五、写真にはうつらない美しさ


 リンダは九九が苦手だと言う。六の段は自信ねえなあ、ひっかけが多いんだよなあと笑った。九九に自信もひっかけもあるもんか、この男はちゃんと義務教育を受けたのだろうかとあやしく思う。と同時に、九九が言えなくてもカレー屋を始められるというのだからジンセーなんて案外楽勝なのかもしれない。


「リンダからきいたよ。めぐちゃんち、冷蔵庫の調子が悪いんだって? 夏なのに困ったね」

 名札に帝国元帥と書かれた店長が言った。この店、アパートの一階のギョーザ屋は「もちもち餃子帝国」という。この町は大げさな屋号が多いのだ、「車検大学・板金学部」とか「古本大陸」とか。

「一回直って、だましだまし使ってたんだけどね。なんかまただめそうで」

 茶色いびんの液体を注ぎながら叔父さんが言う。ホッピーというとぼけた名前のお酒はぐるぐる混ぜて飲むのに、ナカとかソトとかいうのでよくわからない。混ざったものにナカもソトもあるのだろうか? ナカおかわり、と叔父さんが店長に言った。

「まあちょっとのあいだなら、うちの冷蔵庫に避難してくれて構わないけどさ」

「恩にきる。リンダにもよろしく言っといて」

 リンダならこれから来るよ、そう言って店長はため息をついた。

「あいつなあ、愛想は良いんだけどなあ」


 一度は息を吹き返した冷蔵庫だったが、また機嫌を損ねてしまったのだ。あれから一週間経っていた。叔父さんはいよいよメーカーに電話したが、夏季につき修理が混み合っており最短でも来週になりますと言われてしまった。いまいち納得のいかない理由だ、なんでもかんでも夏のせいにしている気がする。まあそういう傾向は僕にだってあるのだけど。

 とりあえず中身をどこかに移さねばということで叔父さんはゆみこさんにお願いしたのだが、ゆみこさんの冷蔵庫は小さいので難しいとのことだった。

「ろくに料理しないくせに、たくさんモノを詰め込んじゃって。だいたい独り身なのにどうしてそんなにでっかい冷蔵庫を使ってるのよ」

 電話口でゆみこさんは呆れたそうだ。

「仕方ないだろ、大は小を兼ねるし、実家がいろいろ寄越すんだもん」

「その実家に持ってけばいいじゃない」

「あんまり頻繁に行きたくないんだよ。冷蔵庫に端を発して、家に帰ってこいって言われる」 

「お小遣いもらってるくせに。うーん、それなら」

 そう言ってゆみこさんが紹介してくれたのがリンダだった。中学の後輩で、最近もちもち餃子帝国でバイトし始めたのだという。

「ものすごいバカなんだけどいい奴だから、お店の冷蔵庫に入れさせてくれると思う。部屋の真下だし、いいじゃない」

 そういうわけで昼間、ギョーザ屋に行って冷蔵庫の中身を避難させてもらった。図書館で宿題をやるのは延期した。

「あ、うわさの彼氏でしょ、ゆみちゃんからきいたよ」

 開店前の店で音楽をかけて、ひまそうに頭をゆすっていた男がリンダだった。身体が大きくて、Thank you God! と大きく書かれたTシャツを着ていた(背中にはGod is dead! と書いてある。とてもヘンな服だ)。

「おれ、山田倫太郎ね。略してリンダって言うんだ」

 略ではない。漢文ならレ点がつく。

「ねえ、どっちがゆみちゃんの彼氏?」

「両方。三角関係」

 叔父さんは真顔でふざけた。

「へー、ゆみちゃんの守備範囲ぱねえ」

 めぐちゃんと青葉ね、とリンダは人懐こい笑顔を向けた。

「青柳青葉って名前、なんかラップだね」

 韻を踏んでいると言いたいのだろう。学校で百万回ぐらい言われていることなので、いい加減うんざりする。

「でもいつか枯葉になる」

 僕が言ってみたその冗談を、叔父さんはやけに気に入った。じゃあおれはもう落ち葉だなあ、と笑った。

「冷蔵庫壊れたんだってね? 夏なのに大ピンチじゃん」

「大ピンチだから間借りさせていただく。どうもありがとう」

 叔父さんはお礼のつもりなのか、コーラのペットボトルを差し出した。リンダはとても喜んで、早速ごくごく飲んだ。身体がでかいから2リットルが小さく見える。当然のようにげっぷした。

