ユィット・サン・パルファム

ものがな

OuverturE

 母は所有されていた。

 奴隷であるという意味ではない。傅く侍従という訳でもない。綺羅びやかなドレスに身を包み、美しく、その芳香すらも人工的に彩られた母は男爵夫人として、農民や平民から羨望と嫉妬の視線を投げかけられる立場であった。

 贅沢な食事をし、典雅な余暇を楽しみ、飢えも渇きも泥に塗れることも知らない、自由の表象たる神聖貴族。ただそう在るだけで絶大な権威と権力を有する存在。選ばれし者。けれど――それでも母は、所有されていたのだ。

「貴様!」

 怒鳴る父。母を足蹴に、父が叫ぶ。

「この瓶一本で貴様が何人買えると思っているのだ!」

 うずくまった母を、父の巨足が踏みつける。顔以外を。顔だけは傷つけないように。母を慮ってのことではない。父が気にしているのは、ただ一点。母の価値。装飾品としてまとう母の、美貌という名の価値を落とさないこと。

 母はモノだった。所有されるモノ。精神なき物品とその価値を並べ比較される、数多ある資産の裡のひとつ。物体。人ではなく。意思は求められず、言葉は求められず、愛すらも必要とされず、ただその美貌の維持だけが彼女の存在意義。実存に先立つ本質。モノの価値。

 そしてそれは、母自身も理解していること。

 過ち割った香水瓶。そのむせ返るような匂いの中心で、モノの彼女は所有者の折檻をただただ無表情に受け入れて。うつろな瞳は、何かを感じることも、思うことも放棄したその瞳は、目の前の出来事を視界に入れながらもしかし、何物も捉えていないように見え。子を産み、経年によってその美貌に陰りを帯び始めた母は、正しく朽ちかけ始めたモノで。

 私も同じ。

 私もまた、父に所有されていた。嫁として他家に送り出す商材として、その価値を義務付けられたモノ。最も適した機会に、最も都合の良き標的へと、美貌という名の価値での交渉を迫るために用意されたモノ。父という所有者の下から、見知らぬ誰かの下へとその所有権を委譲されることが決まっているモノ。

 動かぬ母。声を上げることを忘れた母。うつろな瞳の、モノの母。この母の姿は、未来の私の姿。いずれ必ず訪れる、そう遠くない未来の私。どうしようもないほどに運命づけられた、未来の私。モノの、私。私を持たない、私――。


 一〇余年の歳月が過ぎて今、神の定めた運命が私を導く。モラリアム家の次男、ダヴィッド。伯爵家に名を連ねる彼が、私の新たな所有者に決定された。異例の速さで婚約の儀を取り交わした父は私を連れてほうぼうへ、挨拶回りに精を出す。モラリアム伯爵の名を、幾度も幾度も口にしながら。

 父は私に言った。「レア、お前は孝行な娘だ。お前のおかげで我が家にも箔が付いた。アレにお前を産ませて正解だった。レア。お前は本当に、孝行な娘だ」。母は何も言わなかった。年老い、価値を損じた彼女はいつものあのうつろな瞳で、何を見るでもなく虚空を見つめたまま動かないで。ただ匂いだけが変わらず、人工的な彩りが取り巻く環境と一体化して、強く、おぞましい悪臭を放って。きっと今の、私と同じように。今に私も、同じように。

 ああ、なんて、嫌な臭い――。


 そして、婚儀の式を二週間後に控えたその日。

 我が夫<所有者>となる男が、失踪した。

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