摩天楼
鰹節の会
猛虎
変わらない。何も変わらない。
相も変わらず、この場所は生ぬるい病窟だ。
数週間しか見ることのなかったキャンパスのカフェテリアから外の景色を見ながら、松本は不機嫌に口を結んだ。
理論を語る講師も、近代芸術家達の話をする学生も何もかもが、松本にとってはお遊びにしか聞こえなかった。
松本は彫刻家だ。木に蚤を立て、角材の中に潜む形を彫り出す芸術家だ。
真に芸術家だからこそ、彼は自分の心を堕落させるキャンパスライフを捨て、山奥で彫刻だけの生活を送っている。
今日、わざわざこの大学へ戻ってきたのは、過去に松本が置いていった作品を大学が所有していいかの確認を取るためだという。
一も二もなく、過去の作品は全て寄贈すると返答したのだが、どうにも手続きが必要らしい。
「松本さん、お待たせしました。」
書類を抱えたスーツの男の顔を見ることも無く、手早くサインをして、松本は大学を後にした。
ここに居るのは時間の無駄でしかない。
◇◇◇
松本の住処は、都市から車で2時間程で、それ程秘境ではない。
だが、草木が並び、冷たい水を湛えた川瀬は、人の認識を超えた神がかったものを感じさせる。
原生林のような爽やかな景色の中に、松本のみすぼらしい小屋は立っている。
扉にかかった南京錠の鍵を開け、松本は小屋の中に入った。
薄茶色のブーツを乱雑に脱ぎ捨てて、一直線に部屋の中心へ向かう。
そこには、黒い湿り気を含んだ巨大な角材が、白い布の敷かれた地面に聳え立っていた。
その表面を撫で回し、ぐるぐると歩き回りながら、松本は夢想する。
「何を彫ろうか」
〝何を〟
「うーん」
思考が詰まり、松本は小屋の外へ出た。
初めてこの場所へ来た時からずっと変わらず、透明な川は波立ち、白樺と落ち葉の薄明るい色彩が辺りを覆っていた。
「熊を彫ろう。そうだ、熊を作ろう。」
唐突に、彼は閃いた。
ここ数日の不機嫌が嘘のように、軽やかに動き出す。駆け足で小屋に戻り、間髪入れず作業に取り掛かる。
彼の頭の中には、完成された巨大な木彫りの熊だけがハッキリと像を結んでいた。
その想像を繰り返し唱え、細部を〝頭の中で見る〟。足元に、最初の木屑が落ちる。
彫刻が始まった。
◇◇◇
苦しんでいた。ずっと。
写実的な物では駄目なのだ。
〝本当にリアルなものを作りたいなら、リアルに描いては駄目なのだ。〟
だからといって、どうすればいいと言うのも松本には分からない。
ただ作り、作り、落胆する。───それを繰り返して、次へ進む。
彼の目と鼻の先で、しっとりと重たい木の繊維が削がれていく。
瞬く間に余分な部分を切断し終えて、抽象化された熊形の木塊と相対する。
シャッシャッと落ち着いた音を立てて、まるで生き物のように彫刻刀は動く。·····彼の望むものを彫り出すために。
Aという地点から、Bという地点へ。
刃先から根元まで、ただ直線的に滑らせる。
シンプルで単純な作業に思えるかもしれないが、それは全く間違っている。
この世界に、これ程複雑で難解で、刺激とスリルに充ちた動きは存在しない。
木塊に彫刻刀を入れて木屑を地面に落とす度、松本はますます集中し、のめり込んでいく。
無論、腹も減れば喉も乾く。
だが、それらを無視して進める。
·····そんなものは後でも出来る。
だがこれは、この所作は今しか出来ない。
そんな事を頭の隅で考えて、松本は手を動かし続けた。
部屋が暗くなり、手元が見えにくくなってから初めて、休みをとることにした。
木張りの天井から吊り下がったランプに火を灯して、水を二口飲んだ彼は再び木の塊と向かい合った。
それは尚も巨大で、従順だった。
松本の背丈と同じぐらいの高さで、横幅はさらに大きい。
そんな大きな物体が、手術を待つ患者のように目の前に立っている。
再び手に彫刻刀を取り、これから顔を作る正面へ回る。
今はまだ巨大なのっぺらぼうだが、上手く行けば熊の頭部がお目見えするはずだ。
記憶と想像の中に住まう猛獣。
松本の頭の中には、かつて北海道で見た巨大な一頭の雄のヒグマ。
麦茶色の毛皮を雨露に濡らし、森の小道を歩いてくる姿。
巨大な頭部、がっしりとした骨格、隆起した背中の筋肉。
森の覇者である事を誇るように風を切り、地を踏み締め、体を微かに揺らしながら歩く。
その短いながらも至高な映像を頭に描き、それを目の前の木塊に映し出す。映像に肉体を与える。
◇◇◇
作業は、佳境に入りかけていた。
三日間、ぶっ通しで木塊に向かい合っている。食事も取っていない。時たま思い出したように、ヤカンに口をつけて水分を補給する。
何時間に一回のペースで、立ちくらみがきて目がチカチカする。眼球の根本が酷く痛む。
だが止められない。まだ作業は半分以上残っている。
今は物凄く調子がいい。彫刻刀の掘り跡が、未だかつて無いほど自分の頭に描いたものと合致している。
この機を逃せない。
肉体は既に限界に達しているようだが、不思議とひもじい思いはしない。
時々、思い出したように水を飲んでは、木を削っていった。
◇◇◇
目が覚めた────、木屑が散らばった床から天井を見上げていた。
どうやら、倒れ込むようにして眠ってしまったらしい。考えれば当然か。
だが、頭はスッキリしている。
昨夜までの集中力はそのままに、肉体の休息だけを取ったようだ。
非常に調子がいい。