「まあおれの冷蔵庫じゃないけどさ。おれも間借りなんだ」

 ギョーザ屋が開店するのは夕方からなので、リンダはランチタイムだけ店を借りてカレー屋をやっているらしい。

「今月から始めたんだ。週に三日しかやってないけどね。よかったら今度食べに来て」

 飲食店の冷蔵庫というものをじっさいにさわるのは初めてでワクワクしたけれど、ひみつのギョーザアイテム的なものはなかった。大きいけどふつうの冷蔵庫だ。リンダは飲みかけのペットボトルにRINDAと書いて冷蔵庫に入れた。リンダのつづりはふつうLで始まると思う。 


「遅刻しましたあ! 今日のまかないってなんすか?」

 店中に響く声でリンダがやってきた。名札には一兵卒と書かれている。何時だと思ってんだよと店長が嘆くと、常連らしきお客さんたちがくすくす笑った。

「遅刻が大胆すぎるんだよおまえは。もういいから片付けだけ手伝ってけ。バイト代は割引でちょっとつけてやるから」

 リンダはラッキー、と言ってさっさと頭のタオルをはずしてしまった。今日のTシャツには背中にHere puss! と書かれている。

「あ、ゆみちゃんのダブル彼氏」

 僕らを見つけたリンダは、ニコニコしながらやってきた。

「戦況は刻々と変化している。こいつはおれのカレシになった」

 叔父さんはまだふざけている。リンダはけらけら笑った。

「修羅場じゃん。そしたら今度中学のメンバーでバーベキューやるんだけど、来るのイヤ?」

「なんの話? バーベキューって、なんでおれが」

 初耳なんだけど、と叔父さんは怪訝な顔をした。

「今はじめて言ったんだもん。わりとみんなヨメとかダンナとか連れてくるから、ゆみちゃんの彼氏枠で来ればいいかなって。人数多いほうが楽しい」

 絶対やだ、と叔父さんは眉を寄せた。

「おれは若者も肉もあんま好きじゃない」

「カレシはそんなに若いのに?」

「ばか、カレシは特別なんだよ」

 叔父さんはますます調子に乗る。横目でにらんだら、ふにゃっと笑っていた。さっき布団の上で見せた顔と同じ顔だった。急に心臓がどっと鳴って、耳の付け根が熱くなった。

「わっ、ティッシュ!」

 リンダが驚いた声をあげる。叔父さんは一瞬きょとんとして、くすくす笑った。何ごとかと思ったら、僕は鼻血を出していたらしい。叔父さんがぼそっと言う。

「あんまりコーフンすんなよ」

「してない」

 ティッシュをもらい、鼻につめる。鼻血だなんて、小学生以来だ。

「何を妄想してんだか」

 べつに妄想していたわけではない。ちょっと思い出しただけだ。昼間、叔父さんがふにゃっと笑ったときのこと——コンドームをつけてもらったけど僕にはゆるくて、ぶかぶかだと叔父さんに笑われて、それがちょっと悔しかったのでめちゃめちゃに動いたら叔父さんがどうぶつみたいに鳴いて、というかぴいぴい泣いて、おなかがやぶれると大げさに弱音を吐いて、でもふにゃっと笑ってみせたこと。なんだか僕らはエッチなことばかりしている。あたまがばかになるかもしれない。

