六、ダッタン人の矢よりも疾く
パックの役は女子がやるべきだと思う。だいたいクラス劇自体、女子がほとんどの意思決定をおこなっているのだから、役だって女子で固めればいい。くじびきなんて全然民主主義じゃない。
「青葉くん、棒読みになってる」
「もっと感情こめて」
あちこちから声が飛んでくる。そんなふうに言われてもよくわからない。ふだんしゃべっているときに感情のことなんて考えていない。だいたい妖精のパックに感情なんてあるんだろうか?
「男子ってすぐ恥ずかしがるよね」
男子全体のことなんか知るもんか。僕は僕のことしかわからないし、僕自身についてだって解明されてないことが多い。
教室の外はざあざあ降りの雨で、外は暗かった。校舎が水底に沈んだみたいだ。文化祭は九月だから、もう立ち稽古が始まっているのだ。今日は衣装も着ている。緑の短いズボンが恥ずかしい。水着の方がよっぽどかもしれないけど、あれはプールだから平気だ。
パックのせりふは少ない。でもいろんな動きの指示がト書きに書かれていて、舞台をあちこち飛んだり跳ねたりせねばならない。どたどたと音が鳴る。これじゃリンダと一緒だ。叔父さんならもっと軽く跳べそうだと思う。
「妖精になりきってよ」
無茶だ。会ったこともないものにどうやってなりきるんだ。
「あの子に会ったでしょ」
「あの子ならもっとじょうずなのに」
誰かの声がした。あの子? 振り向いたら、バレエ教室で会った男の子がいた。
「アッサンブレ」
誰かが言った。男の子は左右のつま先が内を向く不思議な立ち方をして、片足をすすす、と擦り出し、跳び上がった。ふわりと宙を跳んで、同じかたちに戻る。
「ピルエット」
また誰かの声だ。つま先立ちした片足を軸に、男の子がくるくる回った。ふつうのTシャツなのにたしかに妖精みたいだった。叔父さんに教えてもらったのだろうか。衣装を着ている自分が恥ずかしかった。僕の代わりにこの子がパックをやってくれたらいいのになと思った。
「残念、おれが得意なのはジゼル」
男の子はそう言った。手を伸ばすと、みるみるうちに腕が伸びて身体が大きくなって、僕と同じくらいの身長になって、男の子は二人になった。
「ヒラリオンは精霊たちに踊り狂わされて死んじゃうんだよ。沼に突き落とされる。夜の森は精霊たちの森なんだ」
「真夏の夜の夢だって、妖精たちの夜の森だ。そう決まっているんだよ」
アントルシャ、誰かの声に従って、ふたりは真上に跳び上がった。空中で両足のふくらはぎを打ち合わせた。その拍子に大きくなって、なんというか、すっかり予想はついていたけど叔父さんだった。でも若い。写真の中のつり目の叔父さんだ。
叔父さんたちはふわりと跳んだ。着地のたびに叔父さんたちが増えていく。分裂、分身していく。増えるたびなんだか身体が透けていく。いつのまにかクラスの女子はいない。
「コール・ド・バレエっていうのよ」
声に振り向いたらバレエ教室の先生が立っていた。
「群舞のことね。大勢で息を合わせるの。ひとつのいのちみたいにね」
「あんなに透けて大丈夫なんですか」
「元に戻れば平気。でもちゃんとひとりに戻れるかしら」
外はどんどん雨が強くなっていき、プールのシャワーになっていく。叔父さんたちはおかまいなしに踊り続ける。校舎がぐらりと揺れた気がした。きっと雨に流されている。どこまで流れていくんだろう?
