第2章44話 約束の続き

「いや、いやいやいや……。俺、格好悪すぎるだろ」


 知らない天井を自覚するよりも先に、自身に対する失望が口から飛び出した。

 目を覚ましたテルは、起き上がると同時に重い頭を抱えた。


 ここは知らない部屋の知らないベッドの上で、そんな風に手で顔を覆うテルを、じっと見つめるのは見覚えのある一匹の小動物。


「えっと、イヴだっけ。って、いたたた!」


 大人しく座っているので、指を伸ばしたところ容赦なくかじられた。

 すこぶる身体の調子が良いが、少しだけ頭が重いことと、痛いけど血が出てない指先からして、ここは天国というわけでもないのだろう。


「なら、多分みんな無事だったんだろうな」


 ひとまずの安堵の息をつくが、テルが向き合うべきは別の問題だ。


 思い出すのは、ノーラントとの戦い。そして、最後のニアと遺跡での一幕だ。

 

「う、うぅ……最悪だ……」


 ニアにあんなことを言っておきながら、結局倒したのはテル自身の力ではなく、テルの体を乗っ取った誰かの力だ。

 しかもその直後、遺跡に取り残されたニアを助けに行って、自分の体たらくを棚に上げて偉そうな言葉を散々口にした。

 挙句の果てには途中で気絶をして今この場所まで、眠り呆けていたという始末。


「穴があったら入りたい……」


 そんなしみったれたことを言っていると、イヴが器用にテルの肩に乗った。


「お前、励ましてくれるの―――ぶふっ!」


 イヴの肉球から繰り出されたパンチが、テルの頬を強烈に叩いた。

 テルはまさか殴られるとは思っておらず、怒りも痛みも置いてけぼりで放心していると、部屋のドアが開かれた。


「おはよう、テル」


 そう声をかけたのはニアだった。

 自然に向けられた微笑みがとても新鮮で、思わず頭がまっさらになり返事が遅れてしまう。


 そして遅れた思考は、無事だったという嬉しさのあとに、顔向けができないという恥を前に押し出した。


「ニア、俺……」


「テル」


 謝ろうと声をあげたところ、ニアがテルの名前を被せて呼んで、目を伏せた。ニアの言葉をテルは怯えるように待つが、発せられたのは予想外の言葉だった。


「私、実はあんまり料理得意じゃないんだ」


「え?」


「皆がおいしいって言ってくれるのは料理本のままで作ってるから。それでも美味しいって言ってくれると嬉しくて……、だから得意じゃないけど、好き」


「えっと、うん」


「自分なりに頑張ってみるんだけど、人に食べてもらう勇気が出なかったの。だから今度食べて欲しいです」


「うん、喜んで」


 唐突なニアの提案を快諾しつつも、一体何の話をしているのかわからず、頭に疑問符を浮かべるテル。


「あと裁縫と早起きが苦手で、この前の高い場所も苦手だったって気づいた」


「うん」


 しかし、ニアの言葉に相槌を打っていると、やがてテルも思い出した。


「やりたいことは沢山あって、まず一番初めに、祭りの日黒泥の被害に遭った人の家族に謝りに行きたい。昔の人達は難しいだろうけど頑張っていつか謝りに行きたいです」


 消え入りそうな弱々しい声でニアが言う。膝の上に乗せられた手には力が込められている。


「やっぱり、すぐには自分を好きにはなれない。でも、だからこそ、私のやってしまったことと向き合って、罪を償いたい」


 震える手と声で、それでも最後まで視線をテルから逸らすことはない。


「これが今の私。ニア・キースエルです。これからもよろしくお願いします」


 そう口にすると、少し恥ずかしそうにして、ニアが手を差し伸べる。


 ―――帰ったら、最初に自己紹介をしよう。


 自分が言ったことなのに、すっかり忘れてしまっていた。きっと、テルが目を覚ますまでの間、色々考えていたのかもしれない。そんなことを思うと、胸が熱くなった。


 差し伸べられた手を、テルが握り返す。すると、ニアは花のような笑顔を咲かせた。


 そんな顔で笑うんだ。そんな感動が浮かぶと、いままで無意識に張っていた緊張が全て解けて、テルもつられるように笑った。


「俺はテル。これからもよろしく」


 テルがそう返すと、握った手に再び力が込められた。

 開かれた窓のカーテンは翻って、その度に明るい陽光が差し込む。イヴはベッドの傍らで退屈そうに毛繕いをしている。


「ありがとう、テル」


「うん、どういたしまして」


「でもまだテルの自己紹介聞いてない」


「うーん、ちょっと考える時間が欲しいな」


 困るようにしてテルが言うと、ニアが可笑しそうにくすくすと笑っている。

 いくらでも考える時間があることを知っているニアは、急かすこともせず、テルが再び口を開くのを待った。




 ーー・--・--・--




「そうかい……それは大変だったね」


「うん。でも皆が助けてくれた」


 ヒルティスの慈しみに満ちた言葉に、ニアは感謝を思い出すように頷いた。

 