「僕はカレシではない」

 決然と注意したつもりだったけど、ティッシュをつめているため鼻声で、なんだか間抜けだ。鉄くさいにおいが鼻の奥を埋めた。つつくとぬるりとした。

「はいはい」

 叔父さんは僕のあたまをぐしゃぐしゃとなぜた。大きな手はしろくて骨ばっている。いまは温度がない。さっきは手のひらに汗をかいていて、それは僕もで、指先まで熱かったのに。

「冗談は抜きにしてもそういうとこに行くのはごめんだね。ガールフレンドのお付きなんてかっこ悪い。そして繰り返すけどそんなに肉が好きじゃない」

 たしかに叔父さんは少食だと思う。今日だってゆっくりゆっくりお酒を飲んでばかりで、あまり食べない。

「リンダ、注文。焼きギョーザ一枚と水ギョーザいっこ。あと大ライスとコーラ」

「オッケー」

 リンダは伝票にメモすると、厨房にひっこんだ。

「叔父さん、そんなに食べられる?」

「お前が食いそうだと思って。なんかほかにほしいものあるか」

「からあげ」

 おっ揚げ物! と叔父さんは笑った。

「やっぱり若者だよなあ」 

 もちもち餃子帝国は要するに居酒屋で、メニューの数がとても多い。小さな厨房でどうやって作っているのだろうと思うけど、たとえばエビピラフくださいと注文すると「今日はないよ」と言われてしまうので、つまりこれはメニューではなく「店長のレパートリー一覧」なのだろう。そうしてもちもち餃子帝国と言いつつ、おすすめマークは唐揚げと豚丼についていた。

「つまり、ここんちは邪道なんだよ」

 宇都宮はギョーザが有名な町だからあちこちにギョーザ屋があり、ギョーザの像という謎の物体もある。でもほんとうのギョーザ屋は限られているのだそうだ。いわく、「ほんとうのギョーザ屋はギョーザしか出さない」。

「この店はビールでも野菜炒めでもなんでもやっちゃうから、正確にはギョーザ屋ではない」

「あ、悪口言ってる」

 テーブル席を片付けていたリンダが、目ざとくききつけた。

「悪口じゃない、分類の問題」

「僕はなんでもあるほうがいいけどな」

 ほんとうのギョーザ屋は、焼きギョーザと水ギョーザしかなくて、ライスも飲み物もないのだ。ただただ餃子だけをお腹いっぱい食べたいという強いモチベーションが必要だ。僕としてはコーラも唐揚げもポテトサラダもあるほうがいい。

「わかってるねえ、少年」

 店長がうれしそうに言って、できたてのギョーザを出してくれた。

「まあ住み分けっていうか役割分担っていうかね。いろんな店があるってことで」

 鼻からティッシュを引っこ抜く。もう血は止まっていた。

 焼きたての餃子はいいにおいがした。羽根はいかにも「こんがり」という色だ。パリッとした皮に噛み付くと、肉汁があふれて口の中でじゅわっと熱い。野菜が多いからじゃくじゃく、といい音がする。こぼさないように一口で頬ばるけど、ほどけた餡は舌の上で暴れた。涙目になるほど熱くて、口の中がおつゆでいっぱいになって、つまりめちゃくちゃおいしい。

「もたれるから、おれはこっちのほうが好きだなあ」

 水ギョーザをすくいながら叔父さんが言う。

 宇都宮の水ギョーザはちょっとヘンで、ゆでた餃子が無造作にどんぶりのお湯に泳がされている。ゆで汁に直接たれを入れて食べる。たしかにこっちのほうがあっさりしていると思う。

「一個ちょうだい」

 前回食べて、気に入った。お湯でたれを薄めてしまっておいしいのだろうかと思ったけど、ちゃんとスープの味がするので不思議だ。ギョーザの味が溶けているのだろうか。薄い皮はほんのわずか厚ぼったくなってつるんとしている。ギョーザのおなかはやわやわとして中身がうっすら透けている。とてもやぶれやすく箸だと崩してしまうのでれんげですくう。

