九、セーフセックスインザプール


「ごめんね。私、雨女なんだ」

 ゆみこさんが言う。このあいだまでキンパツだったゆみこさんの髪は真っ黒なベリーショートになっていた。びっくりしたけどこっちのほうが似合う。小さな水着が身体にぴったりしているのもあって、美容室で会ったときより子どもっぽく見えた。僕と並んでもカップルに見えるかもしれない。

「僕は雨でも泳げるけどな」

 ゆみこさんと僕はプールに来ていた。が、お昼をまわったところで雨が降り出した。プールサイド、屋根のあるベンチを陣取れたのはラッキーだった。コンクリートの灰色はみるみるうちに色を濃くしていくけど、雲はそんなに暗くない。

「どうせぬれるもんね。でも私はやだよ、プールが雨水ばっかりになっちゃいそう。そしたらそのへんの池や水たまりとかわんないじゃない」

「なるほど。ゆみこさんの意見を尊重します」

 すぐ止むならプールは続行できそうだが、状況はなんともいえない。僕らと同じで判断に迷う人たちがやはり、ベンチで水面をにらんでいた。

「めぐちゃんてば、ほんとに来ないとは」

 冷めてふにゃふにゃになってしまったフライドポテトを食べながら、ゆみこさんが言う。食べきれないらしく僕に差し出した。きつめの塩味が泳いだ後の身体にしみる。さっき食べた自動販売機のハンバーガーは、はじめからパンがしわしわだった。グーテンバーガーと古めかしい字で書かれた自販機で、手で持てないほど熱々の箱がごとんと落ちてきた。小さいしあたためただけのしょぼいもので、大しておいしくないのがなんだかよかった。そしてそれがだんだんおいしい気もしてきたのだから不思議だ。

「具合悪いって?」

「知りません」

 出かけるとき声をかけたら、おれはきょう生理だからプール入れないの、とふざけていた。腹が立ったのでそれ以上なにか言うのをやめた。

「しょうがないおじさんだよね」

 宇都宮のプールはものすごくシンプルで、50メートルプールと子供用プールしかなかった。ドーナツの輪の外、田んぼと畑の真ん中にプールはあって、荒野のオアシスみたいだった。流れるプールも波のプールもないから僕らはひたすら泳いだ。ゆみこさんはクロールが上手かった。

「僕はコメントしづらいです」

 ゆみこさんは笑った。

「めぐちゃんとケンカしたの?」

「ケンカはしてない」


 きのう、リンダに頼まれたオロナインを買って、叔父さんの部屋へ戻ったのだ。叔父さんは僕のパンツ一丁でバスタオルの上に寝転がっていた。人魚みたいな格好だった。背中のミニめぐちゃんは涼しい顔だ。部屋はカレーのにおいがして、マッチを擦ったかはわからない。

「いろいろ痛くて死にそうだよ」

 叔父さんは上目で笑ってみせた。

「青葉、カレー食べるか。キーマカレーなんだけど」

「あとででいい」

 身体を起こした叔父さんはちょっと目元が赤かった。リンダに頼まれたものをビニル袋ごと置いた。できるだけ雑に置いたつもりだ。

「……なんで僕のパンツ履いちゃったの」

「まちがえたんだよ」

「嘘だね、柄が全然ちがう」

 叔父さんはふにゃっと笑ってみせた。

「このボーダー、GUのわりにおしゃれだな。かわいいねってほめられちゃったよ」

 僕は模範的な中学生であって、多少のことでは動じないのであって、勉強もするし適度にスポーツもする、クラスメイトのなんやかやもどうにかする、つまり僕ははやく大人になりたい。そのことはいつだって変わらない。だけど僕はすっかり小さいコドモで、グーにした右手を叔父さんの頬にぶつけていた。べちん、とまぬけな音がした。

