第11話 八潮男之神(やしおおのかみ)の決断

 えつ)の無旦王子むたんおうじかくまうことは、即位されたばかりの項襄王けいじょうおうと戦うことでもある。すでにえつは三十年前、楚の先君威王いおうとの戦いに敗れ、越王無彊えつおうむきょうは、その後、行方知れずとなって生存すらも定かではない。その弟の無恬むてんは、すでに齢七十を超えるといわれているが、報復を天子に願い出ようと海賊となって、近頃、蓬莱湊ほうらいみなとを襲ったのであった。


 「ほう、蓬莱湊ほうらいみなと周天子しゅうてんしに差し出すとは、無恬むてんの志もなかなかのものであるな。」

 阿津耳あつみみは、大層に感心したが、現実はそう簡単には進まなかった。蓬莱湊は、斉の傘下にあることから、越一族の残党は楚王そおうのみならず、斉王せいおうからも敵視されることになったのである。天子を味方につける以外に生きる道はなかったのであろう。


 阿津耳あつみみは、昆迩の話を聞きながら、時々、別のことを考えていた。


 ― 追われる異国の王子のことを、ここまで詳しく語る昆迩の意図は何処にあるのであろうか。


 とはいえ、浪響なみひびき昆迩こんじにしてみれば、高天原の幼神おさなかみの代理である阿津耳之命あつみみのみことに対して、これ以上、白々しき報告は出来なかった。昆迩は、浪響なみひびきには申し訳ないが、正直に話すしかないと思った。


 巨木となった若木神の依り代は、威厳いげんをもって、皆々を見守っている。昆迩は、まさに、若木神の御前にて、偽りの言霊は口に出来なかった。


 「えつ無恬むてん殿が蓬莱湊ほうらいみなとを占拠したことは、せいにもにも衝撃をもたらしましたが、残念ながら無恬むてん殿には支援する部隊がございませんでした。いずれ、斉軍せいぐんに追われることになりましょう。われが、申し上げたいことは、そのことではありません。」


 昆迩こんじは、改めて、若木神わかきかみの神木を見上げると、自らに偽りが無いことを心に誓って申し上げた。 


 「せいの領内にある泰山たいざんのことであります。泰山たいざんは、古くから王の王たる者によって、天神地祇てんじんちぎの祭祀が行われ、じょ氏の巫女がこの祭祀を執り行ってきました。泰山たいざんは、あめの神とつちの神を守る神聖なる場所に御座います。」


 「泰山たいざんとな。せいの国にも、そのようなあめつちを祀る神聖な場所があるのか。」


 「秋津洲あきつしまでは、皆々、目に触れるもの、肌に触れるもの、耳にひびくもの、鼻に匂うものの全てに神々の霊気を感じます。野にそよぐ野風にも神々が宿っております。」

 「そう、われらは、日々、天地あめつちの神々に守られ生きておる。」

 「彼の国では、秋津洲あきつしまの如き、あめつちに宿る八百万やおよろずの神々はありませんが、高天原たかまがはら大海原おおわたのはらのごとく、神聖の宮はございます。中原ちゅうげんの東西南北とその中心の山々に、特別の霊地があるのです。泰山たいざんは、その五霊山ごれけいさんの一つでありまして、いにしえより、天地陰陽てんちいんようを治めた王が天神地祇てんじんちぎの祭りを行う霊山とされております。」


 阿津耳あつみみは、昆迩こんじの口から泰山での天神地祇の言葉を聞いて背筋が伸びた。

 「ほう、神がまいたる天神地祇てんじんちぎ五霊山ごれいさんか。」

 「泰山たいざんは、その神山の一つに御座います。しかしながら、近ごろでは、その様な天神地祇てんじんちぎの祭祀を行う王はなく、えつを滅して以来、泰山たいざんでは、じょ氏の巫女が秘かにこの地を守り通してきたと言われております。」


 「なるほど、えつの王室が、徐氏じょし一族を庇護して、泰山を守って来たのか。ならば、無旦王子むたんおうじかくまったのは、徐氏じょしと言うことになるのではないか。」


 阿津耳之命あつみみのみことは、いきなり、核心を付いて来た。勘の突きどころが冴えているのだ。昆迩こんじは、これ以上の隠し立ては出来ないと腹をくくった。


 「いかにも、徐氏じょし一族の徐賛じょさんという者が、王子の身柄を、引き受けております。だが、の追っ手は厳しく、王子の行く手、行く手に楚の兵士が追って参りまして、もはや身を寄せるところがなくなって来ました。ついに、徐賛じょさんは、自ら王子を連れて秘かに山を越え、せい王の本丸、臨淄城りんしじょう》に向かったのです。」


 「徐氏じょしと言えば、いん帝武丁ていぶていに嫁いだ婦好妃ふこうひの実家ではないのか。『宝貝の海路』を通して、大陸と秋津洲あきつしまを取りつないだ大切な一族であると聞いておるが・・・。」

