第6話 殿軍

 ビェルゲン丘陵での戦いは三日間に及んだが、ベルトラム軍はアンゴルモアの猛攻を耐え切ることが出来ず、自ら陣頭指揮をっていたカイン国王は、ついに撤退命令を出した。

 撤退にあたり、殿軍しんがりとして敵の追撃を食い止める大役に任じられたのは、他ならぬタリアン殿だった。


「やあ、パトリシア様。あなたも早く撤退の準備を……」


 神官の一人が聞きつけてきた情報を知らされて、慌てて駆け付けた私を、彼はいつも通りの穏やかな表情で迎えた。


「あの、殿軍しんがりを務められるというのは本当なのですか?」


「はい。アンゴルモアの追撃は必ず食い止めてみせますから、パトリシア様は安心して……」


「それって、宰相シュラウドに危険な役目を押し付けられたということではないのですか!?」


 彼の言葉を遮って、疑念を叩きつける。しかしタリアン殿は穏やかな表情を崩さず、


「たとえそうだとしても、誰かがやらなくてはならない役目です。そして、私ならば被害を最小限にできるという自負もあります」


 それは確かにその通りだが……。


「なら、私もそばにいさせてください!」


 せめて、せめて最期の時くらいは……!

 そんな私を、彼はまっすぐに見つめて言った。


「パトリシア様。いいえ、聖女パトリシア。今あなたがすべきことは何ですか?」


 そんな……ことは……、そんなことは言われなくてもわかっている。


「撤退に同行し、脱落者を一人でも減らすこと……」


 そう。治癒術士が一人いなくなれば、助かるはずだった何十もの命が失われることとなる。

 彼と一緒に死にたいなどというのは、単なる私の我儘わがままでしかない。


「その通りです。そしてそれは、あなたにしかできないことだ。あなたは、あなたの使命をまっとうしてください」


 優しく微笑んで、タリアン殿は言った。私がずっと大好きだった、彼の優しい笑顔。


「わかりました、タリアン殿。私は私の務めを果たします。その代わり、一つだけ約束してください。必ず……必ず、生きて私のところに帰ってきてくださると」


「それは……」


 口ごもるタリアン殿。それはそうだろう。精強無比なアンゴルモア軍を、味方が安全圏に逃れるまで食い止めた上、自らも敵の追撃を振り払って離脱する――あまりにも困難で危険な役目だ。必ず生還するなどと、安請け合いできようはずもない。だが――。


「いえ、わかりました。必ず――約束は守ってみせましょう」


 決意を込めた眼差しで、彼はまっすぐに私を見つめながらそう言い切った。



 ベルトラム軍本隊の撤退が開始された。

 すでにこれまでの戦闘で、多くの戦傷者が出ている。そんな彼らを、どうにか歩行可能な状態にまで治癒したが、やはり手の施しようのない者たちも少なくない。


「お気になさらんでください。すぐにくたばっちまってたはずの俺たちを、懸命に治療してくださった神官様たちには、感謝してもし切れねえぐらいでさぁ。アンゴルモアの奴らが来たら、せめて指の一本でも喰い千切ってやりまさぁ」


 そんなことを言って笑う彼らに、心の中で詫びながら別れを告げ、撤退に同行する。

 神官たちを指揮して、傷の痛みがぶり返した者の患部を治癒してやったり、倒れこみそうになった者の体力を回復させてやったりしながら、もうどれくらい進んだだろうか。


 ふと気が付くと、神官の何人かがひそひそ話をしていた。私の視線に気付いた一人が、側に駆け寄って来て耳打ちする。


「え? ハーノイを放棄する?」


 漠然と、王都ハーノイまで退いて籠城するのかと思っていたのだが、そこも放棄してさらに南のティエンマルクまで撤退するらしい。

 王都には私のお母様やお姉様もいるし、もちろん多くの市民も暮らしている。彼らはどうなるのだろう……。


 さらに心配事が増え、心がつぶされそうになりながら、なおも撤退行を続ける。きっと生きて帰ってくるという、タリアン殿の言葉だけをどころにしながら――。



 二昼夜に及ぶ撤退行の末、私たちはティエンマルクの町に辿り着いた。

 アンゴルモアの追撃にさらされることなくここまで辿り着けたということは、タリアン殿が奴らを食い止めてくれたということに他ならない。けれど、彼が無事であるかどうかはまた別問題だ。


 もちろん、ここも安全地帯というわけではなく、いずれは襲い来るであろうアンゴルモアの本格攻勢に備えて、将兵の方々は早速迎撃準備に取り掛かっている。


 その一方で私たち神官も、疲労困憊の人たちを治癒しないといけない――のだが、皆から、パトリシア様も少しは休んでくださいとか、休むのも仕事のうちですよなどとたしなめられた。

 そんなことを言われても、タリアン殿のことが心配で眠りたくても眠れない。まだ体を動かしていた方がましよ、などというやり取りをしているところへ、いきなり声を掛けられた。


「パトリシア! よくぞ無事で!」


 懐かしい女性の声。でも、どうしてこんなところに?


