八、紺色とボーダー


 それからおばあちゃんのうちでお寿司を食べて、野菜やお菓子をたくさんもらって帰ってきた。ビニル袋が重たかった。

「これでしばらく買い物行かずに済むな」

 とはいえ叔父さんはほとんど料理をしないし、もちもち餃子帝国にこれ以上置かせてもらうのも忍びない。どうすっかなあと言いながら叔父さんはさっさと寝てしまった(エッチなことはちょっとした)。


 それで今朝、てきとうに料理してもらおうぜと言って叔父さんはリンダに電話した。ゆみこさんは仕事がある日だからだろうけど、いつのまにリンダと番号を交換していたんだ?

「なすとピーマンとトマトと大根とゴーヤ、すげえいろいろある」

 リンダは目を輝かせた。

「これで何が作れる?」

「カレー!」

 リンダは即答した。

「え、大根も?」

「なんでも刻んでカレー粉と一緒にしちゃえばカレーになるんだって」

 雑だ。リンダは上機嫌で野菜を切り始めた。リンダの背中越しだと台所は小さく見えたし、となりに立った叔父さんはとても華奢に見えた。今日のリンダの背中はThe cat did it! と書かれていた。エーゴのTシャツしか持っていないらしい。

「包丁、たまには研いだほうがいいよ」

「頭悪いのに料理はうまいんだな」

 さて、僕は二人を手伝うなりテレビでも見て寝転がっているなりすればいいのかもしれないけれど、そうもいかない事情があった。テーブルから動くのが困難だ。なぜか?

 パンツの入れ替わりのことだ。

 朝、叔父さんは寝ぼけていたらしく、リンダに電話をしながらふとんの脇に転がっていた下着をイイカゲンに身につけたらしい。僕もはだかが涼しくて、そのまま寝転がっていた。

 リンダの馬鹿はものすごくヒマだったらしく、あっというまにやってきた。服を着なくてはと思って転がっているパンツを手に取ったら、僕のじゃなくて叔父さんのだった。叔父さんはすでに僕のパンツを履いて、リンダを出迎えがてら下のコンビニに行ってしまっていた。色も柄も全然ちがうのにどうしてまちがえたんだろう。僕のはボーダー柄で、叔父さんのは紺色だ。ボクサーショーツだから伸びるし、気がつかなかったのだろうか。

「リンダ、米、何合炊く?」

「ん? 一升」

「そんなにでかい炊飯器なわけないだろ」

「うっそ、おれんち一升炊きだよ。実家だけど」

 冷静に考えれば、残された叔父さんのパンツは洗濯機に放って、自分の新しいパンツを履けばよかった。でもなんとなく魔が差したというか、好奇心というか、だからこれだって妖精のせいかもしれないんだけど、僕は叔父さんのパンツを履いてしまった。叔父さんの手に触れられているみたいでちょっとボッキしかけており、テーブルから動きにくい。

「カレーならたくさん作って冷凍しとけばいいもんね。レンチンするだけなら、めぐちゃんでもできるでしょ」

「だから、冷蔵庫がだめになってて冷凍できないんだってば」

 そうだったそうだった、リンダはけらけら笑った。

 ともかくまじめなことを考えて気をそらそうと思った。宿題の漢字練習をやった。一日一ページの宿題だからけっこう量があるけど心を無にすればいくらでも書き続けられる。たぶん写経ってこんな漢字なんだろう。まだ数学と英語のワークはノータッチだけどあれは楽勝だ、その気になれば一日で終わらせられる。

 問題はやはり、自由研究だ。このままではほんとうに叔父さんの観察日記になってしまう。少しずつ死んでいくという叔父さんの観察、実験、考察。

 図書館には今日も行かないようだ。ゆみこさんがおすすめと言っていた二番町分室がどこにあるのかよくわからないというのもあった。叔父さんのスマホで検索したけど、市のホームページには載っていなかったのだ。まあ公共機関らしくわかりにくいページだったから見落としたのだろう。自由研究は一日図書館にこもって片付けてしまおうと思った。

 そうしていたら玄関の呼び鈴が鳴った。

「青葉、なんかお前の友だちが来てる」

「え?」

 ドアを開けたら本当にクラスメイトが立っていた。山井だった。

「どうしたの」

「青葉に謝らなきゃと思って」

 山井はものすごく真剣な顔をしていた。それで、だいたいのことはわかった。

「……叔父さん。僕はちょっと出かけてくるよ」

 あ、そう。叔父さんはきょとんとした顔をして、しかし僕らに千円ずつくれた。


 外はとても晴れていた。泳いでいるみたいな湿度だけど風は多少ある。

「よくこんなところまで来たね」

「おまえんちのかーちゃんに教えてもらった。意外と近かったよ。青葉、昼メシ食った?」

「これから食べるとこだった」

「なんか食おう。何屋がある?」

「ギョーザ屋がたくさんあるね」

 山井を「ほんとうのギョーザ屋」に連れて行った。ここは安いので僕らの予算でもたくさん食べられる。平日だけどそこそこ行列していた。

「ギョーザしかないじゃん」

「そうなんだよ」

 もちもち餃子帝国とちがって、チャーハンもラーメンも、ライスもコーラもない。ものすごくシンプルなつくりの店で、壁に大きな表が貼ってある。一皿210円、二皿420円、三皿630円……何皿頼もうが割引があるわけでもなく、たんに掛け算の手間を省くための早見表。