 「さすが、阿津耳之命あつみみのみことであらせられます。徐氏と秋津洲の関わりは、千年も前から続いております。われらは、徐賛じょさん殿とは、今でもあきないの相手として、信頼のお付き合いさせて頂いております。先般、取引のことで、臨淄りんしの街で、その徐賛じょさん殿にお会いしました。」


 ここまで話を聞いていた阿津耳あつみみは、目を丸くして昆迩から目が離せなくなった。


 「まさか・・・、おぬし、・・・」


 昆迩こんじは目を逸らすことなく、阿津耳をじっと見つめ返した。


 「その・・まさかであります。」


 昆迩も、ここまで話した以上、後戻りはできない。


 「われは、臨淄りんしからの帰りの船に王子を乗せて津島に渡りました。」


 昆迩こんじは、喉元のどもとにつかえていた言葉を、一気に吐き出して、こうべを垂れてしまったのだが、そのまま、阿津耳の顔を直視できなかった。さすがの阿津耳も身体が硬直し、しばし、昆迩の下げた頭を眺めるしかなかった。


 「臨淄りんしを出たのは、われと遊学中の豊玉之男君とよたまのおのきみ、そして無旦王子むたんおうじと叔父の無路むじ殿、世話役のとうの五人でした。臨淄りんしの湊では、徐賛殿じょさんどのの雑穀船に乗せて頂き、蓬莱湊ほうらいみなとを避けて山東莱族さんとうらいぞくの湊に入りました。そこで待っていた済州李承ちぇじゅりしょうの輸送船に乗り換え、黄海を南下し津島つしま辿たどり着きました。島に着くまでは、われも肝を潰す思いでありました。渤海ぼっかい内では、せい軍や軍の船があちこちに現れ、海賊船を監視しておりました。それでも湾内では、徐氏の旗印はたしるしによって救われのですが、黄海に出ると、そこは秩序なき海賊の海でありました。どこの海賊とも知れない船団が五隻、十隻とかたまって襲ってきました。だが、乗り換えた済州李承ちぇじゅりしょうの輸送船は、その無法の海を毎日のように航海しているらしく、少々の海賊船団には、恐れることもなく、堂々と海路を進み、われ等を安全に運んでくれました。」


 昆迩は、ここでひと息ついて、阿津耳之命あつみみのみことを見やったが、阿津耳あつみみは目をつむったまま、口をつぐみ、眉に立てしわを彫り込むばかりであった。明らかに動揺しているのは分かったが、昆迩こんじは、話を先に進めた。

 

 「島に上陸すると、津島のわたつみの宮に王子をお連れし、わたつみの族長、青海あおみ巫女頭みこかしら阿波奈美あわなみに逢わせました。王子の一行は、しばらくこの地に留まられることになり、われと豊玉之男君とよたまのおのきみはさらに船を出して、おき神島かみしま御幣みぬさを奉じた後、豊浦宮とようらみやに入り、八潮男之神やしおおのかみに事情を報告いたしました。」


 阿津耳あつみみは、やおら、組んだ腕を解き、堅い表情を取戻して、昆迩に訊ねた。


 「なれは独自の判断で、王子を連れて来たのか。それで、八潮男之神やしおおのかみは、何と仰せられた。」


 昆迩こんじは、黙ってうなずいた。


 「なんとな。ならば豊浦宮とようらみやは、越の王子をかくまうつもりで、沖之神島おきのかみしまにお迎えに参られたのか。」

 「われは、王子を津島のわたつみの宮にお連れした後、津島つしま豊浦宮とようらみやを何度も行き来致しました。無旦王子むたんおうじ秋津洲あきつしまかくまうのが、秋津洲にとって最良のことだと信じてのことにございます。」

 「昆迩よ、なれは、秋津洲あきつしまの行く末を憂えて、八潮男之神やしおおのかみを説得したのか。」


 昆迩は、またもや、静かにうなずいた。


 「一年かかりました。やっとのことで、八潮男之神やしおおのかみ承諾しょうだくを得たのです。すると豊浦宮とようらのみやは、決まった以上は、ご自身で迎えに参ると申され、沖之神島おきのかみしまにお籠りになり、みそぎをなされて、お待ちになっているので御座います」

 「今日まで、無旦王子むたんおうじを守ってこられたのは、無彊王むきょうおうの弟、無路むじ殿であります。無路むじ殿は、兄の無恬むてん殿と違って、心穏やかな人柄であります。わたつみの宮にかくまわれた王子と無路むじ殿は、毎日、朝日の昇る東の海に頭を垂れては、今日か、明日かと八潮男之神やしおおのかみの返事待っておられたのです。」


 無路むじ殿は、東海に棲むと言われる大龍だいりゅうのことを祖神として敬い、越王えつおうこそが、その大龍だいりゅう守護神しゅごしんであることを信じて疑わなかった。

 八潮男之神やしおおのかみもまた祖神、面足神おもだるのかみの言い伝えを今に守り、その言い伝え通り大龍だいりゅう守護神しゅごしんを自任しているのであった。


 「無旦王子むたんおうじ八潮男之神やしおおのかみのお二人は、同じ海神かいしんの加護を受ける者同士で、心が通じ合われたのでありましょう。」

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