第2話

 お金持ちの家庭に生まれた理梨には専属の運転手がいて、登下校にはいつも車を使っていた。


「今日はここでいいわ。歩いて帰るから」


 そんな理梨だが、この日は、学校からちょっと出たあたりのところで車を止めさせた。


 後部座席から降りて、歩いて自宅を目指す。

 その歩みは、やたらとゆっくりとしていて、買い物帰りのおばさんに追い抜かれたのを皮切りに、腰が曲がりかけたおじいさんや小学生にまで次々と抜かされていく。


 競争するつもりなんてない。今日は、自分の足で歩く! という決意をしてのことだ。だというのに、気恥ずかしさに耐えられなくなった理梨は、雑居ビルの合間に見える狭い路地へと体を滑り込ませた。


「あたしって、意外とくだらないこと気にするヤツだったのね……」


 人の目がなくなった瞬間、理梨はしょんぼり肩を落とす。

 恥ずかしさからは解放されたけれど、それ以上の厄介が、慣れない道を選んだことでやってきてしまう。


「なんだぁ、てめぇは?」


 今時珍しいタイプの不良が、狭い道を塞ぐようにたむろしていた。

 この街は概ね治安がいいはずなのだが、中にはこんなイレギュラーだっている。


「はぁ? あんたが誰よ?」


 すぐ引き返せばよかったものの、強気な理梨は言い返さないと気が済まない。

 言ってしまってから後悔するのだが、もう遅い。


「おう、お嬢ちゃん。痛い目見ないとわからねぇみたいだな」


 不良どもを刺激してしまった。

 相手は複数だ。しかも、理梨よりずっと体が大きい。

 流石の理梨も恐怖を感じて、背中を向けて逃げ出す。

 けれど、少し走っただけで、体に異変が訪れた。


(息がっ……!)


 緊張のせいで早まっていた心拍数と連動するように、肺の空気が外へ吐き出されていく。


 呼吸のペースが乱れに乱れ、吐き出して空気がなくなった肺に対してさらなる排気を要求するような誤作動が起きて、絞られるような痛みが肺にやってくる。痛みは頭にバチンと電流が走るような衝撃を生み、隅にモヤがかかったようになって視界が狭くなった。今聞こえるのは、背後から迫る男たちの声ではなく、体の内側で高速で鳴り響いている心臓の音だけだ。