 この町の人はみんな九九が苦手なの? 先週行ったとき、僕は叔父さんにそうきいたのだ。そしたら頭をはたかれた。

「しないでいいことは、しないで済ますもんなの。お前はそういうところがまだまだチューガクセーだなあ」

 叔父さんはくすくす笑った。そうしてこういう殺風景な店のギョーザはとてもとてもおいしいのだから、うん、まあそういうものなのだろう。

 僕と山井はギョーザをひたすら食べた。がつがつ食べた。

「うまい。すっげえうまい。でもライスほしい」

「あとで別のとこどっか行こう。ここはギョーザしかないし、あんまり長居すると怒られる」

 ふーん、と山井はうなずいた。

「あの値段表うけるなあ、宇都宮の人はみんな掛け算が嫌いなんかな」

「……しないでいいことは、しないで済ますものなんだよ」

 叔父さんの真似をして言ってみた。

「青葉って、なんか大人っぽいよな」

「そうかな」

「自由研究、何やるか決まった?」

「マッチの燃焼による消臭効果」

 僕はでたらめに言ってみたのだが、山井は感心した。ひととおり食べ終わって、山井はお冷を一気に飲み干した。それから背筋をのばして言った。

「青葉のスマホ、取り返してきた」


 ばかばかしい話なのだ。ひととちがうことはすぐにからかいの対象になる。そういうことはとてもくだらないし、下品だと思う。レベルの低いあれこれと一緒になりたくないのだけど、頭ではわかっているのだけど、気になったり落ち込んだりしてしまう。いやになる。はやく大人になりたい。はやく大人になって、つまらないモヤモヤから自由になりたい。

「あー、青葉、チンコむけてんじゃん」

 誰かが言ったのだ。プールの着替えの前、じめじめした更衣室だった。

「コイツ、小5のときからそうだったよ」

「もっと前だよ」

 同じ小学校だった誰かもはやしたてた。キャンプのとき見た、林間学校伝説、誰かが騒いだ。

「まじか、エロい」

 小さいころに母さんがそうしてしまったからそうというだけで、僕は僕として僕の身体につきあっていかなくてはならない。こんなことで母さんのことを恨みたくないし、僕は僕の身体のことを嫌いになりたくない。目が一重とか二重とかではこうまで騒がない気がする。まあたしかに、面白いのもわかる。もしも自分でなければ、からかいこそしなくても、ふーんなんて思って、ちょっとにやにやしてしまいそうな気もする。みんなそうだろう。自分のことしか大事じゃない。僕も僕が大事なだけだ。でもどうしてそれが、こんなに恥ずかしくて嫌なのだろう。イライラした。

 かしゃっ。

 誰かのスマホの音がした。ああどうしてそんなにくだらないんだ。どうせLINEのグループトークで回すんだろう。クラス全体にはしない、さすがに女子の目がある。女子はそういう話題を嫌う(というより牽制しあっている)から、そういう話題ばかりだと総スカンだから、ちくしょう、そこまでわかったうえでからかったり馬鹿にしたりするのかよ。いやちがうな、たいした悪意も意味もないんだ、いじめみたいなシリアスなあれこれではない、むしろ僕とかれらはそこそこ仲も良い。かれらはふざけているだけで、あるいは僕が冗談が通じないだけかもしれない。男はみんな通る道だと体育の先生は言った。ばかやろう。みんな通ったからって通らなきゃいけない道なんかあってたまるか。早くそんな道は、重力にしばられた東京は、駆け抜けてしまわねばならない。ロケットに乗って、新幹線に乗って、あるいはバタフライで跳ぶように泳いで。僕ははやく大人にならねばならない。


「あのとき、山井のスマホで撮られたんだったね。あとで写真と動画、みんなにまわせって言われてた。なんであいつら、自分のスマホでやんないんだ?」

 オリオン通りをうろうろしてゲーム屋を冷やかし、ホットドッグ屋でテイクアウトして二荒山神社へやってきた。日陰のベンチで食べた(ちんこからホットドッグを連想したわけではない)。

 神社はセミが大合唱していてうるさかった。死にたくないと叫んでいるのか、死んでしまうことを知らないのか、たんに歌いたいだけなのかわからなかった。

「俺がチン毛生えてないからだろ。俺のも撮ったし」

 山井は少し顔を赤くした。

「本当にくだらない」

 たぶん山井がカンニングをしたのは、スマホを没収されてしまいたかったからだ。そんな写真をまわしたりまわされたりを山井はしたくなかった、でもしたくないと表明するとカドがたつ。まあスマホでカンニングでもすれば担任は恐怖政治だから、確実にしばらく預かりますということになる。そのうちにほとぼりがさめるだろうと、ついでに更衣室で止めに入らなかったことを詫びたい気持ちもあったのかもしれない。あのとき、山井の作戦はわかった。けれど僕らの想像をこえて担任は過激派で、夏休みが終わるまで、しかも班のメンバー全員没収ということになってしまった。

