第5話
――部室に満ちる奇妙なささやき。発表原稿がめくられる滑らかな音。目には見えない、しかしその場に張り詰められた緊張の糸。
先輩二人と原稿を交換しつつ、俺たちのチームは発表の最終確認を行っていた。
ディベート開始まで、あと5分。
よく、書いたものを見ればその人が分かるという。俺がざっと目を通した所だと、北川部長の文体は明朗快活、且つ大胆に助動詞も組み込む感情派だ。対して井出先輩はあくまで淡々と、しかしさりげなく核心を突く議論が焼きあがっていて。
「――ん、ねぇ?」
そのとき不意に、部長が小さな呟きを漏らした。何事かと顔を上げてみると、彼女は手にした俺の原稿を指さしていた。
「......吹原くんさ? これ全部、君が書いたの?」
「そうですけど」
そう答えた直後――彼女は明らさまに、不快そうに眉をひそめたのである。
井出先輩が何か口を開きかけたが、それを制するかの様に、部長はスックと立ち上がった。そして彼女は、珍しくも冷たい目つきで俺を見据えたのである。
「ねぇ君、この原稿......本気で書いてないよね?」
あぁ、誰だったか。書いたものを見ればその人が分かると言ったのは。
「こんなこと、本当は言いたくないんだけどさ」
部長はそう言うと、手にした原稿を丸めてため息をついた。
「私ね――本気を出さない人間は嫌いなのよ」
「!?」
――”本気”?
そんなもの......俺には出せる訳が無い。
だって俺は、英語が嫌いなのだから。むしろ憎んでさえいるんだから。
不意に去来するのは古い記憶。誰にも頼ることの出来なかった、独りぼっちだった記憶......。
あのとき悟ったのだ。
この国では誰も、ありのままの俺なんて受け入れてくれない、と。
その感覚が、今日まで俺を形作ってきた。
そう思い至った――と、その時だった。
不意に部長が手を伸ばすと、俯きかけていた俺の顔を、グイッと自分に向けさせたのである。
「つまり、何が言いたいかってね?」
その真っ黒な瞳が、俺を真正面から射貫く。刹那、どうしようもなく身動きが出来なかった。
「――私たちには、君が『必要』だってことよ。ね、分かってくれる?」
「!」
”君が『必要』だってこと”
そんなことを言われたのは......生まれて初めてだった。
「――必要?」
ずっと、ずっと否定してきた。逃げ出して、嘘ついて、取り繕って誤魔化して。悪いのは全て自分と英語、そう己に言い聞かせてきた。
――『必要』。
だがその一言が、まるであの独楽のように頭の中をクルクルと駆け回る。
再び蘇る、あの一言。
“――君には自分の『軸』があるかい?”
......やっぱり心のどこかに、決して譲れない自分がいて。
そうか、ずっと前から気付いてたんだ。己を偽って生きることにも、もう飽き飽きしていたことに。
だから......今ならもう一度、あの頃の小さな自分に寄り添ってあげられるかな?
「私たちに見せてよ、君の本気をさ?」
北川部長が言葉を重ねる。だがそこに、幼いころ聞き飽きた嘘や偽りの響きはなかった。
「だって、そっちの方が断然『面白い』と思うだって」
消せない記憶もある。だけど未来は、今この瞬間からでも ――。
明日は、どんな自分になりたいだろうか?
この『英語ディベート部』でなら、自分を取り戻せるかもしれないんだ。
この二人の先輩が
もし俺の英語を
必要として
くれるの
ならば
俺は
―
。
――カツン! と。
『軸』が床に跳ねる音がした。
「――分かりました」
そう告げた言葉と共に、俺は部長をしかと見返した。
なぜなら。
先輩の手から原稿を取り戻すと、それをグシャリと握りつぶす。
もう迷わないからだ。
先輩が俺を必要としてくれるなら、俺はそれに全力で応えたい。逃げるのは終わりだ。
「俺――やってやりますよ、今度こそ。アドリブだって躊躇はしません」
告げた言葉に、北川部長は――ニヤッと不敵な笑みを浮かべて応えた。
「へ~、君も言うじゃん? じゃあチーム一丸、ド派手にやっちゃおう!」
「はい!」
「僕も異議なしですよ」
井出先輩も便乗すると、俺の肩にそっと片手を載せた。
「さっきはどうなるかと冷や冷やしましたが、でもまぁ、終わり良ければ総て良しですか?」
「えぇ。これも井出先輩のおかげですよ」
「いやいや。僕はただ、有望な新入部員をみすみす逃したくなかっただけでね」
相変わらず底の読めない受け答えをする先輩に、俺は初めて、心の底から笑った。
ちょうどその瞬間、部室にタイマーの音が鳴り響く。『準備時間』は終了、これから本番が始まるのだ。
「Are you ready to debate? 〈ディベートの準備は出来たかい?〉」
顧問の言葉に、チームは皆うなずく。
そして確かにこの時、俺はチームの一員であった。
Who am I? Slick @501212VAT
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