第2章17話 黒泥と黒霧②

 カインは家の屋根を軽やかに移動していく黒霧の背中を追っていた。

 時折、先ほどの人を失神させる霧を無差別に撒いていたが、その度にカインが魔法でその霧を掻き消した。しかし、全てを無効化できたというわけでもなく、苦しむようにして倒れる人を、カインは奥歯を噛み締めて、その横を駆け抜けていった。


 妨害されることになんの問題もないと言わんばかりに、移動しては霧で人の意識を奪うという一連の動きを機械的に繰り返していたが、郊外の民家がほとんどない場所に辿り着くと、逃げるのを辞めてカインがやってくるのを待つかのように佇んでいた。


「邪魔しないでくれる?」


 立ち止まった黒霧は、女の声でそう口にした。


「無理な相談だね」


 カインは剣を引き抜いて、その要求を一蹴すると、霧の奥からくたびれたようなため息が聞こえ、周囲に纏わせていた霧が消滅した。


 そこから現れたのは、病的に露出が少ない女だった。

 手には出袋を、顔には目以外に包帯を巻いている。女だとわかるのは、発せられる声と強調された体の輪郭だけで、局所的に主張される女性らしい要素が酷く歪に見える。


「何者だ。目的はなんだ」


「シルミア。ただの仕事。それ以上は教える義理はない」


 簡潔に答えると、辺り一帯を飲み込むような霧が、シルミアと名乗った女から噴出した。


 カインは咄嗟に口と鼻の周囲に風魔法で囲い、霧を吸い込まないようにする。

 単純な風魔法で、霧を散らそうと試みるが、どういうわけか尋常ではない霧の濃さになっており、正面にいたシルミアの姿さえ霞んでいく。


「結界か」


 太陽光さえ届かせないほど深い霧。おそらくシルミアとカインを包むようドーム状に霧が凝縮されているのを想像する。

 結界の中からの離脱を試みてもよいが、それにかまけて標的を見失うのも惜しいと判断し、霧の先を凝視するカインは自分の目を疑った。


 力なく立ち尽くすシルミアの姿が、霧の中から一人、二人、三人、と現れる。

 誰一人武器を持たない丸腰で、気怠そうに歩みを進め、徐々に距離を近づける。


 突如として分身したシルミアを前に、カインは固唾をのんだ。

 霧の中限定とはいえ、これほどの芸当は水の魔導を逸脱している。敵は十中八九、『異能者』であるということだ。


 既に十を超えたシルミアが一斉に走り出す。霧の中での俊足はカインとの距離を瞬く間にゼロにした。咄嗟に反応し、シルミアから伸ばされた手を躱し、魔法の突風を生み出す。


 空気が捻じれると、その渦に飲まれるようにシルミアが霧散する。しかし、一人を倒しても攻撃の手は止まない。

 次々にシルミアがカインに駆け寄る。というより、霧に飲まれるように姿を消し、次の瞬間にはカインに襲い掛かっているその様は、瞬間移動と言ったほうが適切だろう。


 カインの周囲の空気は絶えず乱れ続けるが、シルミアの攻撃の手は緩まる気配がない。


 狙うならまず本体。いや、いっそ脱出してしまったほうが早いか。


 思考を巡らせて、防戦一方の状況の打破を探る。そして考えた結果下された判断は、


「『北風の暴虐ボレアス・バースト』」


 結界の破壊だ。


 カインの掌で練り上げた緑色の魔力が白い輝きを帯びてゆく。最大まで高まった魔力が決壊する直前、カインの有する最大火力の風魔法が放たれた。


 空気をうねらせ、果てには真空を生み出すほどの大気と魔力の爆発。

 白い霧を飲み込む竜巻に、シルミア達が次々と飲み込まれ、その先に破けたような隙間から青空が覗いた。


 カインを囲んでいたシルミアたちの影が薄くなっていき、やがて一番最初に立っていた場所から傍観していただけと思われるシルミアが、感情を汲み取らせないような視線をこちらに寄越している。

