第2章34話 自責と我儘
「私は私を殺す。それで、全部を終わらせる」
ニアの言葉は、酷く重々しい静謐を礼堂に呼び込んだ。
イヴと呼ばれた小動物は、耳をぴんと尖らせて、ニアの足元に座る。
ニアは、真っ直ぐテルの顔を見て、自分の目論みを明かした。その言葉に陰りはなく、自棄とは違った覚悟を証明するかのようだった。
「……それは、ニアが人を殺したから?」
「……」
驚きで頭が真っ白になったテルは、次に言葉を開くのに時間を要した。しかし、やっと絞り出した問いかけにニアは口を閉ざす。
答えるまでもない、と言うようなその表情に、テルは息を飲んだ。
突きつけられた自死の決意に、テルは取り乱し始めた心を必死に押さえつける。
―――もう誰にも迷惑をかけたくない。
―――私は嘘つきで人殺しのバケモノ。もともと誰かと一緒に生きてくことなんで許されなかった。
―――私は私を許せないし、私が此処にいてはいけないことを一番よくわかってる。
家が燃えた夜、自身をバケモノと貶めるように口にしたニア。だが、テルにはなにがニアにそこまで言わしめるのかがわからなかった。
「ニアの意思で殺したのかよ」
「私の意思で殺した」
出来る限りの冷静を装うテルに、ニアは迷いなく即答した。
問答を重ねれば重ねるほど、突き放された距離が大きくなって、二度と手が届かなくなってしまうような予感がテルを満たす。
「ニアが殺したいと思って殺したのかよ!」
ノーラントに告げられた、ニアの人を
「そんなわけない……」
口を小さく開閉して、消え入りそうな言葉とともに
しかし、次の瞬間にはとめどなく涙を流しながら顔を上げ、思いっきり首を振って否定する。
「人の命が一つしかないって、失くしたら取り戻せないものなんだって知っていたら、初めからそんなことしなかった、したくなかった!」
次第に大きくなるニアの悲痛の叫びが礼堂に木霊し、ニアの足元にはぽつりぽつりと雫の跡ができている。
感情を剥き出しにしたニアは、脈打つ心臓の音が痛いくらいにうるさくなって、胸を手で押さえ、
「私が苦しいのを我慢すればよかったのに、人の命より自分が楽をできる方を選んだ」
ニアの震える吐息が聞こえる。
「私は、自分のために人を九人もを殺した。そんな
ニアは自己否定を全て語り終えると、力なく視線を落とした。
「もう、帰って」
辺りを満たした沈黙は、ニアの拒絶で破られた。
テルは何も言わずに、ニアに歩み寄ると、膝を付いて同じ目線の高さまで屈んだ。
「なら、教えてよ。君の過去に何があったんだ。何が君をそこまで追い詰めたんだ」
顔を覗き込むように視線を向けるテル。しかしニアは顔を上げようとはしない。
「俺はニアが死ぬべきだなんて思えないよ。だから教えてくれよ、なんでニアはそんなに自分を憎むんだ? 俺は君をなにも知らない、なにを言えばいいのかもわからない。このままだと、誰も君を知らないままだ。……そんなの悲し過ぎるよ」
「……それで、帰ってくれるの?」
ニアは
そうしてニアは話した。自分がノーランドの研究のために生まれたこと。
言葉を知ると同時に、初めて人を殺したこと。
やがて、それがイヤになったこと。
そしてノーラントに、奪われる苦しみを与えるために、あらゆるものを与えられ、その
そしてテルは、ニアの人生が冒涜と恥辱と苦痛に
ニア人生に影を落とした絶望の深さは、テルの想像を絶するほどのものだった。
「帰って」
ニアから何度目かの拒絶が言い渡される。足元で座るイヴがぴくりと反応した。
「帰れないよ」
「……嘘つき」
「帰れるわけがない……!」
拳を握りしめるテルの言葉は徐々に大きくなっていく。
「ニアが悪い訳がないだろ! 拷問までされた上で無理強いさせて、今の話を聞いて誰がニアを責めるんだよ?!」
しかし、思いの丈をぶつけられたニアは、僅かに眉を痙攣させた。
「その言葉を、私が殺した人たちの前でも言えるの?」
「……っ」
「私がいるだけで、誰かが死ぬの。私一人のせいで、大勢が不幸になる!」
テルに引っ張られたように、ニアの語気にも力が込もる。
その中にある怒りは、全てニア自身に向けられているようで、燃える家の記憶が、ニアが手にかけた人たちの記憶が、今でもニアを糾弾し続けているのだと、テルにも伝わる。
「だからって、全部の罪をニアが背負うのか? そんなの納得できるわけがないだろ!」
「納得できなければ、私が
冷え切ったニアの心は助けも慰めも必要としていない。それどころか、利己的な主張をするテルを蔑むように見た。
テルは何も言うことができない。
ニアは視線を落とし、無気力な手でイヴを撫でた。イヴは心地よさそうにするが、垂れさがった耳はニアを案じているようだ。
「……ほかに選択肢はないのか?」
ただニアを助けたい。その思いを本人から頑なに否定され、両腕をだらんと伸ばしたテルが、苦々しい声で尋ねる。
「もう決めたから」
「ほんとうにニアが死んで全部解決すると思うのかよ」
テルが訊いたのはノーラントのことだ。例えニアが死んでも、あの男が他者を傷つけるのをやめるとは思えない。
だがやはり、ニアに逡巡をする余地は残っていない。
「あの人との決着は、ちゃんとつける」
「……」
ニアの燃えるような深紅の瞳が僅かに揺れる。
テルは察してしまった。ニアは最後の殺人としてノーラントを殺し、そのあとで自分も死のうとしているのだ。
「だったら、俺が―――」
そう声に出したところで、テルは自分の言葉が軽薄だったと気づいた。
「それだけじゃないよ。知ってるでしょ。私の中にある『呪い』を。あんなものは存在してはいけない。いつこれが抑えきれなくなるか誰にもわからない。危険な私は存在するべきじゃない。そうでしょう?」
テルならきっとそう言うだろうとわかっていたのだろうか、ニアはその声に被せるように、静かに重々しくテルの考えを押しつぶした。
ニアの中に眠る邪悪な力。その一端をテルも知っている。その力が行使されたのは、誰かあるいは自分自身を癒すときばかりだった。しかし、テルの直感はその程度の癒しの力が
テルの考えが寸分たりとも介入する隙間のないニアの意思を、これでもかと思い知ったテルはもうニアの顔を見ることができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます