第1章32話 ニアの魔法

 片腕を力なくぶら下げながら、テルはとぼとぼと森を歩いていた。


 目を覚ましたのはつい先刻の事。奇跡的に川岸に打ち上げられたようで、水を吐き出しながらの目覚めは最悪だった。


 川の水で冷やされたのか、目の晴れも僅かに引いており、周りの景色もさっきよりも格段にはっきりと見えている。


 森は随分と深かったが、テルは当てもなく歩いている訳ではなかった。

 不幸中の幸いが幾重にも重なったようだった。


 特徴的な形と、一部岩肌が露出した独特な山は、以前リベリオ達と遠征で訪れた場所だった。


 ―――あの岩山みたいなわかりやすい目印があると、迷わずにすむ。


 リベリオがそういっていたので、テルも山と方角の一を覚えており、どの方向に進めば森の入口に戻れるかがわかるし、そこまでいけば村まで続く一本道がある。


 足に重い負傷はなく、脇腹は赤黒く腫れているが、痛みを堪えれば歩くこともできる。馬車が一時間足らずで移動した距離をテルの足でどれくらいかかるかは不安だったが、時間がかかっても歩いた先で家があるという事実がテルの支えになった。


 ふと、テルがふと川の方角を確認すると、見覚えのない物体が視界に入った。


 川が白く光っている。


 信じられないものを前にして、目を擦ってみるが光る川は存在し続けている。


 しかし、よく見てみると川が光っているのではなく、長く伸びた謎の物体がまるまる川に沈んでいるのだ。樹木のような形状をしているが薄白く発行しており、赤い斑点の用が小さくまばらにある。ちいさく体をうねらせるように蠢いているのでもしかしたら生き物かもしれない。


 がさりと物音がして、テルは身を隠すため姿勢を低くする。急に体を動かしたのでボロボロの右手が酷く傷む。

 音を立てないように様子を見てみるとやはり魔獣だった。


 いま魔獣と戦っても、成すすべなく餌食にされるだけであろうことが想像に容易い。

 魔獣はリベリオの家とは逆方向に歩いていくので、テルは呼吸を殺して脅威が立ち去るのを待った。


 魔獣が遠くに去ると、テルはまた歩き出した。テルはあれから魔獣にも魔人にも遭遇することはなく、夜通し歩き続け、朝日が登りきったころ、やっと家にたどり着いた。




 人の気配のないシャダ村といつもより静かな雑木林を抜けるとやっといつもの家が見えてきた。


 テルは安堵と疲労感で体の力が抜けそうになるところをなんとか堪えて、足を急がせた。


 門扉を潜り、やっとドアに手を触れた瞬間、嫌な予感が背すじを走った。


 事の発端である、助けを求めてきた少女はヒトモドキという魔獣だった。


 そう、テルはあのヒトモドキをニアに預けて、捜索に出かけたのだ。


 ここまでそのことに気づけなかった自分を心のなかで罵倒しながら、真っ青な顔でドアを勢いよくあけると、そこにはいつも通りの家と何事もないニアがいた。

 ニアは急に開いたドアに驚いたようにしたあと、酷い姿のテルを見て、こちらも顔を青くする。


「そ、その怪我―――」


 ニアは口を開いてテルに駆け寄ろうとするが、テルはそれよりも凄い勢いでニアに近づいて肩を掴んだ。


「無事か!? 魔獣は、怪我は?」


 慌てるテルの気迫に押されてニアは困惑して「なんともない」と頷いた。


「そっか……よかったぁ」


 安堵でテルは脱力しそうになったが「え?」とすぐに顔を上げた。


 今何気なく会話していたが、テルが普通に話している。ニアの声を聞くのは以前少しだけ会話してくれたっきりで、ひと月以上ぶりだった。


 本当にニアなのか。


 テルの頭にそんな考えが過った。ヒトモドキが少女と同じようにニアに擬態してテルを騙し討ちにしようとしているかもしれない。そう思うと冷たい汗が額に滲んだ。


「ニア、さっきの魔獣大丈夫だったか……?」


 かまをかけるように、テルは数歩後ろに下がってニアに聞いた。

 ニアはハッとしたようにしてから、部屋の隅にある赤黒く滲んで、盛り上がっているシーツを指さした。


 テルは恐る恐る近づき、シーツを捲った。


 そこには、鋭利な牙をあらわにしたヒトモドキが、息絶え絶えの様子で横になっていた。まだ生きてはいるがもう動く力も残っていないようだ。


 テルは今度こそ胸を撫で下ろした。ニアは無事であったし、ヒトモドキがニアに化けていたわけでもないのだ。

 テルを支えていた緊張の糸が完全に切れると、テルはその場で倒れた。


「テル!?」


 ここまで緊張感と心配でなんとか立っていることが出来ていたが、それももう限界がきた。

 ニアが泣きそうな顔でテルの肩を揺する。しかしテルは、初めて名前読んでくれたなどと場違いな感慨に更けながら意識を手放しつつあった。


「まって―――――治癒を――――」


 激痛と疲労、そして薄く淡く幸福感さえあるなかでテルは意識を失おうとしたとき、ニアの声と同時に嫌悪感が溢れかえった。



 全身の筋肉は痙攣し、内臓がひっくり返るような嘔吐感が迫り上げる。

 体中をおぞましい化け物に嘗め回されているような、肩まで吐瀉物に浸かっているような、最悪の感覚に精神が絶叫を上げる。


 得体のしれない何かから逃げるように飛びのくと、ニアが逼迫したような表情でこちらを見ていたが、テルが目を覚ましたのがわかると、安心したように息をついた。


 唐突な未知の恐怖体験に理解が追いつかず、口を開閉するテル。


 異変に気づいたのはそのときだ。異変と言っても全身の痛みが軽くなっている良い異変だ。


 疲労感は抜けていないが、手と呼ぶことすらできないような惨状だった右手はすこしまだ痛むが動かせるほどに回復していたし、ティヴァに蹴られた脇腹は全快していた。


「今のって、神聖魔法……?」


「……うん」


 ニアは申し訳なさそうに目を逸らしながら頷いた。


「私の魔法は、すごく気持ちが悪いみたいで。前にもかけたことがあるから大丈夫だと思ってたけど、そのときは眠ってたから……ごめんなさい」


「全然大丈夫だよ。少しびっくりしたけど、あんな傷がすぐ治るなんて、いてっ」


 落ち込むニアを励まそうとするが、まだ負傷が残る右手が痛んで、気まずい沈黙が流れる。


「そうだ、まだ神聖魔法って使える?」


「……使えるけど」


「じゃあ、この右手も治して欲しいんだ」


「いいの……?」


 不安そうな顔で見上げるニアに、テルはすぐに頷いた。


「頼む。まだやらなきゃいけないことがあるんだ」


 ニアは渋々というより恐る恐るテルの手に触れた。


 神聖魔法をかけられて、また悲鳴を上げればきっとニアはまた悲しむだろう。

 それを憂いたテルは奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。

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