電子の蝶
@uchiyaki
切った張ったで出来上がった記憶、整合性を整えるために冷水を下す。今、ここにいる私を私自身だと認識するのに少しの時間がかかる。コンマ何秒の世界だが私には少し、長く感じる。そうやって私というOSをアップデートしてゆく。燃費の悪い小さなガソリンタンクに気持ちばかりのパンを詰め込む。この儀式を行わないと周囲の人間は不摂生という。では食べたあと吐いてそれを空っぽにしたとしてそれは摂生なのだろうか。小さな疑問をループさせながら私のハードウェアを更新していく。最新型に見せたそのハードは見栄えはいいかもしれないが、それがいいことなのだろうか。答えは出ないのでどうでも良い問を放棄する。
重い足を軽やかに回して道を急ぐ。駅まではそう遠くはないが、そう表現することで今日の私を騙し騙し一日を生きて行ける気がした。駅へ着き、可視化されない料金を払いホームへと駆け込む。いつかの映画で観た線路を歩く光景が頭を過る。心象風景でこの忙しい時間帯の線路を歩く私を想像する。電車に轢かれながら軽やかにステップを踏む私。これは後のイラストの題材にできるのではないだろうか。
そんなこんなこんなを考えているうちに目当ての電車が来る。自分の背丈には若干高いつり革を手に持ち、生地獄に包まれながら次の地獄を目的地にして進む。地獄と書いて、ラボラトリーと読む。「良いものは劣悪な環境でしか生まれない。」との言葉があるが、劣悪でなければ向上心も得られない。と私は考える。なのでこの心地よい地獄に私は耐え抜く。話は一回転以上するが、何故ラボラトリーを皆はラボと略すのか。ラボラトリーという言葉ほど発音しやすく、認識しやすい言葉はないと思うが。そんなくだらないことを考えているうちに電車はラボの最寄りへとつく。
ラボ、私の精神に大きく影響を与える環境だ。薄暗い暗室には、何匹かのマウスがいる。狭いゲージに閉じ込められ観察対象になったそれは自分の置かれた状況を理解するのを放棄して、ただ本能で生活をしている。この構造はスケールが小さく見えるだけで、実際の私達も同じ状況なのだ。社会という小さなゲージに押し込められ、寿命という有限を無為に過ごしている。そんな人間という生き物を私は愛おしく感じてしまう。そんなことを頭の片隅に起き、ぼんやりと教授から師事を受ける。といっても主体性はこちらにあり、些細なズレやミスを片っ端からツッコんでもらうだけなのだが。作業自体は特別に難しいことでもないが、結果が出るまでに時間がかかったり同じことの繰り返しが精神を磨り減らす。死んだ顔をしているが、この精神を摩耗させる行為に生を実感する。
ラボでの本日の業務が終わり、一日の半分が終わりを告げる。くたびれた白衣を脱ぎ、動きやすい服装へと着替える。そそくさと暗室を後にする。天気は曇、雨が降ったあとの地面は湿気を持っていて、土の独特の匂いを放っている。重たい頭を働かせながら今日の研究の構図を頭でもう一度描き直し、復習をする。その所々のシーンに晩御飯への思考や明日の予定といったノイズがはしるが、構わずに思案する。傍からみるとただ虚ろに歩くこの学生は、社会に疲弊した人間の模造品に見えるのだろう。
ラボから遠ざかる電車へ乗り込む。本日二度目の電車は行きとは違い、少し散漫としている。電子タブレットから目をそらさない若者、我が物顔で新聞を広げる老人、晩御飯への思いを馳せる子供とそれを見守る親。様々な人間が多様に生きている。しかしこれも社会というゲージの中の現象なのである。このゲージを払い除けたとしたら、この場に何人の人間が残るだろうか。
車内アナウンスが私の帰る場所の最寄りをアナウンスする。そそくさと外に出て帰り道を急ぐ。途中にできた水たまりは、小さい頃に長靴を履いてはしゃぐ私を映し出すが、防水加工もしていないスニーカーで水面を踏みつぶし、歩き抜ける。後ろを向いている暇はないのだ。
家へと着き、まずはインターネットへと接続をする。外でも繋ぎはするのだが、制限を少なく自由に海へと出るには、やはり自宅が一番なのだ。画面に映る私の写し身は、くたびれた私とは裏腹にとても元気にはしゃぐ。このもう一人の私を通じて、社会から逃げ出そうと試みる別種の人間の写し身とコミュニケーションを試みる。その中には日々を謳歌する人。気持ち悪いほどに自分を語る人。自我が強すぎてわけわからない創作をする人。様々な人間がいる。しかし決まって日常というゲージにいる人間よりイキイキとしているのだ。こういった人々とのコミュニケーションを終え、またいつもの日常のゲージへと帰る。
浴槽に湯をはり、シャワーを流し、浸かる。重力を軽減する湯の中では、少しのしがらみを湯に溶き、無きものとしてくれるような気がした。烏の行水ではないものの短い入浴を終え、また小さなガソリンタンクに物を詰め込む。寝る直前に接種するかのカロリーは摂生の基準に入るのだろうか。朝の疑問を掘り返すも無駄なのでやめる。ガソリンタンクを満タンにしたあとは少しの時間デバイスを起動し、文字の入力やイラストのラフ画を進める。眠い目をこすりながら作業をするときが無駄なことを思考しないので作業が進むような気がするのだ。そんなこんなで時計がてっぺんを過ぎる。そろそろ睡眠を取ろうと思う。思考を手放し布団へと沈む。今日一日を過ごした記憶は手放すと、ゲージから出された蝶のように散らばってゆく。
電子の蝶 @uchiyaki
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