第5話 蜻蛉(かげろう)の誓い

  高天原千年大祭たかまがはらせんねんたいさいから三年が過ぎた。


 宿命の神子みこ若木わかきは、三歳の祝いの日を迎えたのだが、未だに歩くことも話すことも出来なかった。

 この三年間、寝食を共にして若木わかきの世話をしてきた采女とめですら、抱きかかえた若木わかきの君をどのように扱えばよいのか、いまだに戸惑うばかりであった。くちびるは半閉じのまま、ひとみもかすかに開く程度であり、この世の姿が見えているのかすら分からないありさまであった。

 今日は、若木わかきの祝いの日。ここまで若木わかきを育てて来た采女とめにとっては、感慨深い思いであった。 千年祭以来、三年ぶりに、日高見ひたかみの国々から人が集まり、天星山あまぼしやまいつきの庭は、久しぶりに賑わった。金拆神かねさくのかみの肝いりで、若木わかき三歳の無事を祝う祈りが捧げられることになり、国中にお触れが回ったのである。

 人々は、若君わかきみの姿を一目見ようと、方々から幾日もかけてやってきた。大歳おおとし千年の祭祀が行われた二つの祠は、その後、一つにまとめられて新しいやしろとして若木宮わかきみやが建てられることになったのであるが、今日はそのお披露目の日であった。


 天星山あまぼしやまをご神体となして、新しいやしろ若木宮わかきみやは、神々しき姿で皆々を迎えた。太鼓の音が山々に響きわたると、おもむろにやしろの扉が開いた。金拆神かねさくのかみ素乃木妃姫神そのきひひめかみの二人神は、扉の前に進み出て、やしろの奥にある天星山あまぼしやまに向かい恭しく頭を垂れた。

 すると、多くの人々で溢れていた若宮の広場は、たちまちに風のそよぐ音以外、小鳥の声さえ聞こえることもなく、静寂せいじゃくの水が張られたようであった。人々の衣擦きぬずれの音はなく、息する呼吸の音までもが止まってしまったのか。

 その様な中、巫女の白装束に身を包まれた采女とめは、やしろの正面に造られた神の道を緩やかに、そして厳かに歩いた。胸には、両の腕に抱かれた世継ぎ若木わかきの姿、とても三歳とは思えない幼き乳飲み子の姿があった。

 素乃木姫神そのきのひめかみは、采女とめから世継ぎ若木わかきの身体を受け取ると、やしろの依り代である神木に向かって恭しく頭を垂れた。金拆神かねさくのかみは、采女とめから青和幣あおにぎてを受け取ると、左右に振りかざして、あめつちを清め払い、祝いのことばを捧げた。


 「けまくもかしこき、宇都志うつし一族の祖神、天常立神あめのとこたちのかみに恐れみ恐れみ申す。われ、宇都志うつし千年祭を終えてより三歳みとせの時を迎える。祭り前夜に産まれし、わが世継ぎの若木わかきも、はや三年の年月を過ごしました。ここに、世継ぎのすくよかな姿を現し、われ天星山あまぼしやまの神々に心よりの御礼を申し上げます。若木わかき、生まれてよりこの方、手足の運び不自由なれど、その身を助けるもの多し。ひとみは開かずとも、万象の姿を捕らえる力あり。耳は閉じて音聞こえずと言えども、魂の声を聴く。口開かずと言えど、赤子の時より先祖を迎え、祈りなすを知る。これ神子みこなりて、生まれながらに、あめつちのご加護を受ける。わが世継ぎとして、この上なき喜びに御座います。新しきやしろに、新しきあめつち三柱の依代よりしろを奉り、あめのみなかぬしの神、たかみむすびの神、かみむすびの神の新しき御代と永久とわ弥栄いやさかをお祝い申し上げます。」


 その時、やしろ前庭に科戸しなどの風が舞い、若木わかきがいま来た道を走り抜けていった。木々の小枝が揺れて、木の葉をサワサワと騒がせながら、風はやしろの門を吹き抜け天星山あまぼしやまに向かった。その通った道は黄金こがねの光に包まれて輝いた。


 「これこそ、若木わかきの喜びのしるしにてございます。」


 金拆神かねさくのかみうやうやしくもかしこまって、そのように申し上げると、さらに黄金の光は、尾を引いて輝き、人々の頭上に舞った。

 その様を見聞きした人々は、それまでの不安な気持ちが、たちまちに消え失せると、歓喜の声となって、山々に響いた。人々の喜びの声、山びことなり、四方の山に歓喜の声となってこだました。


