七、桃


 僕はおじいちゃんに会ったことがない。写真でしかみたことがない。母さんは写真を飾るのがあまり好きでないため、おばあちゃんの家の仏壇に置かれている写真が僕の知っているおじいちゃんのすべてだ。帽子をかぶっていて目のまわりにしわがあって、しょぼんとこちらを向いている。叔父さんとはちょっと似ている気もする。


「ばーさん、出かけてるみたいだな」

 おばあちゃんは趣味で畑をやっている。最近はヨガにはまっていて、スポーツクラブの友だちとしょっちゅう旅行もしているので叔父さんよりよっぽど活動的だと思う。

「甘いけど、飲むか」

 おばあちゃんのうちはどこもかしこも花柄だ。カーテンも座布団も叔父さんが冷蔵庫から出してきたガラス製のポットも花柄だった。花の内側で麦茶がたぷんと揺れた。広い和室には座卓がでんと置かれていて、段ボール箱に入った桃がのっていた。

「麦茶なのに?」

 おばあちゃんのうちに来たのはお正月以来だ。宇都宮駅から遠く遠く離れているから、母さんとはいつも車で行く。ドーナツの輪のかなりはじっこで、今日は叔父さんが免停のためバスに乗ってきた。

 きのうおばあちゃんから電話がきたのだ。せっかく青葉が来ているなら連れてきてよ、面倒なんだったらこっちから行くわよと言われ、叔父さんはあわてて訪ねることを約束した。またしても図書館行きは順延だ。よっぽどアパートに来てほしくないみたいだった。

 でも着く時間なんかは連絡せずだらだらと出かけ、なんだかわざといない時間を見計らったみたいにおばあちゃんのうちに着いた。

「ばーさん、麦茶に砂糖入れるんだよ」

 たしかにちょっと甘い。ガラスのコップはちょっとくすんでいた。

「ヨガの教室かもな。帰ってくるまで待ってればいいよ」

 叔父さんは月に一度おばあちゃんの家に来て「救援物資」をもらうのだという。お米とか野菜とかツナ缶とか。

「きょうは青葉がいるから、福沢諭吉も何人かもらえるかも」

 叔父さんはにやっと笑って、おじいちゃんの仏壇に線香をつけた。マッチをしゅっとつける仕草はなんだか手慣れたふうで格好良かった。

 僕も真似をして手を合わせる。会ったことのないおじいちゃんに手を合わせるたび、何を考えたらいいかわからないのでなんとなくお祈りをする。テストの順位をキープできますようにとか、水泳のタイムが上がりますようにとか。おじいちゃんに会ったことがないから神社にお参りするのと気持ち的には同じで、十円玉を投げないだけだ。

「眠い」

 叔父さんは横になってしまった。

「寝るの?」

「ちょっとね」

 部屋は静かで、扇風機だけがせっせと回っていた。おばあちゃんの家はいつもしっとりした風が吹いていて、うちとも叔父さんの部屋ともちがうにおいがする。前は猫を飼っていた。猫はいつのまにかいなくなってしまったのだときいた。名前はなんといったろうか。カタカナの名前だった気がするけど思い出せない。


 さっきのバス待ちのことを思い出す。途中でバスを乗り換えねばならず、しかしずいぶん時間があったので、バス停から少し歩いた先のコンビニで涼んでいたのだ。やはり車がないとどうにも不便な町だ。

 ジュースを買って雑誌を立ち読みしていたら、叔父さんが話しかけられていた。

「あれ、めぐ?」

 久しぶり、と声をかけたのはがっしりした男の人で、女の子を二人連れていた。小学生と幼稚園くらい、姉妹だろう。お揃いのワンピースを着ている。

「こっち帰ってたんだってな。いま実家にいるのか」

「いや、今は二番町に住んでる」

「そうか。なんか相変わらずだなあ」

 友だちみたいだった。僕にも笑いかけてくれた。叔父さんがまた僕のことをカレシとか言ってふざけるのかなあと思ったら、

「親戚の子。これから実家に行くとこで」

 と、きわめて常識的な紹介をした。

「めぐ、帰ってきたってことは、もしかして宇都宮でバレエ教室とかやるのか」

「まさか」

「そうか。うちのチビたちをプリマドンナにしてくれるかと思ったのに」

 チビじゃないもん、とすかさず姉のほうが口をとがらせた。とーさんにとってはずっとチビなの、と男の人は頬をつついた。

「ま、小五じゃもう遅いか。今度飲もうな。地元の集まりにも来るといいよ」

「うん」

 叔父さんは短く挨拶すると、コンビニの外へ出た。バスまではまだ時間があるのに、さっさと歩き出した。

「友だち?」

「中学の同級生。いまは小学校の先生やってるんだったかな」

 立派なおとーさんだよ、叔父さんはぼそっと言った。

「よく知り合いに会う町だね」

「田舎だからな」

 バス停は小屋みたいになっていてベンチがあるのだが、けっこう暑かった。叔父さんも僕も、暑さのため無口になった。叔父さんがぼんやり眺めている視線の先を追ったら、蟻たちがコンクリの上をちまちま歩いていた。


 網戸越しに見える空は曇り始めていて、夕立がきそうだなと思った。電気をつけていないので和室は薄暗い。なんとなく仏壇を眺めてみる。おじいちゃんと叔父さんが一緒に写っている写真も飾られていた。写真立ての中の叔父さんはバレエダンサーのときの格好で、ぴたっとしたレオタードを着ていた。花束を抱えてよそゆきの笑顔をしている。こうして飾られると叔父さんも死んでしまったみたいだなあなんて思ってしまう。

「叔父さん、もう寝た?」

「寝たよ……」

 でも返事はしてくれた。

「あれっていつの写真? すごく若い」

「おれは寝てるんだってば。……二十一、二歳だったかな。もっと前だったかな」

 座布団に顔を埋めているので声はくぐもっていた。

「いずれにせよ二◯世紀の話だよ」

 ぼそぼそ言って、寝転がったまま手招きした。青葉、と僕の名前を呼ぶ声は低くて小さい。

「ちょっとチューしてよ、二十一世紀生まれのカレシくん」

 腕の隙間から顔をのぞかせて、いたずらっぽく笑った。さっきは親戚の子と言っていたくせに、これだ。

「……おばあちゃんが帰ってくるかもしれないし、僕はカレシじゃない」

「かたいこというなって」

 細めた目尻にちょっとだけしわが寄った。そうするとおじいちゃんと似ている気がして、なんだかこわくなって、つまりそういうこわさをおさえてしまうために、僕は叔父さんのまぶたにキスをした。いや、キスじゃない、まぶたをふさぎたかっただけ。

「くすぐったい」

 叔父さんは文句を言った。まぶたはやわらかくて、その下で目玉がふるふるっと動いたのがわかった。髪から少し汗のにおいがした。叔父さんの汗はどこか甘いにおいだ。たとえば腋に鼻を食い込ませてみる。ぴりっとしたにおいの奥に甘い何かがあって、なぜだか僕は奥歯がうずく。呼吸がはやくなって胸が詰まる。他の人とはちがうにおいだと思う。どうしてだろう? ぶにっとしたうすい皮膚も、頼りない感じのわき毛やすね毛も、べつにふつうのものなのに、どこの誰ともちがう。

「……猛獣みたいな目をしやがって」

 叔父さんが言った。

「僕が?」

「そうだよ。目玉がぎらぎらしてる。鼻息も荒いし野生ドーブツみたいだ」

 自分ではわからない。

「どうどう」

 そう言って叔父さんは僕の背中をぽんぽんなでて、キスをした。僕もお返しをした。

「どうして叔父さんは僕とキスするの」

「それ以上もしてる気がする」

「それ以上も含めてだよ。叔父さんはゆみこさんとつきあってるのに」

「難しいこと言うなよ」

 叔父さんは眉をハの字にした。

「一日一日、少しずつ死んでいくんだから、楽しいことしたいだけだよ。女の子は女の子でかわいいけど、死にかけてるから抱いてもらうほうがラク」

「そうかなあ」

「それに、おまえみたいな前途あるかわいい甥っ子にオンナ扱いされるのって、なんかコーフンする」

「……もしかして叔父さんはヘンタイなの?」

「そうだよ」

 叔父さんはにやっと笑ってみせた。

「おれはアタマがおかしいんだよ。知らなかった?」

「知ってた」

 でもそれなら弱っている叔父さんとセックスをして、しかもおしりに入れさせてもらってまんまとコーフンしている僕だってヘンタイだ。ヘンタイってわりとふつうのことなんだなあと思った。誰だって簡単にヘンタイになるのだ。特殊なことではないのだ。どうしてこうなったんだっけと思うけど、たぶん巻き戻しても同じことをする気がする。 

「おまえはどうしておれとエッチすんの」

 誰に話してもきっと、これはまずいことですと、いけないことですと言われるだろう。それはわかる。でもわかっていることと、こころにぴったり馴染んで納得することは別で、本当の本当のところでは、僕は何も悪いなんて思っていない。

「……夏休みの自由研究」

 叔父さんはものすごく笑った。

「そりゃよかった。模造紙にでもおっきく書いてよ」

 キスしたりセックスしたりするのは気持ちがよくて、身体が気持ちいいとなんだかこころも平穏だ。コーフンするのと落ち着くのとがまぜこぜ。

「でもばれたらおれインコーで捕まっちゃうから、まじで内緒な」

「え、犯罪?」

「そうだよ。こわいだろ」

 まあ誰にも言わなければいい。世界中に秘密にしておけば、僕と叔父さんがしていることは夢の中のできごとと一緒だ。あるいは水の中。

 ときどき学校でプールの底に潜って、水面を見上げる。水面の向こうの空。ゆらゆらと遠い景色だ。耳を水が包んで音がなくなる。その瞬間は世界のどこにも属していなくて、世界の外側だ。世界の外側でおこなわれたことは誰も知らない。母さんとけんかしたこと、青柳じゃなくてモリモトになるかもしれないこと、学校で起こるわずらわしいアレコレ、それらを水の中であぶくと一緒にさけんでも、目から何かこぼれても、水の中でおこなわれたことは誰にも知られない。

「宇都宮は宇宙のすみっこだから、平気な気がする」

 ドーナツの内側の街は、世界の外側で、宇宙の僻地だ。

「そうか。ならいいか」

 そうして何度もキスをした。妖精の姿は見えなかったけどそうした。叔父さんの口のなかは砂糖入り麦茶の味がした。甘い、と僕が言うと、青葉も甘いよと叔父さんは笑った。同じものを飲んだから同じ味らしい。

「……たぶん、ばーさんはしばらく帰ってこないよ」

 そう言って、叔父さんは僕の髪をなでた。いいこいいこ、いいこだからおれの言ってることわかるな、そんなふうに。

「アタマのおかしいおれをなぐさめてよ」


 結局おばあちゃんが帰ってくるまでの間に、叔父さんに太ももではさんでもらって僕はあっというまに射精した。二回だ。太ももの内側はすべすべしていてあたたかかった。思わず叔父さんのおしりのあなをいじってしまったけど、仏壇のおじいちゃんと目が合って気まずかった。叔父さんはうつぶせだったからおじいちゃんと目線が合わず、平気でエッチな声を上げた。

 シャツをめくって叔父さんの背中におでこをこすりつけた。汗と汗をまぜてしまいたかった。ホッピー的にいうならどっちがナカでどっちがソトだろう。おなかのうすい皮膚は汗ばんで、手をかけたら太ももが震えた。なんだか胸が苦しくなって叔父さんの背中にキスをした。背骨がごろっとしていて、ミニめぐちゃんと目が合う。ミニめぐちゃんというのは叔父さんの背中にふたつ並んだ薄茶色のほくろで、なんだか顔みたいに見えるからそう呼んでいる。暴発しないように奥歯を噛んでいたら、ミニめぐちゃんはがんばれがんばれと言っているみたいに見えた。それで思わず叔父さんのおしりをぎゅっとつかんでしまって、思い切りつめを立ててしまって、叔父さんはどういうわけかそれで射精した。


 そのあと叔父さんはほんとうに昼寝してしまった。エッチなことをすると眠くなるのだという。眠りに落ちる少し前、ほとんど寝言みたいに叔父さんがつぶやいた。

「……マッチ、擦っておいて」

「マッチ?」

「においが消えるから」

 なるほど、そういうものらしい。いろんなことを知っているから叔父さんはやっぱり大人なんだなと思った。

 マッチを擦ったので理科室のガスバーナーを思い出した。やはりこれは実験で、自由研究なのかもしれない。

 叔父さんは小さくいびきをかいて、まるくなって眠った。猫みたいな姿勢だ。ちゃんとシャツもズボンも身につけたから、さっきまでのことが嘘みたいだ。

 線香はとっくに燃え尽きて、灰になって崩れていた。仏壇のおじいちゃんに、ごめんなさい内緒にしてくださいとお祈りして、座卓の桃をひとつおそなえしてみた。おしりみたいなかたちだと思ったけど、叔父さんのはもう少したるんでいるから全然ちがう。甘い麦茶を飲んでぼんやりした。すごくのどがかわいていたので、花柄のガラスポットはからっぽになった。

 しばらくしてから帰ってきたおばあちゃんに、おこづかいをもらった。花柄の封筒だった。いなくなったという猫の名前は思い出せなかった。

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