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「やあやあ姉上、香りの都『オドレイユ』にようこそ!」
伸ばされた手を取り、馬車を降りる。途端、様々な香りが一斉に、鼻孔を過ぎて目の裏までも潜り込んできた。その雑多な匂いの混沌に、くらりと一瞬目がくらむ。足から力がそのまま抜けて、支えを失い倒れかける。けれど、倒れはしなかった。腰をつかまれ、私を支えるその人によって、私は無事に足を下ろせた。
「……ありがとうございます、ニコラさま」
「いやいや姉上、“さま”などと他人行儀な。ボクのことはニコラと気兼ねなく」
「いえ、それは……」
言って私は、眼の前の男性を仰ぎ見る。兄たちに比べ、女性的な相貌。まだ微かにあどけなさを残しながらも、その目と所作振る舞いには漲る自信がありありと溢れ出ていて。こぼれかけた言葉を、伏せる目とともに私は飲み込む。
「長旅、お疲れでしょう。すぐに部屋へと案内致します。ああそれとも、お食事の方を?」
「ニコラさまのお考えの通りに……」
「では部屋へ。この街一番のものを用意致しました。きっと姉上にも満足頂けるはずですよ!」
宮殿もかくやといった豪奢な装飾が施された宿はある種の威圧感さえ備えており、圧迫感に息苦しさを覚える。それは案内された部屋も同じで、この後何日もの間ここに滞在しなければならないことを思うと、息の詰まる思いがした。
「夕食時には迎えを寄越しますので、それまで暫しご休憩を。明日には街をご案内致しますね!」
嬉々とした様子で話を続ける彼に私は、「よしなに」と返す。よしなに、よしなに、よしなに。逆らわず、すべてを彼に任せきる。「ああ、そうです」と、彼がつぶやいた。彼が近づいてきた。彼に引っ張られた。抱かれた。女性的な容貌に見合わぬ男性を感じさせる濃い匂いが、私を覆う。
「ご安心ください姉上。兄上は必ず、このニコラが見つけ出して差し上げますから」
自信に満ち溢れた声色が、耳元でささやかれる。きつく、固く、とても敵うことはないと知らしめるような強さに捕らえられた私は、「よしなに願います」とだけ、かろうじてこぼした。
『よいかレア、ニコラ殿の機嫌を取れ。我が家の誠実をお前が示すのだ』
父からの手紙。慌てた様子の悪筆は至極読みづらいものであったが、その意味するところは明白だった。モラリアム家次男、ダヴィッド。彼がこの街『オドレウム』でその消息を絶ってから、既に三月が経過している。捜索は継続されているものの、その生存は既に絶望視されていた。そしてそれは自動的に、私レアの縁談破棄へとつながる。
父にはそれが認められなかった。“伯爵”の名を利用して新たな取引に手を出していた父にとって、認められることでは到底なかったのだろう。故に父は様々な工作を駆使し――その一環として、私をこの街へと送ったのだ。
モラリアム家現当主リュドヴィック伯の末子ニコラは、未だ独り身。“例えダヴィッドが死亡していようとも、ニコラとの縁談を組めればすべての問題は解決される”。父はそう考えていた。それも当然のこと。父にとって大事なのは個人ではなく、そこに付随する価値なのだから。
そしてそれは、私にとっても同じこと。モノに所有者は選べない。ダヴィッドだとしてもニコラだとしても、そこに変わりはなんらない。私はただモノとして、所有者の機嫌と企みにこの身を任せることしかできないのだから。それが決められた、定めというものなのだから――。
「いかがですか姉上、この街並み! 美しいとは思いませんか」
「はい、華やかに感じます」
「本当に香水店ばかりでしょう。一説によれば『オドレウム』とは八〇〇年前、時の教皇が主導して作り上げた街なのだそうです」
「教皇さまが」
「そうです、教皇猊下が。彼はその威光と神聖性を追求していく上で香りの重要性に着目し、相応しき香りを生み出すよう民に競わせ、それが現在のこの街の有り様につながっているのだとか」
「それは、悠遠な話でございますね」
「そうでしょうそうでしょう! この『オドレウム』が現在産出する香水量はなんと、教会圏の六割近くに登るというのだから驚きです」
「まあ」