「いてえ」

 叔父さんは大げさにひっくり返った。

「痛いよ青葉」

「僕だって痛い」

 手が痛かった。もちろん本気でやったわけではないけど、ちゃんと痛い。

「なんだよ、嫉妬したの?」

「してない」

「しょうがないじゃん、おれはアタマのおかしいヘンタイなんだから」

 叔父さんは笑った。

「知ってたろ?」

「……知ってたよ」

 ひとを殴ったなんていつぶりだろう。そういうケンカはずっとしていない気がする。

「リンダ、下にいた?」

「布団乾くまで時間かかるって」

 いや、これはケンカなんかじゃないな。だって叔父さんはにやけたままじゃないか。泣きそうだった気持ちはあっというまにばかばかしくなった。

 ばかばかしかったので、そのあと叔父さんとリンダと三人で夕飯を食べることができた。リンダプロデュースのキーマカレーはけっこう辛くておいしかった。くそ。


 ゆみこさんの車はたしかにかっこよかった。ホンダのビート。お兄さんのお古だと言っていた。黄色い車体はどこへでも、どこまでも走ってやるぞと息巻いているみたいに見えた。じっさいゆみこさんの運転はワイルドで、ぐんぐん加速した。せっかくのオープンカーなのに雨なのが残念だ。

「畑の真ん中を百キロで走っていいんですか、しかも雨がすごい」

 結局雨は本降りになってしまって、僕らはプールから退散した。幌のなかは蒸し暑く、ちょっと雨漏りもした。

「この道は飛ばさないと煽られちゃうんだよ。ま、めぐちゃんはここでキップきられたけどね。大丈夫、今日はネズミ捕りいないから!」

 たしかに車はまばらだが、みんな猛スピードだった。ウォータースライダーみたいにタイヤが水をはねていく。「聖書」と大きく書かれた白いバンが僕らを抜いて、あっというまに見えなくなった。忙しない神さまの使いだ。

「この車は二人乗りですよね?」

「そうだよ。トランクも申し訳程度だから全然積めない」

「叔父さんと三人だったらどうするつもりだったんですか」

「実家から大きいの借りるよ。田舎の家だからね、車は一人一台」

 サバンナみたいな畑を過ぎて、ドーナツの輪であるみやかんまで帰ってきた。

「けっこう混んでるね」

 みやかんは渋滞していた。芋洗い状態の流れるプールだ。プールで泳げなくても町はプールだった。このあいだ見た夢を思い出す。

「せっかくだからちょっとドライブしていこう」

 僕らはみやかんを一周することにした。車のおしり、赤い明かりが延々連なって雨にぼやけている。ビートは車高がものすごく低くて、景色が別世界だ。あらゆるものを仰ぎ見る格好で、となりに並んだトラックのタイヤより低い。道路に寝そべっているみたいだった。

 みやかん沿いには神殿みたいに派手な建物が並んでいた。パチンコ屋と、新興宗教の施設と、焼肉屋。いずれもびかびかと自己主張していた。その向かい、コピー&ペーストみたいに同じかたちで並んだ住宅地はかわいらしいクリーム色だが、排気ガスにすすけて見える。

「……ゆみこさんは叔父さんと結婚しないの?」

 どういうわけかそんなことを口にしていた。左右に揺れるワイパーが、僕を催眠術にかけたのかもしれない。

「しないよ」

 ゆみこさんは言った。

「私は誰とも結婚しないよ。一回したことあるからもういいの」

「えっ、離婚したんですか」

 全然知らなかった。ゆみこさんは二十五歳だったと思う。表参道の美容室にいたときにスピード結婚してスピード離婚したの、とゆみこさんは笑った。

「それで宇都宮に帰ってきたの。実家に出戻るのも気まずいから、一人暮らししてるけどね。私、ジンセーが早回しなんだよ。もういろんなことやりつくしちゃった。その点はめぐちゃんと一緒ね」

「一緒?」

「めぐちゃん、東京いたときはバレエやってたんでしょ。バレエとリコンして、こっちに帰ってきたみたいだから。まあリコンっていうか、めぐちゃんのなかでは死んじゃったのかもしれないけど」

「……叔父さんは未亡人だったのか」

 ゆみこさんは笑った。

「面白いこと言うね。さすが秀才」

 みやかん沿いはにぎやかなところとそうでないところの差が大きい。工業団地を過ぎると、店も家もまばらだ。

「図書館には行った?」

「まだです。二番町分室ってどこにあるんですか? ホームページに載ってないみたいで」

「載ってないかもね。でも川沿いに歩いていけばすぐに見つかるよ」

 何もない土地が多いのだ。畑でも田んぼでもない、あえていうなら荒れ地。東京では少ない。草ぼうぼうの空白地帯は、幹のかたちさえいびつな木がさみしげだ。雨を受けた緑がこちらに手を伸ばしているけど迫力はない。気の抜けたジャングルだなあと思う。