 ニアは一人でヒルティスの薬草屋に訪れて、テーブルを挟んで互いに向かい合っている。

 テルたちが帰還して以降、住む場所を失ったニアとテルは、ヒルティスの管理する建物の部屋を借りていた。

 寂しがったセレスは駄々をこねてニアの部屋に転がり込み今日までの三日間居候と化しており、もともといたカインを加え、建物内は予想以上の騒々しさになった。

 騒がしいのを嫌ったヒルティスは、自分の店に籠るようになっていたので、こうしてしっかりと二人で話をする時間はなかなか取れていなかった。


「ねえ、おばあちゃん」


「ん、なんだい」


 ニアよりも遙かに幼げなヒルティスが、似合わない呼び声に、びくりと薄桃色の髪を揺らす。

 無口だったニアにおばあちゃんと呼ばれ、平然を心がけて返事をする。この呼び方は初めて会った頃、無理に呼ばせたものだったことをヒルティスは不意に思い出した。


「おばあちゃん、ここからいなくなっちゃうの?」


「ああ、そうだね」


 すぐに返答をすると、ニアはそれが覆ることない決定だと悟り、寂しさに少しだけ目を伏せた。


「でも、ニアも別の場所に行くんだろう?」


「うん」


「それとも、私と一緒に来るかい?」


 悪戯な提案したヒルティスに、ニアは怯んだように面食らうが、やがて申し訳なさそうに首を振った。


「私はテルと行くって決めたから」


「ああ、それがいいよ。今生の別れじゃないのだから」


 そう言うと、ニアの口元が和らいだ。ほんとうはこんなに表情豊かだったのか、そんな感動に駆られたヒルティスはニアに近寄ると、背伸びをして頭を撫でた。


 触り心地のよい、シルクのような純白の髪。しかし、ニアはなにかに悩むように、視線を細かく動かしている。


「まだなにか、言いたいことがあるんだろう?」


 ヒルティスがそう指摘すると、ニアは、「なんでもバレちゃうね」とはにかんだ。


「……まだ、少しだけ怖いの」


「……」


 時間をかけて発せられたニアの言葉に、ヒルティスは黙って相槌を打った。

 

 ニアは目を瞑り、瞼の裏の何もない世界を訪れる。流れていく思考と、それに付随する幾つかの記憶。それらのずっと奥に意識をやると、顔のないナニカがこちらに視線を向け、口をしきりに動かしている。



 ニアが目を瞑ると、それはいつだって背後に佇んでいる。

 リベリオと二人で住んでいたときも、テルが居候になったときも、ニアの不安が氷解し、生きることに前向きになれた今だって、背後に取り付いたナニカはニアの耳で囁く。


『殺せ、奪え、犯せ』


 そう訴える声は、きっと自分にしか聞こえていないであろうそれは、きっとニアの中にある『呪い』を起因としたものであることは予想がつく。


『壊せ、汚せ、侵せ』


 いくら拒んでも、どれだけ無視しても、消えてくれないその声は、ニアが自分を消そうと思い至った理由の一つでもあった。



「一人になるとね、誰かが私の耳元で『殺せ、奪え、侵せ』って語り掛けてくるの。『壊せ、汚せ、侵せ』って、ずっと」


 僅かに震えた声でニアが口を開く。


「もしかしたらこの声が本当の私で、いつかその囁きを振り切れなくなったらって考えると、やっぱり怖い」


「……そうかい」


 ヒルティスは神妙な面持ちでニアの頭を撫で続ける。


 テルから事の顛末を聞いていたヒルティスは、ニアを攫った不埒者が言ったという言葉を思い出していた。

 『獣の呪い』だなんて、一体誰が言ったのかはわからないが、ヒルティスにはそれが酷く見当外れな名称に思えた。


『殺せ、奪え、犯せ、壊せ、汚せ、侵せ』


 そんな囁きは人間誰しもが持ち合わせているものだ。そして、その誘いを理性で拒絶することこそが、何よりも人間らしい行いなのだと、いずれ自分自身で気づくのだろう。


 明確な答えがありながら、ニアに与えないヒルティスは、髪を撫でていた手で、ニアの透き通るように白い肌の頬に触れた。


「大丈夫。ニアがニアでいたいと思う限り、あなたがその囁きを受け入れることは決してないよ」


 ニアは紅い瞳を震わせる。そして、頬に添えられた手の温もりを閉じ込めるように、自分の手を重ねる。


「おばあちゃん、いままでありがとう。大好き」


「うん、私も大好きだよ」

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