私を一番見てる人

ナモナシのナナシ

エミ


 賃貸マンションの一室、ワイン瓶を持ったエミと、床に倒れてるエミの彼氏。アルコールの匂いが充満している中、涙を浮かべてエミが言う。

「ナオ、どうしよう」



 エミと私は中学からの同級生だ。エミが他の女子にやっかまれていたところに通りがかったのがキッカケ。エミはそのまま私に懐き、私は初めて女子と連むようになった。

 友達とのファミレスで初めて肉以外を頼まされ、食べ切れないからとデザートをシェアする文化を教わり、柄でもないプリクラの落書きをやらされた。興味だけあった女子の遊びは「ああ、こんなものか」という感じだったが、二人の関係もそうやって終わらせることをエミは許さなかった。

 そうやって主にエミのまめな努力のお陰で、私たちの親交は今も続いている。



 エミはかわいらしい。つぶらな瞳、白く滑らかな肌、先だけゆるく巻かれた髪、レースに飾られるのが似合う華奢な手足。

 さらには自分を磨く努力もしている。スキンケアは毎晩丁寧に、ストレッチも朝晩絶対に欠かさない。今夜もエミの自宅で私と飲むだけだったというのに、抜かりないナチュラルメイクでふわふわもこもこのルームウェア。しかもこれは見たことないから新しく下ろしたのだろう。

 そんなルームウェアのラベンダーとホワイトのボーダーのところどころに紅いワインが飛び散っている。割れた瓶底からもぽたりぽたりと滴り落ちて、ルームソックスと毛足の長いラグ、そして白いフローリングを汚していく。

 ラグの上にはエミの彼氏。血が額を滑り、ラグを染め上げようとしている。汚れてしまうと彼氏を動かそうとして、下手に巻き込まれたくないからやめておいた。今更な気もするけれど。


 せっかく、エミの厄介な恋愛体質もこの彼氏とはうまくいきそうだったのに。エミの鬼電やLINE連投、スケジュール把握癖も許されたと聞いた。貢ぎたがりのエミを窘め、計画的に結婚資金を貯金させられていると言っていた。

 今までの彼氏よりエミからは愚痴を多く聞かされたが、それでも財布からお金を抜いたり、六股も掛けてるのに開き直ったり、痴漢で捕まったりした元彼たちよりずっと誠実だ。

 今回のことも些細な行き違いでエミが感情的になっただけかもしれない。警察には事情を聞かれるだろうが、彼が生きていたらどうにか許してくれるのではと思う。彼はエミに甘い。


 そういうことに詳しくないから確証は何もないけれど、少なくともこのままにはしておけない。エミに近付こうとして靴を履いたままと気付く。緊急事態だしそのまま、いやしかしと迷い、スニーカーを脱いで部屋へ上がった。



 エミはまだワイン瓶を握り締めている。その体は強張って震えていた。すぐに声を掛けるのが躊躇われ、白いテーブルの上にあったリモコンを手に取って冷房を切った。外から来たばかりの私でさえ寒いと思うほど、空気は冷え切っていた。

「エミ、救急車呼ぼう」

「いらない」

 エミは髪を乱して首を横に振る。駄々を捏ねるようにヤダと小さく喚いた。エミの癇癪は珍しいことではない。そういうときは無理に説得しようとしても逆効果だと散々わからされてきた。

「死ねばいい」

 小鳥のようなかわいい声が這うように鳴いた。そのまま大きな瞳から涙が溢れ出し、膝が折れ崩れた。手から瓶がごろりと転がり落ちる。

 私はそれを足の内側で押さえて止めた。黒い靴下に紅がじんわり染みる。


「窓開けるよ」

 換気し、アルコールの匂いを外へと逃がす。代わりに生温い夜の空気が入ってきた。誰かがタバコを吸っているのだろうか、どこかから煙が香る。


 そこは瓶の破片で危ないからと、エミの肩に手を添えて開いた窓のそばまで誘導した。薄着で冷え性の彼女にはこの夏風がちょうどいいだろう。触れた肌は案の定冷たかったから。

 エミは赤くなった目で夜の明かりを見つめている。まだ涙が頬を伝い顎から落ちて、細いブランドロゴの入ったTシャツを濡らした。箱ティッシュとゴミ箱を横に置いてやる。私のように躊躇ったりはせず、小さな手はまっすぐちり紙を取って鼻を噛んだ。

 横後ろからエミを見る。薄いブラウンのアイシャドウは擦れて寄れ、少しだけ引いていただろうアイラインが涙とともに目尻に溜まっている。ほんのり乗せられたチークは涙で溶けて伝った跡が見える。溶け崩れたメイクはTシャツに落ちて滲みになろうとしていた。