得意気に語り続けるニコラの話に、適時相槌を打ち続ける。石畳の上を駆ける街馬車のバルーシュで、話者は常に彼一人、聴衆はいつでも私一人。街と香水に関する蘊蓄が、尽きることなく講義される。
「かように、この『オドレウム』の香水は歴史も品位も格別に優れたものなのですよ」
「感服いたしました。とても素晴らしいものなのですね」
「ええ、それだからこそ姉上に差し上げたい」
言ってニコラは懐から、ひとつの小瓶を取り出した。金やダイヤで装飾された、麗しき橙。馬車の揺れに伴って、半透明なその裡で艶やかな液体が水滴を上げる。
「これ一瓶で大型帆船が三隻は用意できる、よりすぐりの一品です。姉上、どうか」
手をつかまれた。つかんだ手の上に、彼の手が重ねられた。彼と私の手のその中心に、橙の小瓶が収まる。
「ニコラさま、けれどこんな……」
「いいえ、受け取って頂きます」
彼の手が、微かに私のそれを撫でる。
「ですが、このように高価な……」
「一足早い祝いの品と思って。姉上。どうかこのニコラに、兄夫婦を祝う歓びを賜らせて頂けませんか」
馬車の中で逃げ場なく、彼の身体が私に迫る。穏やかな物言いで、けれども有無を言わさぬ圧を伴い。
「……謹んで頂戴致します、ニコラさま」
「ああ、ありがとうございます。姉上に受け取って頂き、ニコラは感無量です」
馬車が止まった。先に降りたニコラが、私の下へ回って手を伸ばす。それを取って、私も降りる。目の前には、巨大で壮麗な建造物。ニコラの話していた場所。ここが『オドレウム』の、そしてこの管区の中心に位置する教会であるようだった。
「また貴方ですか。私共は何も知らないと、もう何度もお話したはずですが」
「いいえ、司教猊下。今日は別の用で参りました。姉上、こちらはシモン猊下。この素晴らしき『オドレウム』の街の、実質的な指導者であられる方です」
「過度な煽ては却って不遜です、全く忌々しい。……して、そちらの御婦人は?」
ぎょろりとこぼれだしそうなほどに浮き出た双眸が、私へと向けられる。私は何も言わない。私が何を言うまでもなく、ニコラが私を紹介する。兄ダヴィッドと婚約されている、レア女史であると。そうしてようやく私は、「御機嫌よう」と頭を下げる。
司教はそのまましばらく検分するように私を見つめていたが、やがておもむろに胸の前で十字を切ると、神の使徒らしき厳かな声で祈りを捧げた。
「貴方と貴方の伴侶に、神の御慈悲がありますよう」
「お心遣い、痛み入ります」
「そういうわけで司教猊下、ボクは姉上に教会の中をご案内したいのですが、ご許可を頂けますか」
「教会の門戸は常に開かれています。ご自由になされば宜しい。ですが――」
司教の浮き出た目が、一点を見つめる。私もそちらを見る。講堂の奥。伽藍に坐した、聖母の像。聖なる息子の下僕となった、母子の形。
「外からいらした方には通例として、聖母像への礼拝を推奨しております。まずはそちらから始められては如何か」
シスター。司教が声を張り上げると、前髪を清楚に切りそろえた女性が小走りに駆け寄ってきた。シスターが「こちらへ」と、朗らかな声で私を誘う。ニコラを見る。紳士然とした様子で彼が、行動を許可するジェスチャーを取った。私はうなずき、シスターの後を追って講堂の奥へと入っていく。
「むずかしいことはありません。聖域に満ちた聖なる気を胸へと吸い込みながら、神と、メシアと、メシアを抱く聖母さまに祈りを捧げるのです」
そう言って彼女は手本を見せるように跪いて、目を閉じ、両手を重ね、聖母像へと祈りを捧げ始めた。私もそれに倣い、跪いて目を閉じ、両手を重ね、祈りを捧げるその真似事を行う。そして彼女が言っていたように呼吸を意識し、辺りの空気を胸の奥へと吸い込んでいく。
私は、熱心な正教徒ではない。増加の一歩をたどる進歩的な人のように積極的に信仰を否定するつもりもないが、かといって心から神や教会の教えを信じているわけでもない。産業が振興し、科学が奇跡のうそを次々暴き出していることは、箱庭に閉じ込められた私の耳にも届いている。
