十、おなかはからっぽ
「叔父さんのうちに泊まっていけばいいのに」
「明日早いからな」
ゆみこさんをタクシー乗り場まで見送って、川べりを歩いて帰った。どおどおと音がした。さっきまでの雨で水かさが増えているのだろう。さっきバーが並んでいた川はここから枝分かれした川で、こっちが「本線」だ。
そういえば宇都宮に来てからひとりで出歩くのはめずらしい。いつも叔父さんと一緒に行動していたのだ。いや、近くのコンビニとかツタヤに行くぐらいはひとりでも行くけれど、完全に別行動で過ごしたことはなかった。叔父さんが僕にかまってくれているのか、その逆か、いまいちわからなかった。
叔父さんは今日いちにち何をしていただろう。またロックマンの動画でもみていたのだろうか。見てるだけでじゅうぶんなのだと、やるのはめんどくさいのだと、叔父さんは言う。毎日ログインするゲームは無理だろうなと思う。叔父さんはどこにもログインせず、ドーナツの輪の中で寝てばかりいる。
格好つけてゆみこさんと大人なデートをしたわけだけど、今ごろおなかがすいてしまっていた。ちょっと遠回りして買い食いしようと思った。アパートの向かいのコンビニはもう閉まっている時間だ。
ひとりで夜道を歩くのはワクワクする。スマホもないから完全にカンだ。ところで母さんは地図を見るのが大キライで、いつもカンであちこち行くからすぐに道に迷う。たどり着いたあとでスマホの地図を眺めて、答え合わせをする。意外と遠回りしてなかったわ、なんて得意顔をして。
川はぐねぐねと折れ曲がっていた。こんなだったろうか? 住居表示を見ると二番町だ。そんなに遠くには来ていないはずだけど、夜と川の音で方向感覚はぐちゃぐちゃだった。ゆみこさんの言っていた図書館はこの辺だろうか。もちろんこの時間にやっているわけはないのだけれど——。
そうしていたら、急にぎゃんぎゃん吠えたてられた。振り向くと大きなマルチーズだった。となりのおじいさんの犬のように見えた。
「なんだよ、脱走したのか?」
犬は唸りながら、しかし尻尾は振っていた。こっちへ来いと行っているかのように歩き出す。
犬のゆく先を見ると、ざわざわ揺れる庭木の向こうに市立図書館二番町分室と銀色の看板がぼんやり光っていた。
「……あった」
図書館には明かりがついていた。こんな時間に? 喫茶室営業中との黒板も出ていた。ゆみこさんの言っていたドーナツのことを思い出して、ちょっとのぞいてみたくなった。本当はラーメンとか牛丼が食べたかったのだけど、叔父さんにおみやげにしてもいいなと思ったからだ。カレードーナツなら僕も食べたい。二番町分室はコンクリート打ちっ放しの建物で、バレエ教室とちょっと似ている。石でできているみたいだ。半開きになっている扉を、犬はひょこひょこ入っていく。
中に入ると、いきなり本棚が林立していた。通路は狭いし本はかなり無造作に詰め込まれていて、どちらかというと古本屋っぽい。掃除は行き届いている。
「何を! お探しです!」
ものすごく大きな声がしてあわてて振り返ると、おじいさんだった。
「や、のぞいてみただけです。今度、宿題をしに来ようと思ってて」
「……なんだ、となりの居候か」
急にふつうのボリュームになった。普段は耳が遠いふりをしてるんだろうか?
「子どものくせにこんなとこまで来て」
言いながら、犬を抱き上げた。とても重そうだ。ものすごくへんな状況なのだけど、僕はぺらぺらしゃべることができた。あるいは沈黙するほうがおそろしかったからかもしれない。
「犬と一緒に働いているんですか?」
「ワークライフバランスだよ」
「いつもベビーカーにのせてますよね、いまは元気に歩いているように見えますけど」
「ちょっとの距離なら平気さ。たくさん歩くのが苦手なんだ」
おじいさんは犬をなでた。犬はやっぱりふんぞり返っている。
「足がだめになるっていうのは、歳をとるっていうのは、そういうことだよ。ある日突然ゼロになるんじゃない」
少しずつ死んでいくのだという叔父さんのことを思い出した。グラデーションで、境目はぼやけていると言っていた。
「図書館ってこんな時間までやってるものなんですか」
「夜だからみんな眠らなきゃいけないわけではあるまいよ。さて、夏休みの宿題だって?」
おじいさんは胸をはった。
「今はいいです、ノートも何も持ってこなかったから」
「このへんが夏休み特設コーナーだよ。昆虫図鑑か?」
いいと言っているのにおじいさんはうれしそうに案内した。僕はわりと気を使うほうなので、ちょっと眺めてみることにした。歩きながら夢をみているのかと思ったけど、感触がリアルだ。本からは古い紙のにおいがした。
『セミの一生』
なぜかそのタイトルが目をひいた。青い背に銀色の文字で書かれていた。ぱらぱらとめくる。
『セミには蛹の期間がなく、これを不完全変態といいます。卵↓幼虫↓成虫です』
『セミはオスだけが鳴きます。腹部には共鳴室という鳴き声を反響させる空間があり、おなかはからっぽです。後ろのほうに内臓が詰まっています』
『羽根がもろいため、おしりを突き合わせるように交接します。交接したまま飛ぶこともできます』
叔父さんは、おれはセミの逆なのだと言っていた。不完全なヘンタイで、からっぽで、うろうろさまよいながらセックスする。そういうふりをしている。たぶん、魔法のせいだろう。でも魔法がなんなのか、僕にはわからない。
でも僕がさわった叔父さんはしろいギョーザでお湯のなかでたぷんと揺れていて、おなかはやわらかく、中身にいろいろ隠していて蛹だ。ねむって羽根を閉じている。かみつくとじゅわっとこぼれる。
「ドーナツいるかね」
おじいさんが紙袋を持ってやってきた。
「売れ残りだけどもね」
「りんごのドーナツですか」
「それは人気だからもうないんだ。甘くない、輪っかでない、白いドーナツだよ」
それはドーナツなのだろうか? よくわからないけどとりあえず受け取った。おなかが減っていたからだ。
「その本を貸し出しだね?」
「いや僕はカードも何も持っていないし、だいいち宇都宮市民ではないんですけど」
「でも宇宙のすみっこで寝起きしているだろう?」
おじいさんは笑った。
「あとで返してくれればいい。こっそり貸してやろう。裁量労働制なもんでね」
「はあ」
貸してくれるというならそれでいい気もした。そろそろ帰らないと叔父さんも心配するかもしれない。
「どうもありがとうございます」
ともかくお礼を言って、図書館を出る。犬はまたぎゃんぎゃんと吠えた。
全然わけがわからない。僕は酔っ払って寝ぼけているのかもしれない。
へんだなあと思ったらアパートの目の前だった。意外と遠回りしてなかったわ、という母さんの言葉を思い出す。でもとても疲れた気がした。まあそうだろう、今日は朝からプールに行っていたのだから。水着をはやく洗濯しなくては。
玄関の前でセミがひっくり返っていた。アパートの廊下のちかちか明滅する蛍光灯に照らされていた。生きていると死んでいるがまたたいて、ちらついているのだと思った。
それをなんとなく横目で見ながらドアを開けたら、叔父さんが部屋の真ん中で倒れていた。
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