「おいしい」

 口の中でびゅるっと肉汁があふれた。なんだかドキドキした。

「もっと食べて」

 叔父さんが言って、どんぶりを僕に寄せる。汁の中でギョーザがゆれた。どんぶりが重たいからか、叔父さんの手には血管が浮いた。しろい手だ。やわらかに伸びる皮膚の奥にある血と肉と骨について考えた。セックスしたとき、身体ぜんぶがやわらかくなって発熱していたこと。

 ギョーザのおなかに噛み付く。ぐじゅっと音がする。ああ叔父さんに似ているんだなと思った。しろくて、やわらかくて、じゅわじゅわほどけてとろけてしまう。おなかがやぶれると叔父さんが言っていたことを思い出す。そうか、僕は水ギョーザとセックスしていたのか。

 叔父さんはカウンターにひじをついて、とろんとした目で奥のテレビを眺めていた。

「なんだよ、青葉」

「え?」

「あんまり見つめないでよ」

「見てないよ」

「鼻血止まったか」

「とっくに止まった」

 カウンターで隣同士に座るのはなんだか不思議な距離感だ。肩がくっつきそうに近いけど目をみて話すわけではない。椅子が高くて足をぶらぶらさせているから落ち着かない。なんとなく手元ばかり見てしまう。手同士がしゃべっていて、そこに声がのっているみたいだ。何を話していても内緒話的で、見上げてみる叔父さんの横顔はいつもとちがう顔にみえる。お酒を飲んでいるけど顔色は変わらなくて、耳が白い。

「ねえ叔父さん」

「何」

 手を伸ばして、叔父さんの耳をべこんと倒してみた。

「ギョーザ」

 しろい耳はギョーザに似ている。あるいは蛹にも見えた。というかギョーザが蛹だ。羽化を待ってねむるかたち。叔父さんがくすくす笑って言った。おまえ、酔ってないよな?

「意外としょうもない一発芸知ってんだな」

 叔父さんに耳をつつかれて、骨がぐにゃぐにゃまがった。

「おまえは耳も汗かいてるなあ」

 まげられるたび音がさえぎられて、さわわ、さわわ、と響く。どうしてかとてもくすぐったい。

 焼きギョーザとちょっと交換こしてよ、と叔父さんが言う。いいよと答えて、それだけのことなのだけど、それだってなんだか秘密の取引をしているみたいだ。叔父さんがぱくっと噛み付く。叔父さんの口の中でもじゅわっとあふれているだろうか。

 くちびるが油で光っているのをじっと見ていたら、洗い物を始めたリンダがカウンターの向こうから声をかけた。

「ねえ、めぐちゃんってバレリーナなんだって?」

 僕はちょっとぎくりとしてしまう。叔父さんがぴくっと眉を寄せたので。

「……男だからバレリーナとは言わない。それに昔の話だよ」

「ゲーノージンとかに会ったことあんの」

「あのなあ、何と勘違いしてるのかよくわからんけど、おれは有名なダンサーではないよ。ただの発表会ダンサーだよ」

 言って、叔父さんはホッピーをジョッキに足した。ため息をつくかわりにお酒をついだみたいだなと思う。かちん、と黒いマドラーが氷をつついた。

「発表会ダンサーって何?」

 叔父さんはすうっと目を細めてわずかに沈黙した。ほんの少しの間だったけど、僕の心臓はきしんだ。きいてはいけないことなんじゃないか。背中にじわっと汗がわく。叔父さんの白い耳を見る。蛹。やはり叔父さんは羽化の逆なのか、いやセミに蛹はない。やがて叔父さんはジョッキを重そうに持ち上げて、ほんの少しお酒をすすった。

「よそのスクールとか教室の発表会にゲストで出るんだよ。演目上、リフトで女の子を持ち上げられる男のダンサーが誰かほしいとか、そういうのがあって」

 リフトってわかんないよな、と叔父さんが説明してくれる。見せ場のところで男が女を高く持ち上げるんだ、片手で支えるのとか肩に乗せるのとかいろいろあって、と。

「男のダンサーは絶対数が少ないから、誰かしら来てくれっていうのがあるんだよ。あちこちのそういうのに呼んでもらってわずかばかりの出演料をもらう」

「へー、助っ人じゃん。おれも高校ん時いろんな部活の試合出たよ、うちの学校くっそ荒れてたからすぐ欠員でちゃってね。おれスポーツなんでも得意だけど、さすがに剣道は無理があったな」

