第2章43話 ボーイ・ミーツ・ガール②

 遺跡の崩落は終わり、ニアも無事助け出した。

 テルとニアがいた場所は、全てが崩れたわけではなく、辛うじて遺跡としての形を残していたため、二人は奇跡的に生き埋めにならずに済んだ。


 テルたちより後方の遺跡は、完全に崩れ落ちており、少し顔を上げると青空が覗いている。完全に危機を逃れたわけではないが、なんとか生還することはできるだろう。


 二人は安定している足場に降りると、自分の命があることを確かめるように息をつくが、ニアはすぐさま血相を変えてテルに迫った。


「どうしてあんな危ないことをっ……!?」


 落ちるニアを助けるため、我が身をも投げ捨てたテルの無謀。

 テルが地面に身を打ち付けなかったのも偶然だし、遺跡が形を辛うじて止めていたのも紛うことなき幸運だった。


 しかし、ニアは口にしてすぐに気づく。自分の足で帰還することを諦めようとしたのだからテルを責め立てる資格など持ち合わせてはいないのだと。


 自分の命を放棄したニアが、どうして他の命を粗末にする人を責め立てることができるだろうか。


 そんな当然の条理を思い、ニアは何も言えなくなって口を噤んだ。


 しかし、テルは、


「無事でよかった。ほんとによかった」


 こちらの様子などまるで意に介さず、ニアを見て心から安堵していた。


「私が無事かどうかなんて―――」


「関係なくないよ。まあ、俺の無事もそうだけど、二人とも無事じゃないと、約束の守りようがないだろ?」


「……」


 黙りこくるニアをテルは不思議そうに覗き込む。

 『約束』という言葉がニアの胸を締め付けた。



―――君は安心が欲しかったんだ。


――――――俺がそれを君にあげるよ。



 テルに投げかけられた言葉を思い出したニアの中で、前向きな感情よりも、罪悪感が膨張した。


 「一緒に帰ろう」と「ごめんなさい」。


 二人の言葉が同時に空気を震わせた。お互いの言葉を受け、テルは黙り、ニアは「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も震えた声で謝罪を重ねる。


「テルが約束を守るために命を懸けて戦ってくれたのに、私は今、簡単に諦めようとした。あんなに頑張ってくれたのに、私はつまらない理由で、それを全部台無しにしようとした」


 握り絞めた手を震わせ、テルの視線から逃げるように俯いたニア。彼女のなかで、偶然の連続から生まれた諦念はこの上ない罪悪になり、またしても自分を責め立てる。


「どれだけあの人の原因が大きくたって、結局は私が、大事ななにかを損なわせてしまう」


 テルとの約束、どんな覚悟であの言葉をくれたのか、ニアには計り知れない。なのに、


「私は、テルとの約束を、言ってくれるまで思い出しもしなかった。やっぱり私は人間じゃないから、最後には誰かを裏切ってしまう」


 絶望の底へ落ち続けるニアの言葉は、自分を拒絶してくれと懇願しているのと変わらない。だというのに、テルは何故か噴き出した。


「ふ、ふふっ、あははは」


 場違いに笑い始めたテルに、ニアは呆けた目を向ける。


「いいんだよ、そんなこと気にするな」


 ニアは信じられない言葉を聞いて目を丸くした。テルの言葉を無碍にしたというのに、それを「そんなこと」と言い捨てたのだ。


「確かに『約束』って言ったけど、そもそもあのときは一方的に俺が言っただけだし」


 ノーラントとの闘いの直前、意思を曲げないニアに投げかけた言葉に、ニアは一言も返事をしなかった。ノーラントを倒した後で強引に押し切るために、返事を待たなかったのだ。


 自嘲して顔を引き攣らせるテルは、そこまで言ってまた柔らかく笑った。その笑顔は当然ニアに向けられている。


「そんな戯言を、君は約束だって言ってくれた。やっぱりニアは優しいんだよ」


「そんなこと―――」


「いいや、君は優しいんだ」


 反射的に否定しようとしたニア。しかしテルは、被せるようにして頑なにニアを肯定する。


「ニアは凄く優しいんだよ。それを知らないのは多分ニアだけだ」


 ―――帰ろう、一緒に。

 

 テルがニアに手を差し伸べた。ニアは怯えるように身を縮ませ、テルの手をじっと見ている。


「……私に、あなたの手を取る資格なんて」


「俺が言ったんだ。君を安心させるって。―――だから、君が嫌がっても俺が掴む」


 資格なんて関係ない。テルはただ、ニアを日の当たる場所に連れていきたいだけなのだと、強引にニアの手を掴むテル。


 ああ、そうか。


―――初めから、君は安心が欲しかったんだ。俺がそれを君にあげるよ。


 その言葉を貰ったときは気づけなかったニアが、今になってやっと理解する。


「君は約束を蔑ろにした訳じゃない。ただ意地を張っただけ。ニアの決意を無視してしつこくついてきた俺と同じだよ」


 ニアの呼吸が震え、体の力が抜けそうになる。

 テルはニアを肯定してくれる。たったそれだけのことなのに、ニアの心はぐちゃぐちゃに渦巻いている。


「人のために悲しんで、怒ることができる君は、誰よりも優しいんだ。人間かどうかなんて関係ないくらいに」


 いつだって、ニアは自分の気持ちと向き合うことを避けていた。辛いことや苦しいことから逃げるために、その他の感情も全て遠ざけていた。他者を傷つけ得る自分が積み重ねた自己否定と自責の咎。それさえもテルはまるまる包み込んだ。