「冷蔵庫は直った?」

「微妙です。死んだり生きたりを繰り返してる。修理は混み合ってるらしいし」

「夏だもんね」

 夏は理由になるのか。よくわからない。

「おなかすいた?」

「あんまり」

 結局グーテンバーガーをみっつ食べてしまったのでお腹は膨れていた。ゆみこさんはちょっと考えた。

「そしたら大人なデートしよっか」


 車を美容室の駐車場に止め、僕らは歩いて近くのバーに行くことにした。雨はほとんど止んでいた。スコールみたいなものだ。

「宇都宮ってカクテルで町おこししてるんだよ。あとジャズも有名」

「町おこししてるのに、こんなにがらんとしてるんですか」

「逆逆、がらんとしてるから町おこししてんの。まあきみにはピンとこないか」

 ほそい川沿いにちいさな店がぽつぽつ並んで、黄色い光を投げかけていた。この辺りもテナント募集の看板がいくつもあって、並んだお店は虫食いだ。でも川面は明かりに揺れていた。ゆみこさんはスワンレイクというお店を指差した。

「さすがに飲ませないよ。でもゆっくりおしゃべりするにはいいところなんだ」

 ゆみこさんは窓際の席を選んだ。L字型のソファは見た目に反して固い。メニューは知らない名前がずらずら並んで、呪文みたいに見えた。

「ジンジャーエールって好き?」

「好きです」

「じゃあノンアルのモスコミュールにしよう。ジンジャーエールにライムね。私はホワイトレディにしようかな」

 飲ませてもらったものはようするにジュースだけど、なんだかすごく大人になったみたいだった。いかにもカクテルという感じの見た目だ。写真を撮りたくなったけど、スマホは預けてしまったのだった。ゆみこさんはお酒をすいすい飲んだ。おつまみのチーズはほろ苦い。

「お母さんとは仲直りしたの?」

「ケンカではないです。母さんも僕も夏の間にやるべきことが多いから、それぞれ課題に専念しているんです」

 ガラス窓に小さな羽虫がまとわりつくみたいに飛んでいた。窓越しに見える川は、さっきよりもっと濃い紺色だった。

「ほんとに青葉くんはませてるね」

「お父さんがいないから」

 僕が赤んぼのうちに父さんが死んでしまったことを話した。ゆみこさんは相槌を入れるのがうまくて(美容師は半分トークで食べてるの、と言っていた)、思わずモリモトさんのことまで話してしまった。

「いい人そう。でもそれとこれとは別で、青葉くん的には面白くないよね」

「べつにそういうわけではないです。母さんがはっきりこうしたいと宣言してくれるなら、僕はいつだってウサギがOKと言っているスタンプを送ってあげるつもりです」

「そっか。まあ、お母さんだって誰だって、さみしいものだからさ」

 ゆみこさんは言った。そしてお酒を注文した。

「ビトウィーンザシーツ」

 betweenという単語は知っている。シーツとシーツの間という意味だろう、色っぽい名前のお酒だなと思ったけど、ハミガキ粉のCMを思い出してしまったので僕はやはり大人ではないようだった。

「青葉くんには……、セーフセックスオンザビーチ」

 ナッツをむせそうになった。女性の口からセックスなんて出てくるとは思わなかったのだ。

「セックスオンザビーチっていうカクテルがあって、それのノンアル版がセーフセックスオンザビーチ。なんかセクハラみたいな名前でごめんね? でも面白いでしょ、ノンアルだと安全って意味なんだろうね。私はあんまり酔わないけど」

「ゆみこさんはお酒が強いんですか。叔父さんとどっちが強いですか」

「めぐちゃんは激弱でしょ。すぐ酔っちゃうしすぐ吐いちゃうじゃない。そもそも好きでもなかったと思うけど」

 知らなかった。いつも家でちびちび飲んでいた気がするけど、飲みたくて飲んでいるわけではないのだろうか。

「職業柄、若い頃はかなり摂生してたらしいからね」

「そうなんだ」

「そりゃいろんな人がいるだろうけど、めぐちゃんはわりとマジメだったみたいよ。気にしてないと太っちゃうからって」

 ゆみこさんは僕の知らないことをいろいろ知っているみたいだった。

「踊りで食べていくのって相当大変なことだろうね。ケガしちゃいけないから、できるバイトも限られてたみたいだし」

 はじめて叔父さんとキスした夜明けを思い出す。こんなに足の爪を歪ませたけど、踊りは止まってしまった、そんなことを言っていた。どこへも行かれなかったと叔父さんが泣いていたこと。少しずつ、一日一日死んでいくと言っていたこと。蛹の中はどうなっている?

