第1章31話 理不尽
まだ騎士になって間もないテルが、魔人を倒す。
無謀にも思えた考えだが、先ほどの投擲で大猿はティヴァを庇っているように見えた。獣の魔人と名乗っていた本人自身にはそれほど戦闘力はないのかもしれない。
大猿の攻撃を掻い潜り、僅かな勝機を掴む。これが最善策だ。
大猿は手を緩めることなく大ぶりの四連撃を繰り返すが、手数の多さにかまけて動きは単調だ。
テルはいままで回避に徹していた大猿の攻撃をここで初めて正面から受けた。
魔力操作は防御にも応用が効く。それはリベリオの談で、テルにとっては一発本番のことであった。
大きな盾を生成し、体の関節部に魔力を集中させたところに、大猿の拳が振り下ろされた。この恐ろしい重さを生身で受けていれば一瞬でぺしゃんこになっていただろう。
しかし、テルは真上からの衝撃をクッションのように地面に受け流した。全身が軋み、悲鳴をあげるが、五体満足で防ぎ切った。
大猿は目を見張るが、そのまま別の腕で真横からテルを潰しにかかる。しかし、それはテルの想定通りだ。すぐに盾を手放し剣に持ち替えると、大猿にぐっと踏み込んで関節の部分から、腕を切り落とした。
大猿の悲鳴が上がる。腕を切られた痛みでいっぱいいっぱいになり、攻撃も防御も杜撰になっている。
全ての腕を切り落とすまで粘るつもりだったが、これほどの絶好の機会を見逃す手はない。
テルは大きく踏み込んで、大猿の腕に飛び移り、そのまま腕を駆け上がった。正面に見据える魔人ティヴァは座ったままの目を丸くしている。
ありったけの魔力を込めた一閃をティヴァに向けて放つ。窮地の集中力はテルの剣技や魔力操作すべてに於いて、これまでで最も洗練されていた。
紛れもない渾身の一撃が、ティヴァに届く。
そして、テルの全力は魔人の嘲笑とともに、手の甲で呆気なく払われた。
折れた剣先がテルの眼前をスローモーションのように舞った。
思考が停止した。
日々の鍛錬が、大猿の腕を切り落とすほどになったテルの剣技が、羽虫を振り払うかのようにあしらわれた。
直後、景色が凄まじい勢いで流れていく。地面に激突して、ティヴァとの距離が遠くなった。
なにが起きたのか理解が追いついてない。テルは体を起こそうとすると、腹部に激痛が走ってその時初めて、ティヴァに蹴り飛ばされたことに気が付いた。
ティヴァはニヤけ顔を浮かべながら、大猿の肩を降りると、こちらに近づいてくる。
目の前に命の危機が迫っているのに、痛みという危険信号で体が動くことを拒否している。
動け動け動け。何度も念じて悶えていると、もう目の前に魔人は迫っていた。
「人間って臭いしキショいしうるさいから大っ嫌いだけど」
ティヴァはテルの顔を覗き込むようにしゃがむ。
テルは奥歯が砕けるほどに歯を食いしばり、剣を作ってティヴァに振るった。しかしティヴァは目にも見えない速度でテルの腕を掴んだ。握られた剣はそのまま地面に落ちる。
ティヴァは少女の細い指をテルの手に絡めるようにすると、右手の小指を万力のような力で握りつぶした。
「―――っ!」
テルの声にもならない悲鳴が森に響き渡った。しかし、その狂騒のなかでも輪郭をもって響く魔人の嘲笑。
「うるせえ、泣きわめくな」
そういうと、ティヴァは薬指を指で摘まむように粉砕し、絶叫が広がる。
「静かになるまで、お仕置きだぞ」
テルの悲鳴を制止させようとするティヴァは、その言葉の半面、暴力と悲鳴を愉しんでいた。
テルは涙で顔をぐちゃぐちゃに滲ませると、ティヴァは噴き出すように笑う。
「ぎゃはは、ぶっさいく。お似合いだぞ」
ティヴァの顔は凶気で歪んでいる。手心が加えられないことを悟ると、テルは命乞いをはじめた。
「ごめんなさい。もうやめてください。ごめんなさい」
するとティヴァは柔らかな微笑みを浮かべ、テルの中指をねじりながら逆側に折り曲げた。
「お前、アタシのこと殺そうとした癖に都合よすぎ。頭が悪すぎて尊敬するぞ」
ティヴァはテルの髪を掴んで、自分と同じ視線の高さまでテルの頭を持ち上げた。テルはもう呻くような声しか出せない。
「さっきの続き。アタシは人間が嫌いで嫌いで仕方ないけど、お前みたいに、人間のどうしようもなく馬鹿なところが好きだぞ。思い出すだけで笑えてくる、自分と相手の力量を正しく測れないマヌケの勘違いしたマヌケ面をっ!」
ティヴァはテルに唾をまき散らしながらそういうと、テルの頭を地面にたたきつけた。地面に口が押し付けられ声も出せない。
ティヴァは立ち上がると、次に顔を蹴りつけた。テルは頭を守るように手で覆うと、折れた指に足裏がぶつかり、激痛が走る。
「ぎゃははははははは! 見ろよお前の顔、ぱんぱんに膨れ上がって豚より不細工だぞ。鏡をもってくれば良かったなあ!」
あ、死ぬ。
殺される。
生まれて初めて目の前に死が実態になって近づいている。もう体を動かすこともできない。なにかを考えることもできない。ただ痛みに悶え苦しむことしかできない。死にたくないのに、体を丸まらせること以上の事をできない。誰かが助けに来てくれることもない。
絶望が幾重にも膨れ上がり、もう助からないという事実だけがはっきり現実になっていく。
死ぬ。何もできないまま死ぬ。なにもわからないまま死ぬ。
絶望が堤防を破壊して押し寄せたそのとき、ぐちゃぐちゃになった右手から赤い煙幕が噴き出した。
「ぎゃっ! う、うえっ、ごほごほっ」
ティヴァの短い悲鳴があがると、嗚咽をし始めた。
テルは目蓋が腫れあがり、なにが起きているかほとんど理解できていない。しかし頭の奥で、走れ逃げろと叫ぶ声が聞こえた。
テルは痛む体に鞭を打ってその場から逃走を試みた。動こうと動かなろうと泣きわめくほどの痛みがあるのは変わらない。
テルはほとんど見えていない目で走った。
「くそがっ、姑息なことをしやがって」
背後でティヴァの罵声が聞こえた。とにかく急いで逃げなくては。今に大猿がテルに飛び掛かってきてもおかしくない。
テルは必至にぼやけた視界で、草木を分けて進む。後ろを振り返ると大猿の他に、もっと足が早そうな別の魔獣もいることを確認すると、急に視界が揺れた。
前方不注意で足を滑らせ、崖のようになっている斜面を滑り落ちた。やがて、宙に投げ出されたかと思うと、すぐに水の中に落ちた。
手足を必至に動かすが、流れが早い。目も開けられないため、上下左右もわからなくなり浮き上がることができない。
息が持たなくなって、肺や食道に水が侵入する苦しみに悶えながら、徐々に意識が消えていった。
ティヴァは崖のふちでしゃがみ込み、テルが落ちた川を覗き込んでいた。
「あーあ、死体を持って行かなきゃいけなかったのに。この川、魔獣だらけだから死体残るかな。怒られたくないなあ」
呑気に頬杖をついてしばらく崖を流れる川を見下ろしていた。
「ま、どうしようもないことはどうしようもないぞ」
そういうと、軽い足取りで森の奥に消えていった。
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