第1章22話 甘い半月
気分が重い。騎士庁舎の前に立ったリベリオは、その気持ちを声には出さなかった。
既に日が沈んだが、今日は満月だったため夜が少し明るい。いつもならもう家についている時間だが、今日は遅くなることをテルとニアに伝えている。
騎士庁舎はすでに営業時間が終わり、ラウンジの明かりは落とされていた。リベリオは大きな門に手をかけると、すっと扉が開いた。普段なら鍵がかけられているはずだったが、今日はリベリオのために開けられている。不用心だとは思うが、この建物の主に気づかれずに侵入するなど不可能なことだろうので、心配の必要はないのだろう。
ぼんやりと灯る常夜灯はリベリオの影を長く伸ばし、誰もいないホールは歓迎するように足音を響かせた。長さも幅もある階段を一人で登るのは、思った以上に居心地を悪い。
階段を上り終えたどり着いた扉からは、僅かに光が漏れていた。豪華というわけではないが決して粗末とは言えない扉を、リベリオはノックもせずに開けた。
そこには、騎士庁舎の最上階に相応しい
「誘った癖に遅かったね、リベリオ」
「用が長引いたんだ。悪かったな、シャナレア」
「ふふ、別にいいよ。君を待っている時間は好きだし」
「そうかよ」
シャナレアと呼ばれた女はリベリオに色めいた視線を送る。大抵の男ならただではいられないであろうその誘惑に、リベリオはまったく取り合おうとはしない。
「相変わらず、つれないね」
口をとがらせるようにしているが、不貞腐れている様子はない。リベリオにとって懲りないシャナレアも相変わらずなのだ。
シャナレア・ワンズ。
彼女はコーレル地方一体の騎士を取り仕切っている騎士庁舎の所長であり、リベリオとビジネスパートナーとしての付き合いも長い。
氷のような薄水色の美しい髪は長く伸ばされ、光を浴びて銀色に輝くと、仕事用には不向きに思える黒いドレスを際立たせた。濃い色をした瞳を薄目がちに開き、薄い唇で仄かに微笑むさまは艶やかでいて掴みどころがない。
「パーシィ、今日はもう帰っていいよ」
「え! ほんとですか!? やったー!」
シャナレアは秘書兼助手兼使いっぱしりのパーシィは、直前まで何を見せられているんだと困惑した顔をしていたが、ケロリと表情を変え、万歳をして喜んでいる。彼らが日常的にもっと遅くまで仕事をしていると思うと、同情を禁じ得ない。
パーシィがスキップをして去っていくを確認すると、リベリオは大きく柔らかいソファに腰を降ろし、口を開いた。
「例の魔石の分析はどうだった」
「いきなり本題? もっとエスコートするような話題はないの?」
シャナレアの抗議にリベリオはうんともすんとも言わない。「まあいいけど」と言って、テーブルからなにかを取り出しリベリオの正面に移動すると、それをテーブルの上に置いた。
球状の石が二つ、転がりもせず禍々しい色を発している。
「上位に不釣り合いな凄まじい魔力濃度だ。十中八九、魔人の手が加えられている」
「やはりそうか」
リベリオは口を覆うように手を当てて、それぞれの魔石を手にしたときのことを思い出していた。
片方はリベリオの留守中に家を襲撃した人を模した人狼の魔獣。そしてもう片方は、遠征中ボロボロになったテルとカインに聞いた、異能めいた力がある三つ首の魔獣。あからさまなまでに共通点が多い。
「魔人相手じゃ、魔獣除けが仕事をしないのも仕方ないね」
魔獣がリベリオの家を襲ったことで、そこらじゅうの魔獣除けを調査する羽目になったシャナレアが、内なる怒りを抑えるように自嘲する。
「それで、魔人の動きだけど」
シャナレアはいつの間にか用意した酒瓶を、氷の入った二つのグラスに注ぎながら話した。
「ああ」と言って、互いのグラスを優しく鳴らすと中身を軽く口に含む。