「だからこれは俺の自分勝手な我儘だ」


 その言葉に引き寄せられたように、ニアが顔を上げて、テルの顔を見た。泥と血で汚れた表情で、微笑みを向けている。


「ニアはもう自分を嫌わないでよ」


 テルは、ニアを真っ直ぐに見つめ、訴える。

 私はもう、現在わたしを、過去わたしを呪わなくてもいいんだと。


「みんな、ニアの笑った顔が見たいんだ」


 私は、明日わたしがあることを喜んでもいいんだ。


 気持ちを封じていたニアが、やっと手にいれたのは、自分が死ななかったことに対する安堵だった・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 自身に迫る魔の手を、大切な人達の命の危機を、どうしようもない孤独と絶望を、その全てを跳ね除けて、手を掴んでくれたことで、ニアは心から生きていたいと感じることが―――安心・・することができたのだ。



 絶えず張りつめていた緊張が弛緩して、き止めていたものたちが一気に解き放たれたニアは、へたり込んだまま泣き声を上げた。


「うっ……ううぅ、うぅっ」


「なっ、に、ニア!? どこか痛いところが……いてっ」 


 焦った顔でしゃがみ込むテルは、泣きじゃくるニアに肩を叩かれた。それは反射的に出た言葉で、拳にはほとんど力が込められていない。そんな痛くも痒くもない攻撃を幾度となく受けて、テルは困惑してしまう。


「ニア? だ、大丈夫?!」


「あの時、テルが死んじゃうかと思った……、凄く怖かった……」


「……ああ、ごめん。あれじゃ安心どころじゃないよな」


「―――違う!」


「え?」


 もう一度叩かれたテルが首を傾げると、ニアは顔を上げ惚けた顔のテルの、潤んだ瞳で見た。


 生きている。今、たしかに生きている。ニアはテルに触れる手で温もりを確かめる。

 自分とテルが存在している。それがどうしようもなく嬉しくて、感情のまま、テルの胸に飛び込んだ。


「わっ、ニア!?」


 ニアはテルの胸に顔を埋めながら、もう一度だけ弱々しく叩く。



「たすけて、くれて……ありがとう……」



「……うん」


「めいわく、たくさんかけて、ごめんなさい……」


「いいんだ、そんなこと」


「ごめんなさい……ありがとう……」


 ニアはしばらくテルの胸で泣き続け、その間もうわ言のように、ありがとうとごめんなさいを繰り返した。


 テルの行き場をなくした手は、一度だけニアの肩を撫でで、それっきり地面に手をついていた。ヘタレ具合とこんなときなのにどぎまぎしてしまう自分に呆れつつも、誰も取り溢すことなく終わったことを噛み締めていた。




「……ありがとう、もう落ち着いた」


 しゃくり上げながら涙を拭うニア。少し腫らしたその瞳は、なにかを断ち切ったように真っ直ぐだった。


「子どもたちも待ってるし、そろそろ戻ろうか」


 色々は場所に『オリジン』の梯子を掛ければ、上っていけそうだなとテルは立ち上がるが、思ったように力が入らず、ニアに寄りかかるように倒れた。


「テル?」


 柔らかいニアの胸に受け止められたテルは、全身に力が入らないながらもその原因にすぐに見当がついた。


 体力の限界だ。


 無理を重ねて、誰かに身体を乗っ取られて、その体で更に無理をしたのが今のテルだ。ここまで動いていたのがそもそも奇跡だった。


「ごめん、ニア……身体に、力が」


「うん、あとは任せて。今は休んでいて」


 いや、だめだ。

 ニアの言葉に頭を振って自分を奮い立たせる。


「それだと、俺……かっこう、が……」


 最後まで言い切ることができないまま、テルは眠りに落ちた。何を言おうとしていたのか、なんとなく察しがついたニアは笑みを溢す。


「もう十分格好良いよ」


 寄りかかるようにして倒れるテルの頭を軽く撫でて、そのまま抱き上げたニアは、自分が帰るべき青空を見上げる。


 きっと色々なことが、新しいものとしてニアの周りを巡っていく。そんな世界を少しだけ怖いと思いつつも、期待してしまう自分がいる。


 テルと交わしたもう一つの約束を思い浮かべ、ニアは帰る人が待つ場所へ向かった。

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