「お母様! それにお姉様も!」


 そこにいたのは、今は宰相シュラウドの妻となっている私の母と、王妃である姉。王都ハーノイにいるはずの二人だった。


「二人とも、どうしてここに? ハーノイから避難して来られたのですか?」


「あの人から手紙が届いてね。ビェルゲンはもうちそうもない、ハーノイも放棄するから早々に避難せよと」


 母が言う「あの人」とは、もちろんシュラウドのことだろう。そうか、そこまで予測していたのか。


「で、ハーノイの人たちも可能な限り避難させて、ここまでやって来たってわけ」


 さすがに、その言葉には驚いた。

 ハーノイがアンゴルモアの手に落ちれば、市民がどんな目に遭うか。噂に聞く、彼らがこれまでに攻め落とした都市で行ってきた蛮行は、想像するだに身震いするようなものだ。

 犠牲者が皆無ということは不可能にしても、一人でも多く避難できたのなら、それは素晴らしいことだが。


 と、そこに荒々しい足音と共に新たな人物が現れた。宰相シュラウド=チャリオン。この国の実質的な最高権力者だ。

 そして、彼は高らかな音を立てて、妻の頬を打った。


「王族および貴族の妻女も共に避難させろとは言ったが、市民の避難までさせろと言った覚えはない。もしアンゴルモアに追いつかれていたらどうするつもりだったのだ」


 倒れ込んだ妻を冷ややかに見降ろしながら、シュラウドが言う。

 その前に立ちはだかったのは、シフォン姉様だった。


「王侯貴族だけが市民を見捨てて王都を逃げ出したとなれば、チャリオン朝は国民の信頼を失います。お母様がなさったことが間違いだったとは思いません!」


 さすがに王妃にまで手を上げるわけにはいかなかったのだろう。シュラウドは鼻白んだ表情のまま、無言で立ち去った。


 運命に流され、男に従うだけの人生を送って来たかに思えた二人の、思いがけない強さを垣間見て、私の胸は熱くなった。


「どうしたの、パトリシア?」


 お姉様に手を引かれて立ち上がったお母様が、怪訝そうに私の顔を見る。


「いえその……、お二人は私の誇りだな、と思って」


「何を言っているの、聖女パトリシア。あなたこそ、私たちの誇りですよ」


 王宮を離れて以来、十年ぶりに見る母の笑顔は、とてもあたたかだった。


 しかしそれはそれとして。王都からの避難民が合流したのなら、そちらの怪我人や病人もなくっちゃ、と言い出した私を、二人はものすごく怖い顔で睨み、あなたも少しは休みなさいと無理やり寝かされてしまった。

 眠りたくても眠れない――と思っていたが、どうやら心身ともに限界に達していたらしい。私は深い眠りに落ちていった。



 目が覚めると、すでに日が暮れかけていた。

 殿軍しんがりの部隊は、まだ合流していないという。

 アンゴルモアの追撃を食い止めた代償に、自分たちは全滅してしまったのではないか――。そんな恐ろしい想像を振り払うように、私は傷病者の治癒に炊き出しにと駆けずり回った。

 そうするうちに、すっかり日も落ちて、あたりは夜のとばりに包まれた。

 夜の暗さが、ますます不安を掻き立てる。


 タリアン殿に逢いたい――。


 アミッタ女神に祈りを捧げつつ、怪我人の容態をていた時、神官の一人が息せき切って駆け込んできた。


「パトリシア様! レロイ伯の部隊が!」


「本当!?」


 思わず立ち上がってしまう。後のことを任せて町の城壁に駆け上ると、暗闇の向こうに、薄ぼんやりとした光の行列が見えた。

 松明たいまつなどをかかげて敵の目に付くことを避けるため、光魔法を低い位置で維持して足元だけを照らしているのだ。

 アンゴルモアの偽装ではなく、間違いなく友軍であることはすでに確認済みだと、傍らの将官殿が教えてくれた。

 居ても立ってもいられず、私は夢中で駆け出した。


 途中何度も転びながら、ようやく部隊の側に駆け寄る。

 暗闇の中、足元の光魔法でぼんやりと照らし出された、ぼろぼろに傷付いた兵たちは、もはや亡霊の軍勢のようにしか見えないが、しかし、彼らからは確かに生命の脈動を感じる。

 そしてその中に、彼は居た。


「タリアン殿……!」


「パトリシア様! よくぞご無事で……」


 いや、それはこっちのセリフ!

 彼の服は、敵の返り血なのか自分の血なのか、全身真っ赤に染まり、左肩には矢が刺さったままだ。駆け寄った私の目の前で、彼は崩れ落ちた。


「タリアン殿? タリアン殿! タリアン殿! タリアン殿!」


 懸命に叫ぶ私の肩を、誰かが掴む。


「落ち着いてください、パトリシア様。緊張の糸が切れただけです。確かに浅手あさでではありませんが」


「エイミー?」


 振り返ると、長年連れ添った助手の姿があった。私を追いかけて来てくれたらしい。

 いや、彼女だけでなく、神官たちによる救護班を編成して連れて来てくれたようだ。


「ほら、しっかりしてください。聖女パトリシアの名が泣きますよ」


 そう言って、エイミーがからかう。いや、私はそんな立派な存在ではない。弱い心を抱えた、ただの人間で、ただの女だ。


 救護班は手際よく重傷者を搬送していき、私たちは自力で歩ける者たちと共に、町に戻った。


 タリアン殿の傷は、左肩に受けた矢に、右の頬にもほんの少しずれていれば失明していたであろう刀傷、それ以外にも大小いくつもの傷が体中至るところに付けられている。

 ひとまず肩の矢傷の応急処置をし、その他の傷も止血しておいた。本格的な治療は明日以降だ。

 時刻はすでに深夜。彼はベッドに横たわり、ぐっすりと眠っている。


「今私たちが無事でいられるのも、全部あなたのおかげ。本当にありがとう」


 そっと呟いて、私は眠っている彼の唇に、唇を重ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る