「こういう異常個体を度外視しても、通常の魔石の流通量、つまり魔獣の発生数が減少しているらしいね」
「わざとらしい前兆だな」
「そうだね」
シャナレアが鬱陶しそうに髪を耳にかけながら頷く。
「人の名を冠しながら人に仇なす魔人。……私達の仕事を増やさないで欲しいものだけど」
「弱音を吐くなんて、珍しいな」
そう言われたシャナレアは、「ふふ」機嫌よさそうに鼻を鳴らした。
「もう疲れちゃった。早く魔人を討ち取ってよ」
「できるものならやってる」
リベリオも目を細めて控えめに笑い、背をもたれる。すると、示し合わせたように二人とも黙り込んだ。
「戦争が近々起こるのは確定だとしても、過去に例のない動き方だ。私にはまるで理解しかねるよ」
シャナレアはグラスを揺らし、氷が音を立てた。足を組み、リベリオのほうに向き直った。
「原因は掴んでいるんでしょう?」
リベリオは酒が喉を流れていくのを待ってから「まあな」と小さく答えた。
「ロンドが死んだ」
リベリオの言葉に、シャナレアは言葉を失う程の衝撃を受けたが、それを表情には出さなかった。
「死体は処理したが、どこかで嗅ぎつけられたんだろう」
ロンド。
それはこの国で三人しかいない特位騎士のうちの一人のことだった。国を担う戦力が失われたことで、魔人は動きを見せ始めたのだ。
この情報を世間に公表すれば、多くの人が驚きと嘆きで打ちひしがれるだろうが、シャナレアの感じた驚きは別の方向のものだった。
「そう……、君の復讐は終わったのね」
「いや、力を断ち損ねた」
「うぅ、流石のしぶとさだ」
気丈に振舞うセリフだが、息を吐くその表情は明らかに落胆している。
「次の器は?」
「ああ、今話そうと思っていたんだが……」
こういうとき、リベリオは表情に出やすい。話しにくいことなのか、視線を落とすと、
「同じ日の夜、ロンドの死体の傍らに倒れていた少年だ。今そいつをうちに住まわせている。その魔石の魔獣を討ったのもそいつだ」
「……は?」
今度こそ、シャナレアの顔は硬直した。
「本当に、君って人は……」
最大級のため息をついて頭を抱えるシャナレアに、申し訳なさそうに目を伏せるリベリオ。
「同情?」
「……そうじゃない」
「いつもリベリオは自分の首を絞めるようなことをする。あの女の子もそうだ。身元も経歴も不明の子を、偶然魔獣だらけの森で保護したなんて嘘をついて」
「こればかりは何も話せない。……本当にすまない」
「……別にいいよ」
弱々しいほどに神妙なリベリオにシャナレアは吐き捨てるように言った。
リベリオは利用しやすい立場のシャナレアを利用し、シャナレアはリベリオに近づくために、利用されやすい立場に居座り続けた。同僚としての雑談がやがて相談に変わり、今ではリベリオにとっての共犯者と呼ぶのに相応しい存在となった自負がある。
だから、本音を、内側にわだかまった叫びを聞きたいと願うのは、過ぎた我儘なのだと自分に言い聞かせた。それをわかっているのだろう、リベリオはいつだってシャナレアが何も言い返せなくなるような言葉を使う。
そんなずるくて意地の悪い男に、シャナレアは
「それで、また養子が増えるの?」
「いや、それは多分嫌がるだろうから、住み込みの弟子ってことにした」
「わざわざ戦いに近づけるんだね」
「飲み込まれる前に掌握させる。まだ十分に時間はあるはずだ」
「そう。……私に手伝えることはなさそうだね」
シャナレアはグラスを包むようにもって、ソファにもたれかかった。
「君の戦いは終わったの?」
「ああ、もう全部終わったよ」
ほとんど即答に近い返事を、シャナレアはどう受け止めればいいのかわからない。
