第2章35話 約束をしよう

「本当は来てほしくなかったけど、最後に会えて少しだけ嬉しかった。今度こそ、さようなら」


 もう一度、そして今度こそのお別れを言うニア。

 酷いことを言った自覚はあるし、本来ならば感謝も謝罪もするべきなのに、そんな言葉は一つも言っていない。

 だけどこれでいいんだと、ニアは納得する。


 私を嫌ってくれるなら、きっと今日のことはすぐに忘れてくれるだろう。

 私を憎んでくれるなら、助けられなかったことを悔いることもないだろう。


 そうして、テルが立ち上がって背中を見せるのを待っていたニアの耳朶を叩いたのは、ニアが一番聞きたくない言葉だった。


「最後に教えてくれよ。リベリオはニアに何を教えて、何を与えたんだ? リベリオはニアに何を残せたんだ?」


 痛切な表情のテルが顔を上げた。


 ああ、ずるいな。

 反対に、ニアは湧きあがった感情を隠すように目を伏せる。


 しかし、思い出さずにいれる人はこの世にどれだけいるだろう。



―――自分を殺せないやつが、人を殺せるわけがないだろ。



 昔、ニアとリベリオが出会った頃、かけてくれた言葉。

 ニアはいま自分を殺そうとしているというのは、自分も人を殺しうる存在になろうとしているのか。

 それとも、自分も他者も殺さない選択をするか。

 

 思えば、とても意地の悪い言葉だ。


 今になって与えられた言葉が、覚悟が決まり切っていたニアにまた迷いを与え、心臓は新たな痛みをともなって拍動する。


「どうして命が尊いってわかっているのに、そのなかに自分がいることを認めないんだ」


 肩をぐっと掴んだテルが、ニアの視界を占領する。ニアは自分がかつてないほどに動揺しているのがわかった。その表情がテルの瞳に映し出されている。


「何もいらないのか? なんの未練もないのか? 楽しかったこともやりたいと思った事も全部否定できるのかよ」


 もうやめてほしかった。恐怖と絶望に歪む顔をどうして思い出させるのだ。

 今の自分の表情と、ニアが殺した人たちの表情が、同じ絶望を湛えている。

 そんなことは、気づけないでいたほうが、単純だったのに。


 もう耐えられなかった。ニアにとって幸せを感じさせるのは、不幸への助走でしかないのに、どうしてまたその思い出を引っ張り出して、期待させるのか。


「全部がつまらなくて、本当に辛いことしか思い出せなかったのなら、俺は諦められたかもしれない。でも、ニアの関わった人たち含めて、全部を否定することを一瞬でも躊躇ったのなら、俺は絶対に折れない」


「……ぅっ」


 ニアにとって、あの丘の家で過ごした一年間は、傍から見れば大層なものには見えなかっただろう。

 最大限、全ての事柄に無関心を装った。感動を殺した。誰とも関わらないように心がけた。

 自分と深く関われば、いずれ不幸にしてしまう気がしたから。


 でも、それでも、ニアの人生で、幸福と呼べる時間は、全てあの生活にあった。


 朝起きたときの太陽の温かさ。丘を撫でる風の心地よさ。お菓子の香りに、本の頁をめくる胸の高鳴り。

 そして、テルの運び入れた賑やかさも、リベリオおとうさんの不器用な優しさも、ニアは全部が大好きだった。


「一緒に考えようよ、どうやったら罪を償えるのか、少しでも自分を許してあげられるのか。だから―――」


 その心に嘘はないし、テルの言葉はその気持ちを肯定してくれた気がしてニアの気持を熱くさせた。

 でも、だからこそ、大好きなものを大好きなままでいるために、美しいものを絶対に汚さないために、ニアは涙を流しながら首を振った。


「ダメだよ、それでも私は助けてなんて言えない。私のせいで、あの人がなんの罪もない街の人を傷つけた。私がいることで人が傷つくことも、簡単に人を殺してしまえる私がのうのうと生きていることも、やっぱり私は許せない」




 テルは奥歯をぎり、と強く噛んだ。 


 ああ、そうだ。


 ニアの心の底に溜まった泥濘。それを取り除かない限りニアは首を縦に振ってくれないのだとやっと気づいたテルは、自分の察しの悪さに憎々しさを覚えていた。


 きっと、リベリオはそれを与えることができていたのだろう。ならば、テルのやるべきことはただ一つだ。


 どこか清々しい表情のニアの手を、テルはそっと掴む。


「初めから、君は安心・・が欲しかったんだ。それがないと、君はきっと自分と向き合うことさえ始めることができないんだ」


「安心……」


「俺がそれを君にあげるよ。君のために人を虐げる人がいるなら俺がそれを止める。だから約束しよう、もし君が君の力に飲まれて人を殺したときは、」



「俺が君を殺す」



「……ぇ」


 ニアが小さく声を漏らした。真っ赤な瞳は潤んで、テルだけがそこにいる。

 握られるニアの手に力が込められると、テルはその柔らかく温かい手をそっと離した。


「ああ、でも口先だけじゃ信じられないよな。―――だから、手始めに」


 自嘲したように立ち上がったテルは振り返る。

 テルに敵を止める力があると、ニアを殺すことができる力があると、ニアに納得してもらわなければなにも始まらない。


 そうして、睨んだ先には、侮蔑と嘲笑が入り混じって笑うノーラントが立っている。


「あいつをぶっ潰して、証明する」


「程度の低い冗談だ。つまらないを通り越して不愉快極まりない」


 両者から立ち上る殺気。

 テルは『オリジン』の剣を握り、ノーラントは幾つもの黒泥の球を周囲に浮遊させた。


 今、ニアをめぐる最後の戦いの火ぶたが切って落とされた。

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