ここで手を止める訳にはいかない。
松本はフラフラと立ち上がり、そこから二、三時間、身体の半分までを現した熊をボーッと眺めていた。
自分が何をしているのかも分からず、まるで深い催眠状態に陥ったかのようにしていたが、ついに背中から床に倒れ込んだ。
右手に持った研ぎたての彫刻刀が滑り落ち、左手の指に突き刺さる。
流れ出た血をぼんやり眺めていたはずの松本の目には、全く別のものが映っていた。
「·····熊 」
熊が、こちらに向かって歩んでくる。ゆっくりと風を切るように。
その威風堂々とした姿を、松本はじっと見ている。
前後ろ、どの方向を見ても熊が居た。
だが、熊は一頭だけだった。確かに一頭だけだった。
熊がどんな気持ちで歩いているのか、松本には分からなかった。昨日は分かっていたような気もしていたのに、今は分かっていなかった。
だんだんと近づいてくる。
松本は歓喜した。これで細かい部分がよりはっきりと視認できる。毛の一本一本まで。
熊は、大きかった。全長二メートルはあるだろうか。相撲取りを遥かに凌駕する体躯は、分厚い毛皮越しにも分かるほど発達した筋肉を搭載している。
なんの音も発していないのにも関わらず、熊の咆哮が聴こえた。
あるいはそれは、頭の中でかもしれない。
揺らめく陽炎のような無色透明のオーラが、熊を際立たせる。のしりと四足を地に降ろす毎に、身体が大きくなるような錯覚を受ける。
やがて松本の目の前まで来た熊は、彼を見下ろし、噛み付き、生きたまま喰らった。
松本は熊の上品な獲物の食べ方を目に焼き付け、爪の質感を観察し、牙の駆動を見て、鼻の柔らかみを感じ取った。
自分の身体の骨がバキボキと折れる音を聞きながら、松本は目を覚ました。
そこには熊などおらず、激しく痙攣する自分の肉体と、それを見下ろす熊の彫像だけがあった。
「最悪だ」
松本は悲痛に呻きながら言った。
先程見た熊と較べると、自分の彫った熊はゴミクズ同然だった。
昨日は勇猛果敢そうに見えた顔立ちも、恐ろしげだと思った牙も、木の熊の何もかもが、まるで歪で、綿あめのように軟弱でひ弱な生き物に見えた。
こんな牙で獲物を食えるか。こんな目で周囲を見るか。こんな弱々しい熊があるか。
無意味だった。俺が寝食を削って作り上げた物はゴミ同然のろくでなしだった。
強い絶望と落胆が、松本の心を容赦なく苛む。
死んでしまいたい。全てが無駄だった。
今すぐにベッドに潜り込んで、何もかも記憶を消してしまいたい。
だが、止まれない。やめられない。
見てしまったのだ、熊を。
自分はあの迫力を、堂々とした振る舞いを。肉体を。彫刻しなければいけない。
彫刻しないなど考えられない。するしかない。
容易な道のりではないだろう。
あれだけやって、これっぽちのカスしか作れなかったのだ。今度のは生易しいものでは無い。
だが、作らなければならないのだ。
作らなければ、今までの全てを否定した事になる。懸けてきた時間も、労力も。
今、初めてスタートに立ったのだ。
彫るのだ。彫るのだ。
心の苦痛は、木に彫刻刀を差し込んだ瞬間に遠くの物となった。
自分の中には、熊しかいなかった。自分すらもいなかった。
ただ記憶の限り、毛並みを、肉を、彫っていく。
三日経つ。顔ができた。出来を確認する暇などなく体に取り掛かる。
また三日経つ。上肩が出来る。盛り上がった筋繊維の、緩やかなカーブを撫で上げる。
また三日·····。
また三日·····。
◇◇◇
もう何日経ったのか、分からない。
熊しか考えて無いのだ、分かるはずもない。
もう既に大部分が完成していた。
だが、彫刻の姿がハッキリとする度に、松本の身体は弱っていった。
ランプの油を変えるのが面倒くさくて、扉を開け放し、月明かりに当てて作業した。
時折入ってくる虫を食べた。
水は飲んだ気もするが、それはもしかすると、もう何日も前だったかもしれない。
何も考えられない。
ただ、彫刻刀を握った手だけが動く。
頭の中の熊を完成させようと·····。
最後の左足を彫った。
最後の毛を彫った。
最後の爪を彫った。
最後の細胞を、肉を、彫り切った。
プツリと意識が途絶え、松本は気絶した。
目が覚めて、松本は体が動かない事に気が付き、焦った。
彫刻を完成させなければならないのだ、こんな所で動かなくなってる場合ではない。
しばらく身体を起き上げようと奮闘した後、突然、自分が全ての仕事を終えた事に気が付いた。
「終わった·····。終わったぞ!!ふぅぅうう!!」
高い歓声を上げたつもりだったが、喉からは裏返って嗄れた音しか出てこなかった。
松本は小屋の前の川まで這って行った。
作品を作る前と変わらない清らかな水に頭をつけて、水を飲み込んだ。
まるで命の源かのように、水は松本の体に染み渡った。
松本は満足気に頷き、笑った。
泣きながら笑い、やっぱり泣いた。
彼の耳には再び、鳥の啼く声や、落ち葉の落ちる柔らかい音が聴こえるようになっていた。
松本は笑い、泣いた。
自分の運命を呪うかのように泣きに泣いて、よろよろと立ち上がった。
おぼつかない足取りで小屋へ向かう彼の顔には、諦めたような笑顔が浮かんでいた。
摩天楼 鰹節の会 @apokaripus
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