記憶の中の人

紫吹 橙

記憶の中の人

 私には好きな人がいる。

 いや、正確には

 私は前世の記憶、というのだろうか。

 それがあるのだ。

 けれど、この気持ちは私のでもある。

 彼が好きな気持ちは、私の中にある記憶だけではない。

 きっとそうだと、思いたいだけかもしれないが。


 でも一つだけ思うことがある。

 いつか、会える日がきたら、と。


 そんな日はこないだろうとそう思っているのに。

 それでも、一目でも良いから


 ーー


 そう思い続けて何年が過ぎただろうか。

 動き出さなきゃなにも始まらないはずなのになにをしているのだ。

 私の中の記憶は最近少し薄れてきた。


 このまま完全に消えたら、私のこの想いも一緒に消えてしまうのだろうか。

 そうなる前に私はしなければならないことがあるのに。

 彼を探しに思い出の場所に行って見つけて伝えたいことがあるのに。

 いるかも分からない彼を探しに行きたい。


 思い立ったら吉日とはよく言ったもので、私はすぐに思い出の場所を回ることにした。


 初めて出会った場所。

 彼と語り合った場所。

 彼が初めて笑ったのを見た場所。

 彼が珍しく苦しそうにしているのを見た場所。

 彼に大切なお願いをした場所。

 彼に大事なことを教えてもらった場所。

 彼が好きだと気付いた場所。

 彼が好きだった桜の樹。


 全部、全部が『僕』にとって大事な場所だった。

 大切で忘れたくない場所。

 けれど、もう忘れなくちゃいけないのかな。


 『私』には今を生きてほしい。

 それを記憶の中にいる自分に言われた気がするから。


 だから、この想いは完全に消すのだ。

 消さなければならない。

 私が今を生きたいのであれば。


 最後に、本当に最後にこの気持ちを込めたものを置いて帰ろうと思う。


『僕は、貴方に貰った想いを今世まで持ってきてしまいました。あまつさえ貴方に会いたいとまで……

 会えるわけがないのに。

 貴方は僕のことを忘れて元気に生きているでしょうか。

 もしそうならそのままでいてください。

 僕も貴方をもう忘れますから。

 この手紙を読んだら破り捨ててくださいね。では、さようなら。

 できることなら貴方と結ばれたかったです。雲母うんもさん』


 私、とは書かなかった。

 何故なら、分かった気がするからだ。

 私が抱えていた好きの感情は、私自身のものではなかったと。


 私は手紙を、桜の樹の根元に置いた。

 風で飛ばされないようにして。


 彼が気づいてくれるかは分からないけれど。

 気づいてくれたら良いとは思う。

 だって私の前世がずっと持っていた想いなのだから。


 私はその場から去った。

 このままここにいると、決意が揺らぎそうだったから。

 私は前に進んで新しい恋をみつけるんだ。

 今度こそ幸せになれるように。

 

 次はちゃんと想いを届けられるように。

 彼の顔が頭から離れない。

 でも、忘れたい。


 だから、私は大粒の涙を流すのだった——

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