「台所借りるから」

 温かい飲み物を淹れよう。勝手知ったるようにクマのイラストが描かれたエミのマグカップを取り出した。ケトルのスイッチを入れ、その間に私の分もと考えてもう一つ用意する。エミの家にはマグカップが三つある。エミのと彼氏の紺の陶器のもの、そして私のスカイブルーの小花が描かれたものだ。

 台所と洋室は別れているので、今エミの姿は見えない。もちろん彼氏の様子も。ようやく張り詰めていた緊張を緩められ、深く細くため息を吐いた。


 温かいものを飲めば落ち着くかもしれない。エミが愚痴で泣き喚いた夜、よく淹れてやった。だからと大義名分で部屋を出たが、それだけで今のエミを一人にするほど自分の頭がおかしくはないとわかっている。ただ、見ていられなかったから。


 こういうときの酷い顔でも、エミはかわいらしい。大きな瞳は涙で潤んで溢れそうだ。擦られて赤くなった瞼は、いつもよりほんの少しだけ濃く目元に陰を落とす。唇は噛み締められていてもぷっくりと惹きつけるようで、隙間から覗く白い歯がいじらしい。眉間の歪みですら憎らしいほどに愛らしい。

 エミのそういうかわいらしさを、ずっと疎ましいとも思っていた。


 私は昔から女の子らしくいられたことがない。車や機械いじりが好きで、人形遊びより外で駆け回る方が楽しかったし、男子とばかり連んでいた。

 幼いうちはそれで問題なかったが、小三の頃に転機が訪れる。その頃私には好きな男子がいた。一緒に遊んでいるだけで充分だったが、ある日欲が出た。バレンタインのスーパーで、その男子が好きそうな車の形をしたチョコレートを見つけた。喜んで欲しいと思ってそれを買ったけれど、戸惑われた挙句に冗談で済まされてしまった。

 その放課後、彼が教室に残っているのが見えた。彼はクラスのかわいい女の子から不恰好な手作りのチョコレートを貰い、照れくさそうに笑っていた。

 その時私は気付いたのだ。私はかわいい女の子にはなれないと。


 そこから女子に苦手意識が生まれたのもあって、ますます女の子の友達ができにくくなった。エミはそんな私の前に現れたのだ。

 エミが教えてくれる女子の遊びはやっぱり私には合わない。それにエミがいると私の女の子らしくなさが浮き彫りになる。それと元々の筆不精も相俟って、私からは必要な時以外ほとんど連絡をしていない。

 それでもエミは何かと私を構い、そして私に構われたがり、離そうとしなかった。それに対して鬱陶しさを感じることも少なくない。それしかないかと言われたら、即答できないけれど。



 お湯が沸いたようだ。コンロ横に常備されている紅茶の缶へと手を伸ばす。色とりどりの缶の中からどれを選び取ろうか悩み、見たことない新しいものにした。エミはハマると同じ物ばかり飲む。新しいということは最近ハマったということだろう。やはり中のティーバッグは容量より少なくなっている。

 それから自分用にインスタントコーヒーの瓶を開ける。エミは紅茶派だが、私はコーヒー派だ。エミの家には私が愛飲しているコーヒーがいつも用意されている。エミの家では私しか飲まないのに切らしたことは一度もなくて、だから私はこの子を捨て置くことができない。



 マグを二つ持って洋室へと戻る。扉は行儀悪く肘でノブを回し足で開けた。

 エミは扉の音にも振り返らずにずっと夜を見ている。鼻を啜る音が聞こえなくなったから、少しは落ち着いたのかもしれない。

「はい、紅茶」

 エミは私と目を合わせないままマグを受け取る。紅茶はいらなくなかったようで口は付けた。

 エミはベランダに足だけ放り出していて、私はその斜め後ろに立って見下ろしている。そしてさらに後ろには倒れたままのエミの彼氏。なかなかない光景だ。

「これ、お砂糖入れてくれたでしょ」

 エミが声を溢す。

「お砂糖、私にはまだちょっと少ないの。マァくんは完璧に入れてくれてた」

 そうとか曖昧に返事をする。エミの意図が読めない。

「今日ね、マァくんが突然来たの。エミの好きなケーキが手に入ったから一緒に食べようって」

 テーブルには確かにケーキの箱も置いてあった。一体いつからだろう。冷蔵庫にでも入れておくべきか。だけど本当は今こんなことを考えてる場合じゃないことくらいわかっている。