愛するリベリオと、金色の瞳の特位騎士が向かい合う場面を想像する。リベリオがロンドを手にかける瞬間、一体どんな気持ちだったのだろうと考えると、シャナレアの胸が鋭く傷んだ。
「この話はもういい。戦争の話だ」
リベリオは前のめりになって視線を上げた。
「ああ、そうだね。致命的な人手不足だ。魔人の動きは―――」
「テルを―――その弟子を狙うだろうな」
「流石に偶然では片付けられないね」
同時に視線を向けたのは二つの禍々しい球体だ。魔人がわざわざ手を加えた異常個体が短期間に二度、それも特定の人物の周辺に現れている。
「その子を戦わせる?」
「まだ弱い。無理だ」
簡単に死にはしないだろう、とは思いつつも口にはしない。
「どうするの。その子の居場所しだいで魔人の動きも変わる。そうすればこちらの対処も変わってくる」
「……いざとなったときのために戦える力はあったほうが良い。だが、そんな場面がないに越したことはないだろう?」
「ふうん」
つまりリベリオの答えは、どんな形であっても戦争に関わらせる気は一切ないということだ。
「でも実際、かなりきわどいよ。ロンドが死んだ上に、今はシスも不在だ。このままでは無辜の民の多くが死ぬことになる」
今この話をしたところでどうしようもない。まだどこで魔獣の大量発生が起こるかわからないのだ。いくら予測を重ねたところで、その時になってみないとわからない部分が多い。言ってしまえば時間の無駄だ。
「どうにかするしかないだろ」
「そうだね」
沈黙が流れる。二人の付き合いは長いため、気まずさはなかったが、いいパートナー同士に見られる落ち着きを二人が感じていないのも確かだ。
「仕事の話をしても楽しくないよ、何か面白い話はないの」
「ない。仕事の話が終わったなら帰る」
「えー、まだ一杯しか飲んでないじゃないか。私だって休みは少ないんだから、ちょっとくらい息抜きに付き合ってくれても罰は当たらないと思うけどな。でなければ、私は心労で倒れてしまうよ」
席を立ったリベリオに子どものような甘えたような声を出して引き留めようとする。
「安心しろ、シャナレアほどの仕事人間を俺は見たことがない」
リベリオは気をかける素振りもなく立ち去ろうとするので、シャナレア咄嗟に声を上げた。
「そんなことないよ」
しなやかな動作で立ち上がると、余裕めいて、それでいじらしいようにリベリオの腕を掴んだ。
「私は君のために生きてるんだから」
向かい合い、目を逸らさずにそう言って、なにかを求めるように腕を掴む手に力を入れた。
「歯が浮くようなセリフも聞きなれた」
素っ気ない返事をすると、リベリオの腕はシャナレアの手からゆっくりとすり抜けていった。
「そう」そんな沈んでしまいそうな声を漏らすと、急に「ふん」と大きく鼻を鳴らし、むくれた顔をして椅子に座る。そして飛び出したのは、らしくない子供のような物言いだ。
「いじわる。もう知らない。仕事なんてボイコットしてやる」
「仕事がないと会う機会もないぞ」
「性悪っ!」
いっそなにかものを投げつけてやりたい気持ちにかられたが、生憎、手にあるのは高級酒が入った高級品のグラスだけだ。
リベリオは背を向けると扉に向かっていき、シャナレアは見送る。
「また来てね。私はいつでも話し相手に飢えているから」
扉が閉められる直前に声をかけた。返事は返ってこなかったが、僅かに覗いたリベリオの顔は頷いているように見えた。
自分しかいなくなった部屋で、シャナレアは一人、透明なため息をつく。
しばらく余韻に浸かっていたい気持ちを抑え、デスクに片付けられた書類に手を伸ばした。
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