無垢に信じ続けているには、神は余りにも馬脚を現しすぎた。それに――それに私はこれまで、神様に救われたと感じられたこともない。そしておそらくは、我が母も。神はいるのかもしれない。しかし仮に存在したとして、私は神に、なんらの期待も寄せてはいなかった。
……けれど、なぜだろうか。奇妙な感覚が、全身を包んでいた。これまで味わったことのない心地。浮き上がった自分が自分を離れて、あらゆるものを俯瞰的に眺めているような、そんな浮遊感。一切の重みから解き放たれた、幸福な夢の中のような。
礼儀の一環として礼拝に参加したことは、これまでにも幾度もあった。しかしこのような感覚を味わったことは一度もない。鼻から息を吸い込む。清涼な空気――仄かに感じる香りが、胸の内に溜まる。不思議な――あるいはこれこそが神秘というのか――気分に、どろどろととろけていくような気がする。それがなんとも、心地良い。このままずっととろけて、とろけて、私がなくなるまでとろけて――。
夢見心地から、乱暴に引き剥がされた。
「シモォォン!!」
身体が強張る。がなり声。父を、彷彿とさせるような。それがすぐ側――耳元から聞こえてきた。私は立ち上がっていた。無理矢理に、力で立ち上がらせられていた。背後には、密着した男。乱暴に私を拘束し、喉元には――刃物。
「姉上!?」
「近づくんじゃねぇ!」
喉元に当てられた刃によって、肉がへこませられたのが判った。
「話ならば聞きましょう。ですからその方を解放しなさい」
「全部知ってんだ、全部知ってんだぞ俺は!」
獣のように荒々しい獣臭が、鼻孔を漂う。
「何を知っていると言うのですか。あなたの要求はなんですか」
「しらばっくれんじゃねえ! 何度も……何度も何度も俺は陳情した! 何度も訴えた! それを尽く無視してきたのはてめぇらじゃねえか!」
興奮が、体臭を通じて感じられた。
「なんのことやら。私の耳には入っていませんね」
「返せって言ってんだよォ!」
「返せ? 我々が、貴方に? 失礼だが、貴方はなにやら誤解されているようだ。貴方のような身分の者から盗るものなど、我々には存在しやしませんよ」
「俺の娘を! お前らが! 誘拐したんだろ! それを返せって言ってんだよ!!」
男の怒りが、我が事のように感じ取れた。
「それこそお話にならない。我々は聖職者、聖なる庭の住人です。そのような神の御意志に反するような真似を、どうして行うことができましょうか」
司教の落ち着き払った声が講堂内を振動させる度、臭いが濃くなるのが判った。
「刃を下ろしなさい。懺悔し、己が罪を悔い改めるのです。さすれば神は、必ずや貴方をお許しになることでしょう」
そして、判った。この先に起こる運命が。
「うぅ……ちくしょう、ちくしょう……」
この男の所有物として――。
「ちくしょう――!!」
壊されるのが――。
「まっ――」
私の運命――――。
軽い硝子の、割れる音。
「お怪我はありませんか、マドモアゼル」
緑の薔薇が、胸に一輪。
目を開けて、最初に飛び込んできたのが、この落ち着いた緑の色彩だった。視線を上げる。人の顔。細く深い切れ長の目に、仄かな口角のカーブ。まるで彫刻のように奇妙な均整を保った紳士が、私の目の前で膝をついていた。
背後を振り返る。男がいた。私を人質とし、怒りのままに猛り狂っていた男。あれほどの狂態を晒していた男がどういうわけか、いまは完全に沈黙していた。
「おすわり」
言われて男が、その場に座る。焦点の合わない視線で虚空を見上げ、口の端からは唾液を垂らして。まともな様子ではなかった。いったい、何が。彼の直ぐ側には私の喉元に突きつけられていた刃物と――あれは……砕けた香水の、瓶?
「確保!!」
いつの間にか集結していた番兵たちが、怒涛の勢いで私の背後の男に突撃していった。その勢いは凄まじく、触れたわけでもないのに私は煽られ、体勢を崩してしまう。
「おっと」
紳士の手が私をつかみ、引き寄せた。緑の薔薇のそのすぐ横に、私の頭が押し当てられる。ひんやりとした紳士の熱に、生の鼓動。仕立ての良い衣服の感触に、そして――匂い。
私は「あ」と、意図せぬ声を漏らしていた。
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