「ナオと会うからダメって言っても、あんまり聞いてくれなかった」

「まあ彼はそうだろうね」

 マァくんはエミの厄介な性質に寛容な反面、エミのことを好き過ぎる嫌いがある。エミにとっての一番が自分だと思っていて、それでエミと揉めることもあったらしい。その愚痴を聞かされる度に、私は勝手にやってくれとしか思わなかったけれど。

「ヤダって断って、でもマァくんごねてさ、それで私に言ったの」

 ――おかしいよって。

「私のナオへの気持ち、おかしいんだってさ。彼氏より優先したくて、ナオの好みのお菓子とかは絶対ストックしてて、ナオは私を一番にしてくれるわけじゃなくて、砂糖の量も完璧じゃないのに」

 エミが私のことを好いてくれているのは知っていた。だけど、こんなにだとは思っていなかった。それはまるで――。

「ナオと浮気してるんじゃないかって言われた」

 今ここで私が口を開くのは違う気がする。

「違うのにね、ナオは私のこと、そういうふうに好きじゃないのにね」

「絵美」

「私は、ずっと好きなのに」

 絵美がこちらを振り返った。ぼろぼろと涙を流している。ずっと噛み合っていなかったパズルのピースがカチリと嵌まる音がした。

「ずっと認められなかった。認めたくなかった。でも、マァくんに言われたらさ、もう自分を騙せるのおしまいじゃん」

 マァくんはエミのことをよく見ていた。私以上にはもちろん、きっとエミ自身よりも。

 だから絵美も認めざるを得なくなったのだろう。そしてパニックと癇癪とで彼を殴った。置いてあったワインは赤で、エミとマァくんが好きな白じゃなかった。どこまでもそういうことだ。

「ナオが私のことそういう目で見れないの知ってるよ。でも私、ナオに依存してるの。ナオそういうのはキライでしょ?だから他の人とかに依存しようとしてたんだけど」

 返せる相槌すらない。

「もうダメになっちゃった」

 絵美は白い腕でぐっと両目を擦った。メイクが崩れるのも気にしていなくて、私はそんなにぐしゃぐしゃな絵美の顔を見たのは初めてだった。

 温泉に行ったっていつもその後軽くはメイクするし、自宅で会う時もそうだった。本当に寝る直前、たいてい私が寝てから落として、朝一番には済ませていた。それも全部がそうだったのだ。

「奈緒、ごめんね」

 絵美は立ち上がって私の襟を掴んで引き寄せてキスをした。血の味がする。噛んで傷付いたのか、絵美の唇にぷつと血が浮かび滲んでいた。


 絵美はそのままベランダへ出て、手摺を両手で掴んで跳び上がり、バッと柵を飛び越えた。

 私の頭はそれを認識した途端勝手に体を動かして、絵美より素早く飛び降りる。驚いた表情の絵美の腕を掴んで抱きしめ、そしてそのまま身を捩らせて生け垣へ目掛けて落下する。

 数瞬の後、葉っぱがクッションになったものの重たい音がして、私たちは積み重なって地面に着いた。私が下敷きになった形で、絵美に大きな怪我はなさそうだ。私も打ち身くらいだろう。

「絵美さ、三階からじゃ死ねないよ」

「じゃあどうして後追ったのよ」

「知らない。でもさ、本当に私がアンタを追い掛けるの想像してなかったの?」

 絵美が何か言い返そうとする前に畳み掛ける。

「私を一番ちゃんと見てるの、アンタなのに」

 絵美はわあわあ泣き始めた。こういうところがダメなのだろうかと思いつつ、いつものように背中を擦って宥めてしまう。

「私さ、絵美の言った通り、絵美のことそういう意味では好きになれないよ」

 もうこの際だ。全部言ってしまおう。

「絵美のこと嫌いで、でも親友だと思ってる」

 たぶん酷いことを言っているんだろうな。昔の私がされたよりもずっと酷いこと。

「そういうところが好きなんだよ、バカ」

「バカは絵美でしょ」

 パトカーのサイレンが聞こえる。これは私たちに向けてじゃないかもしれないが、それでも直に来る。

 マァくんが生きてるか死んでるかわかんないし、絵美はもちろん、私も何らかの罪に問われるのかもしれない。だけどまあ、それでもいい気がした。私と私の大切な親友は生きている。そんな身勝手な理由だ。



 私たちはあちこち擦り傷切り傷だらけだ。でもこの夜にはこんな方がお似合いだろう。

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私を一番見てる人 ナモナシのナナシ @namaenashi714

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