第2章16話 黒泥と黒霧①

「どうして、黒泥が……?」


 テルが震えた声で疑問をこぼす。しかし、他の誰もがその問いに対する答えを持っていない。

 他の引き車に炎が燃え広がるうちに、更に後ろの引き車でも爆発が起こった。


「二体目……」


 カインの生気が込められていない声が聞こえた。

 新たに現れたもう一体の黒泥。まとっているのは黒い泥、というよいも霧や雲に近い。黒泥よりも小さく威圧感はないが、黒泥以上に禍々しい気配を放っている。


 カインはなにも言わずに剣を抜くが、セレスは当然帯刀していない。テルはセレスに剣を創って渡すと、渋い顔をして受け取った。


「私、この服今日買ったばっかりの一張羅なんだけど」


 文句をいうと、自分の動きに追いつけるようにスカートを引き裂いた。声にはこれまでに聞いたことがないほどの怒気が混ざる。


「ニア、逃げろ」


 テルはニアを背にして、視線を向けないまま促す。きっと何も言わなくても逃げ出しているかもしれないと甘く考えていた。しかし、ニアはいつまでもテルたちの後ろから動こうとしない。

 思わず、敵から目を背けて振り返ると、ニアは顔を真っ青にして体を震わせており、その場から動かない。


 どれだけ怯えているように見えても、なぜか視線は黒泥に釘づけにされている。恐怖で視線すら動かすことができないのかもしれないが、決して目を逸らさないというような気迫のようなものさえ感じる。

 

「早く逃げろ、巻き込まれる」


 テルが肩を掴んで揺らしてやっとテルの声が聞こえたようで、目が合った。


「頼むから、離れていてくれ。ここにいると危ない」


 必死に説得するテルだが、ニアの視線はまたテルの向こう側に向けられた。


 振り返ると、今までいた市街地が深い霧に覆われている。

 黒泥ではなく、もう片方の黒霧くろきりの魔法だとすぐに気づくが、その姿が見えない。



 引き車が爆発した直後、すぐに逃げなかった人は少なからずいた。


 要塞都市コーレルの最前線であるシャダ村は、いつだって魔獣狩りが多く滞在している。その中で黒泥の話を聞き及んでいる者は多く、常に戦果と金に飢えている魔獣狩りは、未知の敵を前に果敢に剣を引き抜く。しかし、そんな彼らは次の瞬間には地面に倒れ伏していた。

 霧のなかを恐ろしい速度で飛び交い、視界不良でなにもわからない騎士たちの意識を奪う黒霧。近いものから順番に屠り、ほとんどのものは悲鳴さえ上がらない。

 ついに魔の手が先頭にいたセレスに伸びたとき、周囲の空気が爆ぜた。


「『破裂バースト』」


 大通り一体を埋め尽くしそうとしていた霧が、カインの魔法で散り散りになる。今目の前に迫っていた黒霧は、初めからその場所を動いていないかのように黒泥の後ろに立っていた。


 黒霧は値踏みするようにカインに視線を注ぎ、大きく跳躍。建物の屋根から屋根へと飛び移って、テルたちからどんどん離れていく。


「あんなの放っておいたら、どれだけ被害がでるかわからない。俺はあっちを追う」


「ひとりで行けるの?」


 セレスが横目で訊くとカインは「ああ」と即答した。


「気を付けろよ、あの黒泥かなり強いぞ」


 テルが頷くのを待たずに、カインは黒霧が逃げていった方に走っていく。


「ニア、とにかく逃げるんだ」


 険しい視線で、どよめきのなか声を張り上げる。

 

 黒泥に向き直ると、向こうも首を鳴らすような素振りをした。すでに戦意を持ったものはテルとセレスしか残っていない。地面に転がる魔獣狩りたちは小さく胸を上下させており、生きてはいるが意識を取り戻すようすはない。その上、少し離れたところには野次馬の人だかりが出来ている。


 戦いにくいことこの上ない場所で一般人に被害が及ばず、他の騎士や衛兵の応援がくるまでやりすごさなくてはならない。


「一旦は私がひきつける。そのうちに倒れている人達を」


 テルの返事をまたずに、セレスは黒泥に飛び込む。


「わかった!」


 自分を鼓舞するように、聞こえていないであろう返事をしてセレスの後ろを走り出す。

 

 近づけば近づくほど、その威圧感は増していく黒泥。以前、遭遇したものよりも明らかに大きく、直感がこいつはやばいと警鐘を鳴らしている。しかし、その程度のことでセレスの剣は鈍らない。


 切っ先が見えないほどの一太刀目が振るわれる。脳内に思い描いたのは、敵の腕を切り落とし、攻撃力と戦意を削り取る勝利への道標だ。

 しかし、その想像とは裏腹に、黒泥はそれを易々と受け止める。黒泥が重々しく上げた腕は、皮一枚に傷をつけることすら敵わず、流動し続ける泥の鎧・・・に阻まれた。


 黒泥は身を捻じらせると、振りかざした拳が徐々に肥大化していく。

 傍から見ているテルが、まずいと感じたすぐあとに、振り下ろされた一撃で、瓦礫と砂煙と爆音が迫り上がった。

 あれほどの威力なら直撃せずとも、衝撃でそうとうなダメージを負うことは避けられない。

 しかし、セレスは全くのダメージを受けていなかった。

 黒泥の拳が振り下ろされた直前、黒泥の死角から背後に回り込み衝撃波を掻い潜ったのだ。


 決定的な隙。セレスは全身に力を込め、黒泥に渾身の突きを放つ。しかし、これほど冴え渡った一撃でさえも、黒泥の鎧を貫くことができない。


「……っ!」


 眉間に皺を寄せたセレスに、黒泥は大きく震わせた脚部を振るう。


 大きく後方に飛ばされ、壁に激突し、苦痛に顔を歪めながらうめき声をあげている。


 とどめをささんと、一歩踏み出した黒泥の肩に小さなナイフが突き刺さり爆発する。始めて攻撃に対して、バランスを崩し、一歩足をもつれさせる黒泥。

 

 ゆっくりと振り返る黒泥に、テルは新たに作った爆弾ナイフを投げていたが、今度は腕で全て弾かれて、黒泥の後方で爆発が起こる。


 標的を完全に入れ替えた黒泥は、テルに向かって突進する。地ならしが起こるほどの一歩一歩で、石畳の地面に足跡がくっきりと点けられていく。

 投げられる全ての爆弾ナイフを弾き、巨体がテルを押しつぶそうとしたそのとき、かかと落としが黒泥の頭に直撃し、地面に埋め込ませた。


 壁から起き上がり、鉄壁だった黒泥を地面に伏したセレスが、少しバランスを崩しながらテルの傍に着地する。


「なんて馬鹿力だよ」


「テルが非力なのよ」


 引き攣るように笑うテルと、野蛮な賞賛に不機嫌そうなセレスは黒泥を見下ろしている。


「まだよ」


 セレスの言葉と同時に腕をついて起き上がる黒泥は、体に纏っていた黒泥が欠けているように見えた。


「邪魔デ邪魔デ仕方ガナイ」


 自分の中で何度も反響させたような低く奇妙さのある声を発したのは立ち上がった黒泥のものだった。


「道化ヲ演ジロトノ命デアルガ、ヨモヤ此処マデダ」


 そう口にすると、自分の体に付いていた黒い泥を削ぎ落していき、鎧を脱ぎ去り、姿をあらわにしたのは、魔獣とも魔人ともつかない、継ぎ接ぎの不気味な怪物だった。


 大きすぎる胴体に、三つの人の頭を無理矢理一つにまとめたような歪な頭部と剥き出しになった歯と眼。ところどころ皮膚が破けたように筋線維が丸見えになっているが、それも含めて全体的に黒ずんだ臙脂色をしている。



 過去二度にわたって異常個体の魔獣と遭遇し、挙句の果てには二人の魔人に命を狙われたテルにさえ尋常ではないと思わしめた怪物に、テルは不意に「なんなんだ、こいつ」と素直な感情をもらした。 


「私ハ魔獣デハナイ。シカシ、人ノ味方デモナイ」


 自らを人の敵と称すと、自分で自分の左腕を根元から引き千切る。すると、腕だった黒い肉塊はみるみる形を変えて大きな斧になった。左腕があった場所には、既に極端に短い腕が垂れさがっている。


「我ガ名ハ、ドール。怪物ドールダ。死ンデ貰オウ、若キ魔獣狩リヨ」

 

 怪物ドールは自己紹介を終えると、濃密な殺気を放った。

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