 もう少し下に打てば、直撃してたかもな。そんな雑念を被りを振って打ち消す。


 結界の破けた箇所が広がっていくのを見て、即座に攻勢に出るべきだと意を決したカインは急激な魔力の消費による眩暈と耳鳴りを振り払い、シルミアに目がけて大地を蹴る。

 僅かに、目じりに皺が寄ったシルミアに違和感を覚えた直後、強烈な異変がカインを襲った。


 ぞっとした感覚の発信源である足元に視線を落とすと、下半身が崩壊したシルミアが、カインの左足首を掴んでいる。

 そして、それと同時にカインの左足が消滅した。


「なっ!?」


 生み出した勢いに押し出され前向きに転がるカインに、シルミアが笑みを浮かべている。


 まずい。


 直感で理解すると同時に、結界の破壊した部分が濃霧で見えなくなっていき、消滅した複数のシルミアが再び姿を現した。


 弄ばれた。結界を破壊した達成感を餌にしてまんまと相手のカウンターに引っかかった。

 奥歯をがちりと音を立てながら噛み締め、体を起こす。シルミアはこちらに向かっている。


 触れられるだけで消滅した左足。痛みはないが、もし胸や首、頭を触れられたらどうなってしまうのか想像に容易い分、迫りくる恐怖が大きい。


 動けないカインにシルミアの掌が迫る。


「『嵐の壁』」


 全方位から襲い来るシルミアを高密度で自分の周囲を巡らせる防御魔法で弾き飛ばす。

 魔力の消費がとてつもないこの防御魔法を、いつまで発動させていられるのかはわからない。

 しかし、この魔法を維持している間に突破口を開かなくては、カインは終わりだ。


 眉間に皺を寄せながら、カインは懐の神聖魔法が組み込まれている魔石を発動した。

 消失した左足以外に負傷はない。異能に対して安易な治癒術がどれほど役に立つか、ほとんどダメ元に近いものだったが、想定外の出来事にカインは目を見張った。


 魔石が起動すると、カインの足の感覚が完全とはいかないが取り戻されたのだ。どこか半透明ながらも触れた感覚も触れられた感覚もある左足。

 それだけではなく、カインを取り囲んでいた二十に近いシルミアたちの姿が、薄くなっていったのだ。

 それはまるで複数のシルミアや失われた足が幻覚・・だったように。


「ああ、そういうことか」


 カインがそう口にすると、シルミアは鼻白むような視線を返した。


 当初、毒と思われていたシルミアの霧を対処するために、カインは口と鼻を風魔法で覆った。しかし、シルミアの霧が人に作用する条件は身体に触れることだったのだろう。

 霧の中に発生した幻影のシルミアたち。さらにそのシルミアたちに触れられることで幻のように消え去った体の部位。


 それらすべてが、霧によって見せられていた幻覚だったのなら、結界を破ったときにシルミアたちが薄れたことにも説明がつく。

 そして、『嵐の壁』の中で使った神聖魔法は幻覚を中和したのだ。


 異能のからくりは理解した。しかし、もうひとつ知りたかったことは更にわからなくなった。

 カインは顔をしかめて、シルミアに叫ぶように問い質す。

 

「なにが狙いだ。一瞬で人を失神させられる異能を使って、反乱だったらここでやる意味がないし、あまりにも詰めが甘い。魔人だったら人を生かす必要がない。一体、なにを見せつけるためにこんなことをしているんだ」


 カインはじりじりと目減りする魔力に、眩暈を起こし始め、なんとか意識を保ちながら睨みつける。

 すると、シルミアは「へえ」と感心したように声をこぼしたかと思うと、二人を包んでいた濃霧が徐々に薄れていく。


「良い線いってるよ。でも少し惜しい。被害を広げることに意味があるの。そうすることで居場所を奪われる人がいる。あくまで保険だけど」


 解除された異能にカインは裏があるのではないかと次の動きを警戒していたが、シルミアの言葉に注意を引かれた。


「居場所? なんの話だ」


「もうきっと手遅れだから、後から自分でゆっくり答え合わせをすればいい」


 シルミアは一方的に言い残すと、きびすを返し森の中へと悠長に歩き出した。


「おい、待て!」


 そう叫び、追おうとしたが、その森には既に霧が充満していた。

 霧に触れないようにしたとしても、ここまで視認性の悪い場所では、おそらく見つけることも難しいだろう。

 煮え切らない終わり方に、カインはため息をつく。


―――居場所を奪われる人がいる。


 その言葉に胸騒ぎを感じながら、村の大通りに向かって走り出した。

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