「宇宙のすみっこまで」
先生が言った。
「宇都宮まで行くんですか」
「だってドーナツの輪が水浸しだわ」
ドーナツ? ああ、みやかんのことか。
「ドーナツ化現象の町はほんとうにドーナツの輪の中よ。みんな知らないふりをしてるけど、町はからっぽなのよ」
たしかに古いビルが多いのだ。ゆみこさんの働く美容室の向かいの雑居ビルは、全部のフロアにテナント募集中と書いてあった。背筋を伸ばしているけどからっぽの直方体だ。そしてそのとなりは空き地で草ぼうぼうだ。
「めぐちゃんもからっぽなのね」
先生が言う。からっぽ? そんなことはない。水ギョーザのおなかの中には肉も野菜も詰まって、噛み付くとじゅわっとあふれるはずだ。
「蛹の中がどうなっているかわかる?」
蛹。蛹の中でどのように変態しているかということだろうか。
「からっぽになっているかどうか、外からはわからないでしょう」
わからないけどからっぽなはずはない、ちゃんと身体がなくては羽化できない。
「でも蛹の中はからっぽなのだとじぶんで魔法をかけてしまったら、ほんとうに消えてしまうのよ」
やがて踊っていた叔父さんたちは、ひとりずつ静かに倒れていった。床に足から溶けてしまうみたいに、静かに倒れては消えていく。さっき、沼に突き落とされると言っていたことを思い出す。
「一日一日、少しずつ溶けていってしまうのよ」
ついに叔父さんたちは二人だけになった。ひとりが駆けてきて、勢いよく跳んだ。もうひとりがそれを受け止めるみたいにぐいっと身体を引き寄せて、高々と持ち上げた。これがリフトなんだろう。叔父さんと叔父さんの腕がぐうんと伸びたそのとき校舎が大きく揺れて、叔父さんと叔父さんはぐしゃっと崩れた。
「あ」
辛うじて声が出ただけで、僕は動けなかった。けっこう高さがあったから痛いはずだ。僕は駆け寄りたいのになぜか固まっていた。上に乗っていた叔父さんは溶けてしまって、叔父さんはひとりぼっちになった。叔父さんはそっと自分の肩をさすり、足もなでた。つま先。ああ、爪が欠けてしまったのかもしれない。叔父さんは泣き虫だから泣いてしまうかもしれない。僕は叔父さんを抱きしめなくてはならない、でも動けない。
そんなことを考えていたら、叔父さんが顔を上げてこちらを見た。目が合って、ふにゃっと笑った。あ、セックスのときの顔だ、そう思ったとたん、叔父さんはしゅるしゅると小さくなってしまって、栗色の髪の男の子になってしまった。
男の子は立ち上がると、窓を見た。いつのまにか夜で、ガラスは鏡になっていた。ガラスに映るじぶんの姿、のもっと奥、景色と鏡像のあいだを眺めているみたいだった。
男の子は窓を開けると身を乗り出した。
「ねえ、外は雨だよ」
やっと言えた僕のせりふはなんだか間抜けだ。見ればわかることを言ってしまった。
「でもはやく行かなきゃ」
男の子が言った。
「行くよ、行くよ。僕が行くのを見ていてごらん。ダッタン人の矢よりもはやく」
パックのせりふだ。やっぱりパックはこの子がやったほうがいい。男の子はひらりと跳び上がり、窓の向こうへ行ってしまった。いけない、ここは二階だ、そしてドーナツの輪は水浸しのはずだ、おぼれてしまう、叔父さんは息継ぎができないと言っていなかったか?
「バタフライで追いかけなきゃ」
誰かの声がした。そうだ、バタフライなら飛ぶように泳げる、速さはクロールに劣るけど、飛んでいける。飛んで、捕まえなくては。叔父さんが透けたままになってしまう——。
そこで目が覚めた。もちろん夢だった。窓の外は雨で、風が網戸を揺らしていた。だからこんな夢をみたのだろう。
叔父さんははだかで寝ていた。さっきまでTシャツを着ていたはずなのだけど、暑くて脱いでしまったらしい。叔父さんはクーラーが苦手で(のどが痛い、肩がこわばると言うのだ)、寝るときは扇風機だけにしている。暗闇にしろい身体がぼんやり浮かんだ。輪郭はおぼろげだ。ハンコ注射の痕だという点々も見えない。
「……叔父さん」
そっと呼んでみた。ねむったままだった。もちろん透けてはいないけれど、なんだかこわかった。
視界の隅、窓の外で何かがふわりと舞うみたいな影がちらついてぎくりとした。分身した叔父さんが帰れなくなっているのかもしれない、思わず網戸に駆け寄って勢いよく開ける。何もいない。いるはずがない。あるいは僕は寝ぼけているのだろうか、十三歳にもなって? 風がびゅうっと吹いて雨がナナメに吹き込んだため、ちょっとぬれた。生き返ったり死んだりを繰り返す冷蔵庫がほとんどからっぽのままぶうんと低く鳴いていた。
布団に戻って叔父さんと向かい合う。このごろ僕らは一緒に眠る。叔父さんはめんどうくさいどうぶつで、とてもさみしがり屋だからだ。誰にも見られないようにタオルケットを頭までかぶって、こっそりキスをした。叔父さんはお姫様ではないから目を覚まさない。分身したことにもきっと気づいていない。
朝になって叔父さんは、飲みすぎて頭が痛いとぐずぐずうめいた。毎晩缶チューハイを二本、時間をかけてのろのろ飲むのだけど、きのうはウイスキーだった。ふわっといい香りがしたのでちょっとちょうだいと言ったら、教育上だめと断られた。叔父さんに教育だなんて言われたくない。
「服着せてよ」
だだっ子みたいにそう言うので、しなびたTシャツを着せてあげた。寝転がったままなので難しい。
「さりげなくおっぱいにさわるなよ」
「さわってないよ」
すぐにばれるなあと思う。大人の余裕だろうか。でもきんたまに白髪があることを言ったらものすごく恥ずかしがった。
窓の下、小さい子どもたちが何か騒ぎながら駆けていくのがきこえた。バレエ教室の男の子の顔が浮かんだけど、もっと小さい子だ。叔父さんはくすくす笑った。たれ目だった。
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