DeuX

「ほう、ではファビアンさん。あなたも調香師なのですね」

「ええ。一流と呼ばれる先達には遠く及ばぬ、まだまだ未熟な若輩ですが」

「ご謙遜を。先程の技、あれは見事なものでした。あんな真似ができる者など、『オドレイユ』広しといえどあなたを置いて他にいないでしょう。あれはいったいどのような魔術をお使いになったのですか」

「魔術ではありませんよ、ムッシュニコラ。あれはれっきとした、科学です」

 言って彼――ファビアンと名乗った紳士は、深々とした紫色のぶどう酒に口をつける。――完璧だと、私は感じた。所作振る舞いのそのすべてが、余りにも理想的な完璧を体現していると。とても信じられなかった。このように完璧な人が、まさか平民の出であるだなんて。「ご存知ですか。視覚、聴覚、触覚、味覚――そして嗅覚。俗に五感と呼ばれる人体の機能において、脊椎を経由することなく直接その信号を脳へ送るのは、ただ嗅覚だけであると言われていることを」

 白色テーブルを囲んでいま、私たちは食事を取っている。私を助けたお礼にと、ニコラが選んだ店で。それは入店するにも限られた資格が必要となる高級店で、客の側にも厳格な一挙手一投足が求められる場所であった。それは幼児期からの躾を受け、社交界に揉まれながら身につけていくといった長期の教育を必要とするもの。こうした上流社会の作法を、彼――ファビアンは完全に理解して、実践していた。平民出だという、彼が。そんなことが、本当にありえるものだろうか。

「脳の中でも古い脳――理性や思考ではなく、もっと原始的な欲求を司る部位と、嗅覚は直につながっているのです。故に嗅覚は、本能と最も強く結びついた感覚であると昨今では考えられているのですよ。深い、深い……イドにも等しい衝動と」

 胸に差した緑の一輪。その身に引き寄せられた時に感じた――匂い。

「ですから匂いを極めた者は、感情を制御することすら可能になるのです。臆病な心には戦意を起こし、怒りに呑まれた感情には平穏を呼び込むように――」

「つまり」

 吸い込まれるように、見つめてしまう。

「あなたは先程の暴漢を、匂いによって手なづけたということですか?」

「ええその通りですよ、ムッシュ」

「いやはや……あなたの話は大変興味深いな。それに、恐ろしくも思う」

「科学とは神秘を拭い去り、人間が唯の物質であると証明するもの。恐ろしく感じるのも当然でしょう」

「それですよ、あなたは余りに科学的だ。あなたの話を聞いているとまるで、高名な教授の講義に耳を傾けている気分になる。失礼かもしれませんが、伺わせて頂きたい。あなたはなぜ、調香師という職に甘んじておられるのか。あなたのような人であれば、もっと適した仕事があるように思われますが」

「簡単なことですよ」

 ファビアン。

「再現したい香りがあるのです。忘れることのできない、私にとって唯一無二の香りを」

 ――さま。

「ところで」

 心臓が、どきりと跳ねた。彼の目が、その細く深い切れ長の目が、私に向けられて。

「マドモアゼル、お加減でも優れないのかな」

「え」

「せっかくのお食事に、手を付けておられないご様子でしたから」

 ばくばくと、心臓が暴れた。ああ私は、なんて愚かな女なのか。食事も忘れて、彼に見入っていただなんて。まさか勘付かれてはいないだろうけれど、でも、この真理すら見通してしまいそうな目には、もしかしたら。ああ。

「いえ、その」

 どうしたものだろう。どう答えたものだろう。彼だけでなくニコラまでもが、訝しげな視線を投げかけている。ああ、私は何をしているのか。このようにはしたない思いを――まるで一端の人間のように抱くだなんて。ああ、ああ。

「まだ、ショックが」

 言って私は心意の顕となった面を隠すように、顔の前へと手を掲げた。わざとらしくはないだろうか。児戯に等しい謀略を、見抜かれてはいやしないだろうか。指の間の隙間から、緑の薔薇の彼を見る。

「それは配慮が至りませんでした。そうですね。お心尽くしは充分に頂きましたし、本日はこれにて――」

「いえ!」

 店の中に、私の声が響き渡った。ウェイターや上品な身なりをした人々の視線が、非難を帯びて私に刺さる。すぐ隣に座るニコラも、不思議そうな目をしていて。

「……いえ、大丈夫でございます。もう、収まりましたので」

 消え入りそうな声で私は、ようやくそれだけ絞り出す。彼は――ファビアンさまは何も言わず、あの仄かに口角の上がったアルカイックスマイルで私を見つめていた。私はずっと手を付けていなかった料理へと、視線を落とす。

 後はニコラとファビアンさまが、二人で会話を続けられていた。ニコラが先に言ったようにその博識ぶりと佇まいは、一介の調香師とは到底思えなくて。

「そうなのですか。こちらへはいつまで?」

「ニヶ月ほど。我が家へ入られる前の、最後の思い出作りをして頂こうと思いまして」

 私へと向けられた彼の問いに、ニコラが答える。私以上に私の事情を把握しているニコラが、私の意思とは無関係に決められた期限を口にする。

「ああ、そうでしたか。であればマダムとお呼びするべきでしたね」

 私が人のモノであることを、暗にニコラが彼へと示す。彼もそれを汲み取って、私への呼称を相応しきそれへと変える。マダム。マダム。ああ、なぜ。なぜこんなにも胸が苦しいのか。私がモノであることは、定められた運命だというのに。私もそれを、受け入れていたというのに。どうして私は。どうして――。

「機会があれば私の店へお寄りください。できる限りのもてなしをさせて頂きますので」

「ええ、機会があれば」

 食事を終え、店を出て、外に待たせた馬車の前で、私たちは社交辞令の挨拶を交わす。ニコラが馬車へと乗り込む。「さあ姉上」と、手を差し出してくる。私はそれをつかもうと手を伸ばして――けれど伸ばしきれず、躊躇って、中空で指先を漂わせ。ファビアンさまへと向き直って。

 私。ああ、私。

「あの」

 許されるならば。

「その」

 もう一度、もう一度貴方に。

「私――」

 お会い、したく――。

「……いえ、本日は本当に、なんとお礼を言えばよいか」

「よいのですよ、マダム。貴方のような方に何かあっては、国家にとっての損失だ」

 ニコラが私を呼ぶ。もう引き延ばせない。会釈をして、彼に背を向ける。伸ばされたニコラの手を取って、馬車へと乗り込む。御者が馬へと、手綱を振るった。車輪が回り、動き出す。彼の姿が、ファビアンさまの姿が離れていく。小さく、小さく離れていく。届かない場所へと、本来ありうべき私達との距離へと――。

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