム、私に向かって彼が言う。
「それよりもマダム、お加減が優れたのであればそれがなによりです。マダムの快復されたお姿を拝見できて、私の方こそ救われる思いです」
マダム、マダム、マダム――。
「マダム」
「ファビアンさま」
ああ、私は――。
「どうか……どうかマドモアゼルと」
私は、何を言って――。
彼は笑っていた。ミステリアスに。真意の端すら伺えない、けれどもこちらの心は見透かしているような、不可思議な態度で。昨日に変わらず、胸元に差された緑の薔薇。その薔薇を中心として漂うような、心をかき乱す芳香。
この匂いだ、この匂い。この匂いが、私を狂わせる。モノであったはずの私を、私以外の何かに――いや、私自身にしてしまう。望むことを、願うことを私に強制してしまう。
「マドモアゼル、つい先程新作ができたところです。よければお試し頂けませんか」
「……はい、よろこんで」
彼の手が、私の手をつかむ。その目と同じように細く、長く、繊細な色気を感じさせる細指。果たして私はいま、まともでいられているだろうか。手首に雫が、垂らされる。彼の指が、浮きでた私の血管をやさしく撫ぜる。垂らされた雫が、皮膚になじんでいく。
「……素敵な、お店ですね」
私の声はいまきっと、隠しようもなく震えている。
「ありがとうございます。小さな店ですが、弟と二人で建てたものですので」
「弟君が、いらっしゃるのですか」
「私には不釣り合いな、よくできた弟ですよ。いまは離れたところにいるのですがね」
「いつかお会いしたくございます」
彼の指を見ていると、本当に頭がおかしくなりそうで。だから私は、意図して店内へと視線を向ける。小さな店。彼が言った通り、店舗はそこまで大きくない。けれども壁という壁に、棚という棚に色とりどりの香水瓶が並べられている様は、壮観の一語に相違なかった。静謐な店内に差し込む陽光が様々な硝子瓶に反射して、まるで霊験あらたかな聖地のようですらあって。
「……このようにたくさんの香水、きっと管理されるだけでも一苦労なのでしょうね」
「ええ。実を言うとつい先日、唯一の従業員が辞めてしまいまして」
「まあ」
「マドモアゼル」
中指に、薬指に、小指。彼の三本の指が、私の手首を持ち上げる。その力の流れに沿って、私自身も腕を上げる。鼻を寄せる。彼の調香した香水を、胸の奥へと吸い溜める。
「……なんて、爽やかな。このような香り、これまで味わったことがございません」
「ありがとうございます。では、これは差し上げましょう。貴方と再会できた幸福の証に」
「そのような」と私は言いかけ、けれど彼の目を見て何も言えなくなってしまう。ああなぜ、なぜこの人はこんな顔ができるのか。私がこれまで見てきた男たちと、どうして彼はこんなにも違うのか。私はただただその目に射すくめられ、自分のものではないような声で「ありがたく」と、彼の手渡す小瓶を受け取った。
「モドモアゼル、暗くなる前にお帰りなさい」
店に並んだ香水を眺めて、小一時間も経った頃だろうか。落ちかけた陽を眺めながら、穏やかな声で彼が言った。
「ファビアンさま。けれども私、馬車ですから」
「だとしてもですよ」
有無を言わさぬ、彼の口調。
「この街ではいま、厄介な事件が起こっているのです」
彼の口にした、事件。それはおそらく、ニコラが追っているダヴィッドの――ひいてはこの街で起きているという『連続失踪事件』のことだろう。犯人も、動機も、被害者たちの関連性も不明。そもそも『事件』という呼称が正しいのかどうかすら、それすらも定かではないという怪現象だ。街の中がどことなくぴりぴりしているのも、そのせいだろう。注意するに越したことはないのは、私にも理解できる。それでなくとも女性の一人歩きが危険なことくらい、判っている。――けれど、けれど私は。
「表までお送りしましょう。さあ、マドモアゼル」
紳士な彼の、エスコートを受ける。あくまでも紳士的な、彼の振る舞い。けれど私は別れたくない。次会う口実も作らぬままに、このまま別れてしまいたくない。
だから私は、口走った。
「私では」
考える間もなく、勢い任せに言葉を走らせた。
「辞めてしまわれた方の代わり、私では務まりませんでしょうか」
ファビアンさまが初めて、驚かれたような顔をされる。
「あなたのような方にお願いする仕事では――」
「そのようなこと」
ファビアンさまの手を、両手に握る。
「生命を救って頂いたのです。きちんとお返しをしなければ、家の名に傷をつけてしまいます」
熱を込めて、離さぬように。
「ファビアンさま、どうか」
どうか。
「……思ったよりも、貴方は頑固な方のようだ」
固く握った私の手を、自由な側の彼の手が、労るように解きほぐす。そして彼は、初めて出会ったあの時のように膝をついて、やわらかに私の手を取って――。
彼の唇が、私の手の甲に、触れた。
「『ユィット・サン・パルファム』へようこそ、マドモアゼル」
――痛烈に、思った。手の甲から広がるかつてない欲求の熱に焦がれながら私は、ただただその一事に支配された。
私は――私はこの人のことが、知りたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます