第1章33話 治癒と嘔吐
「魔法って本当にすごいな」
一切痛みがなく動く腕で、汚れた床を片付けながらテルはいった。ニアはそれを申し訳なさそうに黙って見ている。
片付けているのはテルの吐き出した吐瀉物だ。二度目の治癒魔法を受けたテルは、堪えるどころか、湧きあがる不快感に耐えかねて盛大に嘔吐したのだ。
なんて不甲斐ない。穴がはあったら入りたい。
ニアは罪悪感で心を塞いでしまい、また口を開かなくなってしまった。
テルの汚物の片付けを申し出てくれたところを、テルがどうしてもと断ったのが追い打ちになってしまったかもしれない。
しかし、こればかりは譲れなかった。もしニアが片付けるような事態になれば、次は血を吐くことになるだろう。
床を掃除し終えたテルは、もう一度体を動かしてみる。もう痛む場所はどこもない。全てニアのおかげだ。
「助かったよ。ありがとう、ニア」
そう言われたニアは控えめに頷くが、まだ表情は晴れない。こちらは大して気にしていないどころか、感謝しても足りないというのになかなか伝わっていないのがもどかしい。
テルは片付けをあらかた終えやっと息をついた。すると、どっと疲れが押し寄せ、よろよろとした足取りでソファに座った。
まだ早いが眠ってしまいたくなった。空腹はあったが疲れすぎてなにかを食べれる気がしない。
眠らないように目を開けたまま天井を仰いでいると「ねえ」とニアに声を掛けられた。
「何があったの?」
テルの正面に座ったニアに深刻そうな面持ちで尋ねられ、テルは少し困ったように視線を逸らした。
魔人のことはあまり言いたくなかった。
言っても怖がらせるだけだろうし、なにより自分が無様だった。
しかし、心配してくれたニアに嘘をつくのは
「あのあと森に入ったら魔人に遭遇した。怖かったけど、このとおり運よく逃げ延びたよ」
テルは自分の無事を証明するように両手を上げておどけて見せるが、ニアは怯えるように顔を曇らせた。
「魔人……どうして……?」
「わからない。でもリベリオを狙っているみたいな……」
俯くニアを見て、余計なことを言ってしまったと後悔する。
「リベリオなら大丈夫だよ。俺もこれから庁舎にいって協力してくるし、だからあんまり心配しないで」
「……うん」
ニアは絞り出すように声を出して頷いた。だがやはり、顔色は良くならない。
「ヒルティスのところには行かないの?」
そのほうがニアの気持ちも少しは軽くなるだろう。そう思って提案してみたものの、ニアは首を振った。
「ヒルティスは多分避難してないよね」
ニアは頷いて「カインも一緒にいると思う」と言った。
「カインは戦争にいってなかったんだ」
「うん、お父さんはそういうの嫌いだから」
「そうだったんだ」
リベリオがテルに戦争にでることを禁止したのも同じ理由なのだろうが、ニアがテルの知らないリベリオの内側を知っているのが、なんだか不思議な気分だった。
「さてと」
テルはそういって立ち上がった。ニアは不安そうな顔で「いくの?」と聞くと、テルは「いってくる」と答えた。
「俺にできることなんてほとんどなにもないから、すぐに帰ってくるよ」
それだけ言うとテルはまた外に出かけた。ソファにはニアが何か言いたそうにテルの背中を見ていたが、テルはそんなことは知る由もなかった。
テルの目的は魔人がリベリオを狙っているという情報を伝えにいくだけなので、長く家を開ける必要はないし危ない思いをすることもない。
頭でいくらそう思っても足取りが軽くなることはなかった。それはどこか、きっとテルの直感と呼ぶべき部分が、関わらずにはいられないと訴えているようだった。
薬屋のドアを叩く。反応はない。またドアを叩く。ノックなんてもんじゃないほど大きな音がなるが、やはり反応はない。今度は思いっきりドアを殴る。テルとドア耐久力あるいは部屋主の忍耐との勝負だ。当然、ドアが壊れたらテルの勝ちである。
「うるさいなあ! 一体なんのようなんだ!」
青筋を浮かべながらドアを開けるカイン。勝利は見事テルのものになった。
「よっ、二日ぶり」
「・・・・・・どうしてここにいるんだ?」
目を丸くしたカインはテルの血の乾いた跡やぼろぼろの服装を見て、どんどん表情が強張っていく。
「戦争に、行ってきたのか?」
「違う。家の近くの森で魔人に襲われた」
「魔人!?」
予想外の言葉にカインが大きな声を出して、テルは眉に皺を寄せた。
「それ冗談じゃすまないぞ」
「本気だよ。殺されかけたんだ。それよりこの話なんかの役に立つだろ。庁舎まで付き合え」
カインは考え事をするように、視線をあっちこっちに向けていたが「わかった。すぐにいこう」と頷いた。
カインは振り返って、薬屋の中に向かって叫んだ。
「婆ちゃんごめん、少し出かけてくる!」
「うるっさいねえ! そんな大きい声出さなくても聞こえてるよ」
可愛らしくも苛烈で、カインよりも遙かに大きい声が帰ってきた。カイン達は安心したように肩を竦めてドアを閉めた。
するとドアを貫通して、「怪我するんじゃないよっ!」とさらに大きな声が放たれた。
そんな不器用な声援を背に、二人はセントコーレルに向かった。
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