 理梨には誰にも知られたくない秘密があった。

 生まれつき、人より体が弱いのだ。


 だから幼い頃は、長期間病院生活だった。特に肺が弱く、ちょっと走っただけで息が上がってしまう。

 体育で毎回見学をしているのだって、本当はそれが理由だ。


 機械音のように鋭い音が、肺からせり上がって唇から漏れていく。酸素の不足で吐き気がしてきた。


「誰か、助けて……」


 もはや強気を維持する余裕もなく、瞳にじんわりと涙を浮かべてしまった時だった。


 けたたましい音が響く。

 パトカーのサイレンの音だ。

 面倒事は避けたいのだろう。不良たちは舌打ちをすると、一目散に去っていく。


 サイレンの音が止むと、代わりに地面を踏むざりざりとした音が近づいてきて、うずくまる理梨のすぐ近くで止まった。


「榁姫さん、大丈夫だった? あの、怪我とかしてない?」


 頭上から声がするのだけれど、混乱が残る理梨の耳には入らない。


「たまたまこの辺を通りかかったんだけど、なんか危ないみたいだったから。スマホでパトカーの音を鳴らしたんだ。ちょうど動画サイトにいいのがあって。イチかバチかで」


 この恩人が機転を利かせてくれたおかげで、無事で済んだらしい。


「あ、あんな奴ら、いつもなら返り討ちだけど、今日はたまたま調子が悪かっただけ。助けてくれたことには感謝するわ」


 ようやく落ち着きを取り戻した理梨は、慌てて立ち上がると、いつもの榁姫理梨らしく長い髪を払って優雅に振る舞ってみせた。


「そっか。榁姫さんが無事なら、よかった」


 どこか遠慮したような感じながら、その声音には聞き覚えがあって、しかも自分の名前を呼んできたので、理梨は怪訝な顔をする。

 恩人の顔を確認しようとすると、自分より頭一つ上の位置に顔があって……。


「あっ――」


 理梨は腰を抜かしそうになった。

 だって理梨を救ってくれたのは、クラスメイトにして宿敵である宇都山愛海だったのだから。


「無事みたいだし、ぼくはもう行くね」


 そう言って、何事もなかったかのように去っていく愛海を、理梨は呆然と見送ることしかできないのだった。



 その翌日から、理梨は休み時間のたびに教室を出ていく愛海を、こっそり追跡するようになった。


 愛海の弱点を探るためだ。


 助けてくれたことには感謝している。愛海が来てくれなかったら、本当にどうなっていたかわからない。けれど同時に、愛海に対する強い不安があった。

 よりによって一番知られたくない相手に、一番の秘密である体が弱いことを知られてしまったかもしれないのだから。


 助けてくれたあの時、ほとんど何も言わず去っていったことが、いっそう理梨の不安をかき立てた。


「意味がわからないわ……。登校した時に蒸し返されるかと思ったら、いつもと同じ感じだし……」


 それでも、あのクールぶっていやらしい愛海のことだ。

 この先、意地の悪いことをしてくるに決まっている。


「そうなったとしても、あいつの秘密を握っておけば対抗できるってわけ」


 愛海は休み時間のたびに教室からいなくなる。

 そこに愛海の弱点に関わる何かがあるのではないかと、理梨は見当をつけていた。


 そうして毎日のように、休み時間になるたびに愛海をこっそり追いかけていたのだが、一向にボロを出さない。理梨は、ついつい首を傾げてしまう。


「おかしいわね……。ハッ! まさか焦らしてあたしにプレッシャーを掛けてやろうってわけ!? 精神攻撃なんて、いかにも陰気なあいつらしい手だわ!」


 愛海の姑息な攻撃に震え上がる理梨は、なんとしても弱点を探り当ててやると決意を新たにする。


「まあ、あたしの追跡能力がよほど高いのか、こうして毎日追いかけてもあいつにバレる気配全然ないし」


 そんなある日の昼休み。

 この日も愛海が教室を出ようとするタイミングを見計らって、理梨もこっそり席を立つ。


「榁姫さん、今日こそ一緒にお昼どうですか?」


 クラスの女子グループから、昼食のお誘いを受けてしまった。


「悪いわね、今日もちょっと大事な用事があるの」


 理梨はこれまで、自分を慕うクラスメイトから誘われれば、お昼を一緒にしていた。けれど、最近は完全に愛海の追跡を優先している。付き合いが悪くなった、と思われてしまっているかもしれない。


(それでも今は……あいつを追いかける方が優先!)


 クラスメイトの尊敬を多少失おうとも、榁姫理梨としての尊厳を失うよりはマシだ。

 人の弱みをいつまでも握って離さない悪いヤツの弱点をなんとしても暴く! という使命感に駆られ、この日も、人気のない廊下まで愛海を追跡するのだが……。


「この前から、なんかついてきてるよね?」


 突然振り返った愛海に声を掛けられ、理梨は飛び上がりそうになった。


「べ、別に追いかけてなんかないんだけど!? たまたま行き先が同じだっただけ! 変な勘違いしないでほしいわね!」


 どうして気づかれたのだろう……という動揺を隠すために、理梨は胸と虚勢を張って誤魔化した。強気を気取ることには慣れている。


「昨日今日じゃなくて、一週間前から……榁姫さんに追いかけられてるような」


 追跡初日じゃない! と理梨は激しくうろたえた。

 完璧に尾行できていると思っていたのに、愛海には初めから筒抜けだったとは。


「榁姫さん、どうして?」

「う……」


 愛海の視線が突き刺さる。愛海の真っ黒な瞳は、涼しげを通り越して冷たい印象があって、理梨は後退りをしてしまう。


 愛海は表情を一切変えないまま、少しずつ理梨との距離を詰めていく。

 不気味なその姿に、理梨は恐怖を感じていた。


「もしかして」


 愛海の顔が間近に迫った。


「……ぼく、榁姫さんを、怒らせるようなこと……した……?」

「は?」

「だだだ、だって人気者の榁姫さんがクラスメイトとの楽しい会話を断ってまで、ぼくのこと追いかけてくるなんて、よほど腹が立つことでもしたのかなって……」


 青い顔をして、ぶるぶる震え始める愛海。

 その姿はまるで、獰猛な肉食獣を前にした小動物のようだった。

 愛海を恐れていたはずの理梨から、すんっ、と表情が消えた。


(誰? この弱気な生き物……。本当にあの宇都山愛海?)


 目は合わせられないわ、胸元に寄せた両手は頼りなさそうに震えているわ、肩は縮こまって背中は丸まっているわ、極めつけは整った顔立ちが台無しになるほどの卑屈な笑みだ。


 周囲の人間が称賛する一匹狼のクールなイケメン女子の面影が完全に消えていた。


「あの、ゆ、許してくれるんだったらなんでもするけど……?」


 愛海は、誰にも媚びないし群れないことから、一部女子から多大な人気を集めていた。

 それが今や、許しを請い媚びるような笑みを浮かべて震えている。


(あっ、わかった。こいつ。一匹狼でクールを気取ってるんじゃなくて、ぼっちでコミュ障なだけだったんだ……)


 理梨は愛海の態度から、おおよそのことを察してしまうのだった。

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