第21話

 1940年5月29日。

 ふたたび、ヴェネツィア宮殿に三軍大臣・参謀長会議が招集された。

 イタリア王国陸軍の参謀総長がピエトロ・バドリオ元帥に交代されたその日のことである。

 グラツィアーニ元帥がその職を追われたのは、現在の戦況を見誤ったことが直接の理由であった。

 もっとも、今の状況を予測できたものは居ない。


 少なくとも、イタリアには。


 にも関わらずただひとりグラツィアーニだけが責任を問われたのは、彼が人材の浮沈が激しく流動する「陸軍」の参謀総長だったからに過ぎない。

 海軍のカヴァニャーリのように、一貫した統領の支持を崩さなければ延命できたかもしれない。

 空軍のバルボのように、組織内において他に並び立つ者などありえない絶対の存在感を備えていれば、排されることもなかっただろう。

 三軍でもっとも大所帯であるがゆえに「代わりうる立場」の候補に事欠かなかったのも、グラツィアーニには災いした。

 

 グラツィアーニに代わって陸軍参謀総長に就任したピエトロ・バドリオ元帥は、エチオピア戦争の英雄であり、グラツィアーニよりも先任の元帥である。

 人物としてまったく不足はない。不足はないが。

 バルボはその人物をあまり好ましく思っていなかった。


 ドイツのポーランド侵攻のあと、公職を擲っても開戦には反対した当時の参謀総長であるから、バルボは一定の敬意を抱いていた。

 しかしドイツのフランス侵攻後は、積極的に参戦を促す一派の旗振り役として振る舞っている。信用できない人間だとそれで判断していた。 

 それでも現状に浮足立っているのはなにも彼一人ではない。


 ただの変節漢なのか、あるいは、君子の豹変とでも評すべきものなのか。


 バルボ自身の好悪はひとまず措いて判断する必要がある。

 それほどに、この一月のイタリアの動きは混沌としていた。


 5月10日。

 かねて予想されていたとおりのドイツのフランス侵攻が始まった。

 イタリア陸軍は、ドイツの侵攻計画についてかなり正確に見抜いていた。


 低地諸国からの侵攻、マジノ線への陽動攻撃、そしてアルデンヌの浸透突破。


 たった一つ。

 致命的に間違っていたのは、その侵攻線の戦力配分の見立てであった。


 ドイツ軍は低地諸国からの侵攻、在りし日のシュリーフェン・プランの焼き直しのような侵攻路にはあまり戦力を割かなかった。

 マジノ線への陽動攻撃も、要塞からの機動反撃部隊の誘い出しができる最低限度の部隊のみを配置し、それを遂行させている。

 フランス侵攻作戦において、ドイツはアルデンヌの森林湿地帯を突破する部隊をこそ主力として、戦力を集中したのである。

 

 機械化されて速度の優れた装甲部隊・自動車化部隊の殆どが、突破不可能とされた湿地と森とを易易と抜けた。

 国境線に向けて戦力移動をはじめていたフランスの対応はまったく間に合わず、そのまま真っすぐフランス沿岸、対岸にイギリスを望む海岸一帯までいっきょに突破を許す。

 わずか2週間足らずの間の出来事である。


 その後は包囲された英仏軍を南北から締め上げ、ダンケルクからの英軍の脱出を完全に阻止することは出来なかったものの、大きな打撃を与えた。

 欧州派遣イギリス軍はその重装備の全てを放棄し、動員された人員の4割近くを虜囚として喪った。

 6割もの脱出を許してしまったと見るのか、4割は損害を与えたと見るのか、英独では見解がまっぷたつに分かれるところではあるものの、イギリスが喪った人的資源は相当におおきい。


 この劇的な戦争の進展に慌てたのが、イタリアであった。

 より正確にはイタリア王室・軍の一部であった。

 まやかし戦争によって戦争への脅威の感覚が鈍麻していたところに、ドイツ軍の破竹の快進撃。これらの軍を取り巻く人々が掌返しで参戦を騒ぐのも無理はなかった。


 決定的だったのは国王。

 その政治的意志の表明に慎重というか、常に周囲のバランスを意識しながら優柔不断で曖昧な態度に終始していたヴィットリオ・エマヌエーレ3世が、ムッソリーニ統領に対仏開戦を促したというのだから恐れ入る。

 わずか半年前には「軽挙に流れぬように」と釘を差した相手に対して、正反対の意志を示してまったく悪びれないのも驚きだが、それに反発しないで追従する人材も既に確保していたことも驚きだった。

 戦争の回避を支持していたはずのピエトロ・バドリオ元帥は、国王の代弁者として鮮烈な陸軍への復帰を果たす。

 その後の陸軍の対応は極めて早く、29日の陸軍参謀総長の交代という事態で一応の決着を見る。

 いまや陸軍はまったくハッキリと「対英宣戦」の意思を鮮明にしていた。

 海軍も消極的ながら、開戦すればそれに反対することはないと確約済み。


 バルボの空軍だけでそれに抗うのは困難だった。


 今年二度目の秘密会議はあまりにもあっけなく終わる。

 統領の指示が与えられただけだったからだ。


 1940年6月10日をもって、対英仏宣戦布告する。

 バルボはそのことを一方的に告げられただけ。


 自分への通告がいちばん後回しにされ、陸海軍には事前に伝えられているのは明白だった。

 バルボはその屈辱を意識する余裕もなかった。

 夏に伸ばしたはずの期限が、あっという間に詰められてきたこと。

 戦力整備の予定が根本から崩れていくことのほうが、よほど深刻な問題であった。



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バルボの楽園 眞壁 暁大 @afumai

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