 だが、歓喜を叫ぶ声ばかりではなかった。世継ぎの若木を怪訝けげんな顔でいぶかしむ輩も少なくはなかった。わが子を抱いた子連れの母が、不満げな顔をして呟いた。


 「金拆神かねさくのかみも、わが子可愛さのあまりに、とんでもないことを言いなさる。手足、不自由で口も利けないわが子を高天原たかまがはらの世継ぎになさるおつもりか。民草たみくさの声を如何して聞きなさると言うのか。」


 「若木わかきの君を祝う喜びの声は、われには悲しみの声に聞こえたぞ。」


 「金拆神かねさくのかみは何をお考えであるのか。あのような幼き不遇の子に、一族の重荷を背負わせるというのか。」


 幾つもの山を越え、三日掛けてやってきたある村長むらおさ金拆神かねさくのかみの言葉には、納得がいかなかった。

 「われも、遥々はるばる麻績おみの里からやってきた。秋津大宮あきつおおみやから佐久花姫神さくはなひめかみさあが、お見えになるというので来てみたけれど、まさか、金拆神かねさくのかみの口から「若木わかきの喜びの声」などと戯言ざれごとを聞こうとは。あの風のささやきは、若木わかきの君の悲しみの涙声ではないのか。」

 皆々は、若木わかきの余りにも不憫ふびんな姿に、金拆神かねさくのかみの非情の仕打ちをいぶかしんだ。

 

 しかし、金拆神かねさくのかみは、そのような声を気に止める様子もなく、世継ぎ若木わかきの身体を抱き揚げると、さらに、皆々の前に高々と上げて、言葉を発した。


 「われ、本日ただ今より、宇都志うつしの族長を世継ぎの若木わかきに譲ることを皆々の前にて宣言致す。見ての通り、世継ぎの霊力、あめつちに満ちて、おそれるものはなし。宇都志うつし一族の弥栄いやさかを託すに相応しく、行く末に光射す。一族の行く末、この光のごとし。」


 さすがに族長の言葉に、一族の者たちは皆、息を呑んだまま、吐息すら失われた。先ほどの歓喜の声は、一体、何であったのであろうか。もはやこの広場には、若木わかきを族長として認める者が、一人でもいるのかと思えるほど、緊迫した空気に包まれた。

 金拆神かねさくのかみは、再び、若木わかきを両腕の中に抱きかかえるとさとすように言った。


 「わが一族の者たちよ、秋津洲あきつしまの皆々よ、今日この社にて、宇都志うつしの世継ぎ、若木わかきのためにお集りいただき、わが心、身に染みてありがたく、この上もなき喜びなり。今日、若木わかきの世継ぎのことを、皆々の前に知ろしめしたのは、ほかでもない。わが一族と秋津洲の行く末を思ってのことである。」


 金拆神かねさくのかみは、天常立神あめのとこたちのかみの末裔であり、高天原たかまがはら主神ぬしかみである。その言の葉に、皆々一同は、水を張った如くに静まり返った。


 「われは三年前、古しえ八束之剣やつかのつるぎみそぎを行った。千年のみそぎは滞りなく終わり、新しき秋津洲あきつしまの御代を迎えることが出来た。だが、若木わかきは、新しき御代を迎える前に、この世に命を授かり産まれいでた。これ、千年の母神、香具姫神かぐひめのかみの思し召しにて、一族が代々に伝えた千年の祈りを疎かにしてはならないとのいましめである。同じく千年前、日高見ひたかみつち族、宇麻志うましの母神シロタエは、自らの命と一族の尊厳を犠牲にして、つち族の血脈を繋ぎ、秋津洲あきつ八部族を守った。今、あめ族である宇都志うつしの世継ぎ若木わかきは、新しき御代を繋ぐために自らの身体をあめつちに捧げ、試練の道を受け容れた。あめ族、つち族の者たちよ、秋津洲の八部族あげて、若木わかきの新しき命を支えて、新しき道を開けよ。若木わかきの手となり足となれ。若木わかきの目となり、耳となれ。鼻となり口となりて支えよ。秋津洲あきつしまの心を八尺瓊勾玉やさかにのまがたまに集め、かぼそき蜻蛉かげろうのごとき秋津の島を守れ。新しき族長、若木わかきを守ることなかりせば、かげろうの民はなし。」


 金拆神かねさくのかみの決意を心澄まして聞いていた佐久花姫神さくはなひめかみは祭壇に進み、金拆神かねさくのかみの仰せに従い、改めて、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを持ちてあめつちの神々に捧げた。さすがに皆々、姫神に従いて、天を仰ぎ地に伏して祈った。この日のことは、「蜻蛉かげろうの誓い」として後々に語り継がれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る