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「甘いものはお嫌いか」

「いえ、けしてそのような……」

「私は好きです。むしろ甘いもの以外、この世に不要だとさえ思っている」

 眼の前の光景を眺めながら、それは確かに本心なのだろうと納得する。ここは彼、『オドレウム』教会管区の長であるシモン司教の執務室。厳しい彼の様子に相応しく一片の隙も感じられない室内は強迫的なまでに整頓されており、主の神経質な性向を一層際立たせている。

 ただこの卓上が、彼と囲んでいるこの卓の上だけが部屋の雰囲気にそぐわない、異様な空間となっていた。そこには婦女子の好みそうな色とりどりの洋菓子が、所狭しと並べられていて。それら色とりどりの洋菓子が次々と、この両の目を飛び出させた厳格な司教の胃袋へと収められていく。それはもう、嵐のような勢いで。

「甘いものを食べると癒やされるのです。私の仕事にはストレスが付き物ですから」

「そうなの、ですか」

「貴方も、お嫌いでないのなら」

 何を聞かれるのかと緊張して入った室内でのこの対応に、私はすっかり意表を突かれ。彼のペースに乗せられて、切り分けられたショコラケーキに口をつける。仄かな苦味と、とろけるような甘み。癒されるというのも、判る気がする。

「猊下、それで私に話とは……?」

「先日、配下の者から報告を受けました」

 洋菓子へと伸ばす手はそのままに、私たちは話を続ける。

「貴方とあの若者が、多くの店を不当に貸し切っていたと」

「ああ、それは」

 ニコラが行ったあの、私を着せ替え人形とした。

「貴方方の土地ではどうか知らないが、ここは『オドレウム』。ここにはここの法があるのです。あのような利己的な行い、どうか謹んで頂きたい」

 厳しさを感じさせる彼の物言いとは裏腹に、その口にはカラフルなマカロンが三個同時に放り込まれて。

「それに聞いたところによれば、貴方とあの男とはずいぶんと親しげな様子であったとか。貴方は既に婚約を控えた身でしょう。いくら義理の弟が相手とは言えそのように隙のある態度、如何なものか」

「猊下、しかし私はそのような――」

「私は風紀の話をしているのです。『オドレウム』の民に悪影響があってからでは遅いのですから。それとも――」

 垂直に立てられた銀のフォークが、硬いタルトを押しつぶし。

「まさかとは思いますが、彼に特別な感情でも?」

 砕き割り。

「いえ、いえ、そのような。そのようなことは、ありませんが――」

「ありませんが?」

「ニコラの方は、もしかしたら――」

 少しずつ啄んでいたショコラケーキの最後の切れ端へとフォークを突き刺し、はたと気づく。このようなことまで、なぜ話して。

「いえ、猊下。どうかお忘れください。私の口から漏らすことではありませんでした」

「いいでしょう。一聖職者として、いまの言葉は私一人の胸に秘めておくと約束します」

「痛み入ります」

 卓上の洋菓子を一人であらかた片付けようやく満足したのか司教は、几帳面そうにナプキンで口の汚れを拭っている。

「しかし猊下。なぜこの話、ニコラにではなく私に?」

「あの男とは顔を合わせたくありません」

 そして司教は側に仕えた従者を呼び、何事か耳打ちを始めた。畏まった様子で会釈した従者が、無駄のない動きで部屋から出ていく。

「忌々しい若造が……事もあろうにこの私に疑いの目を向けるなど」

「それは、私を人質に取った男が叫んでいたようなことを、でしょうか」

『娘を返せ』。そう叫んでいた、あの男の。しかし私がそう言うと、シモンはその飛び出た目でぎょろりと私を睨みつけて。

「あのような世迷い言に耳を貸しては、品位を落としますよ。貴方も、貴方の家の名も」

「いえ、そのような。もちろん信じているわけでは」

「当然です」

 廊下から、扉を叩く音が聞こえてきた。司教の合図によって、扉が開く。そこにいたのは、先程部屋から出ていった従者のようだった。従者は恭しい様子で私達の前に立ち、熱い湯気の立つティーカップを並べる。どうやらシモンは、これを淹れるよう従者に指示したらしい。

「どうぞ」と促す司教の言葉に従い、置かれたそれを私は手に取る。口をつける前に、その香りを嗅ぐ。

 緊張が、走った。

「猊下、この香り」

 シモンが、その飛び出た目で私を観察している。

「この香りは、講堂のものと同じ?」

 努めて冷静に、問いかける。

「鋭敏な嗅覚をお持ちのようですな」

「心地良く感じられて。鼻が覚えていたのです」

 口をつける。口をつけて、カップを少し傾ける。それだけ。飲みはしない。飲んでいるように見せかけて、そうして「おいしゅうございます」と、カップを下ろす。かちんと受け皿が、硬い音を立てる。

「シモンさま、ひとつだけお聞きしても宜しいでしょうか」

 シモンは、自身の前に置かれた紅茶に口をつけなかった。その素振りすら見せずに、じっと私を見つめていた。じっと。私の身に起きるはずの現象を待ち受けているかのように、じっと、じっと。

「ファビアンという――調香師の方をご存知ですか?」

「さあ、まったく」

 うそだ。

 彼の下で働いてきた私には断言できる。講堂の――そしてこの紅茶に含まれている香りは、ファビアンさまの香水とそのベースを同じくしている。“人の意識を操る、その匂い”が。

『今回は一〇と三ほど確保した。そちらは幾つほど入用か』

 ファビアンさまへと届けられるはずだった手紙の、その文言。娘を失った男。リュカという少年。同一性。香水。香りの、記憶。思考の中でつながった点と点が、急速に答えを導き出していく。シモンが、そしてファビアンさまが何を行っているのか――彼が本当は、何を目的としているのか。

「今日はごちそうさまでございました。叱責頂いたことはニコラにも必ず伝えますので」

 一刻も早く確かめなければならなかった。彼の行いを、彼の正体を、私は知らねばならなかった。ファビアンさまを私は、知らなければならなかった。

 ファビアンさまを知り、そして、私は――。

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