「誰だってさみしいんですか」

 写真の中の、デメトリアスの衣装の叔父さん。つま先で踊り、駆け、跳び、そのため曲がってしまったという足の爪。

「叔父さんはおれはアタマがおかしいっていうんですけど、ちょっとずつ死んでいくっていうんですけど……。叔父さんもさみしいんだろうか」

「そりゃそうでしょ、めぐちゃんは……」

 ゆみこさんはすぐに肯定し、しかし言葉を濁した。僕は知っている。こういうときは、僕がうしろの言葉を想像しなくてはならない。でも僕にはつづきの言葉がわからなかった。叔父さんは、叔父さんは?

「……さみしい者同士で一緒にいると」

 ゆみこさんはヒントをくれるみたいにぽつぽつ言った。

「楽しくてラクだけど、おたがいからっぽなのがときどきわかっちゃうね。ま、甥っ子の青葉くんに言うことじゃないな」

「ゆみこさんは叔父さんのことが好きなんだと思ってた」

 好きだよ、とゆみこさんは微笑んだ。

「でもあのおじさんはどうしようもなくさみしんぼだし、強力な魔法がかかってるから、私の手に負えない」

「魔法?」

 先生もそんなことを言っていた。いや、あれは夢の中のことなのだけど。

「そう、魔法」

 ゆみこさんは窓の外を見た。バンビみたいに長いまつげが少し震えた。デメトリアスのことが頭に浮かんだ。真夏の夜の森の中、夢とうつつをさまよって、朝になっても妖精の魔法がとけないままのおとこ。シェイクスピアはどうしてデメトリアスをそのままにしたんだろう? 魔法じゃなくて、話し合うなり力ずくなりで、ヘレナはデメトリアスを振り向かせればよかったのに。

 ついでに言うけど、とゆみこさんが付け加えた。渋い顔でお酒をあおる。

「……身体ばっかりでかくてものすごいバカの後輩も、私はとてもとても手に負えないんだけど」

 そうしてため息をついてみせた。でも笑っていた。

「正直アレにとられるのは納得いかないなあ。ねえ青葉くん、取り返してよ」

「どうかなあ。僕としてはゆみこさんにがんばってほしい」

「うわあ、ナマイキ」

 ゆみこさんはやはり口をイのかたちにして笑った。


 店を出たら雨はすっかりやんでいた。雨の気配の残る風が静かに川を渡っていく。僕らは手をつないで歩いた。なんだかドキドキした。いや女性と手をつないで緊張しているのではない、ゆみこさんの手が思っていたよりも小さくてびっくりしたのだ。こんなに頼りない手で髪を切りビートを爆走させ、ジンセーを早回しにしているのか。車は美容室に置いて、タクシーで帰るとゆみこさんは言った。

「どうして髪を切っちゃったんですか」

「これ? 今度ヘアショーに出る先輩の練習台だね」

「なんだ、シツレンかと思った」

 ゆみこさんは盛大に笑った。

「いまどきそういうのは流行らないよ」

 小さな子どもを連れた、いかにもヤンキーっぽいファミリーとすれちがった。花火をしに行くのだろう、ドンキホーテの袋とバケツを持っていた。ゆみこさんはそれをなんとなく目で追った。

「でもすごく似合う」

「ありがと。きみはいちいちオトコマエだね。将来もてそうだな」

「僕は急いで大人になりたいんです」

 叔父さんにキスしたいなと思った。さっきゆみこさんがトイレに行っているすきに、こっそりゆみこさんのお酒をひとくち飲んでみたのだ。喉が熱く、視界がどろっとしている。

「わかるなあ、私もそうだったし、今もそうなんだろうな。でも急がなくてもちょっとずつなってるのかもしれないね。ある日突然大人になったり老人になったりはしないでしょ。……めぐちゃんはどうだろうね」

 叔父さんはどうなのだろう。考えようとしたけどアタマがふわふわしてまとまらない。これが酔っ払うということなのだろうか、足元もふわふわする。

「ねえ、図書館は本当にすぐ近くだよ。いろんな本があって、ちょっと古いけど面白いの。私はときどきボーッとしに行くよ」

「本を読むんじゃないんですか」

「読むこともあるね」

 酔っ払ってふわふわするから、叔父さんを抱きしめることができるし、キスができると思った。魔法がなんなのかわからない。でも僕はそれをといてあげたい気がした。

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