「担任と校長に直訴したんだ。親にもついてきてもらって、ぜんぶ話した」

「意外と行動的だ」

「意外ってなんだよ」

 山井はむっとした顔を向け、しかし笑った。

「ま、罪の意識的なのもあるけどさ、自分のためだよ。俺だって休みの間ずっと没収は悪夢すぎる。イベントもあるし」

 何かのゲームのイベントのことだろう。毎日ログインして報酬をもらわねばならないのだ。規則正しい。

「みんな返却されたよ。青葉が最後だ」

 山井は僕のスマホを差し出した。

「青葉のかあちゃんに渡してもよかったんだけど、青葉には直接渡さなきゃと思った。おまえ、学校でひとことも何も言わなかったろ。言わないでいてくれたろ」

 受け取ったものの、どうしたらいいかわからなくなった。

「青葉、どうかした?」

「どうもしない」

 スマホが戻ってきたのだから、僕は東京に帰らねばならないのだろうか。母さんにウサギのスタンプを送って。

「青葉さあ、ついでにちょっと教えてほしいんだけど」

「何」

「ちんこって、どうやってむくの」

「……ぐぐれ、かす」

 二荒山神社の木陰でこそこそパンツをぬぐことになるとは思わなかった。でもこっそり教え合うのはそんなに嫌な気持ちではなかったので、「みんな通る道」にもいろいろな風景や人通りがあるのだと思った。僕らは笑った。叔父さんの紺色のパンツは日陰ではちがう色にみえた。このパンツが叔父さんのものだと、僕が叔父さんとキスしたりセックスしたりしているのだと、山井は知らないと思うとちょっとドキドキした。

 

 神社の石段はぎらぎらする西日にひたされて暑かった。通りの向こうにパルコがあって、このあたりはけっこう賑やかだ。とはいえ日本一さびれたパルコだと前にゆみこさんは言っていた。

「山井は電車で来たの? JR?」 

 宇都宮はJRと東武線、ふたつの駅がある。新幹線が止まるJRの駅よりも、東武線の宇都宮駅周辺の方が栄えている。そしてふたつの駅は歩いて二十分くらい離れていて、どうしてひとつの駅にしなかったのか謎だ。おそらく僕には伺い知れない深い断絶があるのだろう。新幹線で宇都宮に来た人は、駅からマクドナルドくらいしか見えないから驚くだろうなと思う。

「帰りは電車だよ。スペーシアに乗ろうと思って。……来たときは車」

 山井が言うと、パルコの前に見たことのある車が止まっていた。モリモトさんの車だった。

「やあ」

 モリモトさんが乗せてきてくれたらしい。母さんも一緒らしいが、いま買い物に行っていると言われた。これからおばあちゃんのうちに行くらしい。

 モリモトさんの車に一緒に乗って、山井を東武宇都宮駅まで見送った。山井はさっぱりした顔で手を振った。

「おばあちゃんのうち、一緒に行くかい」

「きのう行ったからいいです。僕はこれから図書館に行かなきゃなので。もう帰ります」

「……お母さん、さみしがってるよ」

 モリモトさんの声はとても低いので、ちょっとしたせりふがとても重要なことみたいにきこえてしまう。

「僕は僕のことをしなきゃなんないので」

「お母さんもそうなのかな」

「そうだと僕は思います。……あの、これ預かっててもらえませんか」

 山井が取り返してきてくれたスマホを、僕はモリモトさんに差し出していた。

「え、スマホ?」

「できたら母さんには内緒で」

 モリモトさんは沈黙した。そしてゆっくりまばたいた。

「わかった。あとでお母さん経由で連絡をくれるかな」

「はい」

 でも大人はずるいから、たぶんモリモトさんは母さんに渡してしまうだろうと思った。僕としてもほとんどそのつもりではある。たぶん母さんはそれでいろいろを察してくれるような気もする。


 帰ってきたら、アパートの下のコインランドリーにリンダがいた。正確には入り口のところでたばこを吸っていた。

「あ、天才若葉マーク少年」

 リンダは僕に気づいた。

「青葉だってば」

「知ってるよ。ちょうどいいや、おつかい頼まれてくんない? おれ、洗濯待ってんだよ」

「いいよ。何の洗濯?」

 さっきうちに来たとき、リンダは手ぶらだった気がする。

「めぐちゃんちの布団……。そいでさあ、ちょっとめぐちゃんにオロナイン買ってきてあげてよ。これお金ね。おつりはお駄賃にしていいからさあ」

「……叔父さんは」

「寝ちゃったよ」

 ドラッグストアへ向かう途中、正確には5、6歩あるいたところでピンときた。模範的中学生である僕はカンが鋭いのだ。

「あのやろう」

 どっちに向けて言ったのか。両方かもしれない。ぶかぶかのコンドームを買ってもらったのと同じ店で、今度は軟膏を買う。僕が。くそったれ。

 スマホを預けてしまったので、僕からは何も送りようがない。誰に対しても、ウサギが怒っているスタンプを送ることはできない。

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