「部活と一緒にすんなよ」

 リンダの言い草に叔父さんは呆れたが、でも笑っていた。ちょっとほっとした。

「……どうしてやめちゃったの」

 勇気を出してきいてみた。コーラを飲みながらできるだけさらっとしたふうで。たぶんいい感じに言えたと思う(こういうのは前にもあったのだ、去年母さんに「彼氏できたでしょ」ときいたときもカニをむきながらきいた。僕は応用力がある)。叔父さんはギョーザをつつきながら、やはりなんでもないことみたいに答えてくれた。

「そりゃあ……、おれよりうまい奴がいくらでもいるからなあ」

 焼きギョーザは羽根付きだから、ひとつひとつがくっついている。叔父さんは箸で羽根をちぎってばらばらにした。

「ちゃんと勉強した奴とか留学経験のある若い奴が、今はいっぱいいる。最近の奴らは足も長いしさ。おれにしかできないことって、何もないんだよ」

 叔父さんはじゅうぶん細長いと思うのだがよくわからなかった。

 あとは青葉が食べて、とギョーザのお皿を僕に寄越した。ぱりぱりだった羽根はいくぶん冷めたからか、たれにひたしたらすぐにしんなりした。死にそうな蛹だ。

「じゃあ今度の盆踊り、みんなで行こうよ。屋台いっぱい出るし」

 リンダが言う。いったい何が「じゃあ」なんだ。

「つまりめぐちゃんは踊るの得意なんでしょ?」

「盆踊りなんかやったことないね」

「でも炭坑節とかオバQ音頭くらいは知ってるでしょ?」

「残念、おれが得意なのはジゼル」

 ヒラリオンをやったんだよと叔父さんが笑った。じぜるって何? ゼルダの伝説? とリンダが言いかけたとき、口ばっかで手が動いてねえぞ、と店長が釘を刺した。

「そういやリンダ、おまえきのうテイクアウトの数まちがえたろ。8セットって書いといたのに」

「すんません、おれ九九苦手なんですよ」

「勘弁してくれよなあ、このドブネズミ」

 店長はため息をついた。リンダが口を尖らす。

「写真には写らない美しさがあるんですよォ、店長」

 それから店長に言われて、リンダは奥のテーブル席の片付けを始めた。どたどた走ったので床が揺れた。叔父さんは何かちいさく歌っていた。美しくなりたい、という歌詞がききとれた。

「青葉、この歌知ってるか?」

 叔父さんが僕にきいた。

「知らない」

「だよなあ」

 言って、お酒をちびちび舐めた。ちょっと悔しい。アンモクのリョーカイみたいなことなのだろう。香炉峰の雪みたいな、清少納言ならすばやく御簾をかかげてみせるような、そういうことなのだろうけどわからない。年の差があるから、いろんな常識を共有していない。そういえば叔父さんとユーチューブでむかしのアイドルの動画を眺めたけど、全然知らない名前ばかりだった(叔父さんは「おぎのめちゃん」が好きだったと言っていた)。

「……おれはドブネズミよりも美しかったよ」

 叔父さんがぽつりと言った。

「バレエやってたときのこと?」

「そう。でもそれだけだったさ」


 やがてトイレに行こうと立ちあがった叔父さんは、酔っ払っていたのかふらついた。足がもつれてがくんと転びそうになり、僕があっと声を上げたその瞬間、リンダがひょいと抱きとめた。右腕いっぽんで、難なく。リンダの腕は叔父さんの太ももくらいあって、ジョッキをいくつも抱えていたのにびくともしなかった。

「だいじょぶ?」

「……どーも」

 叔父さんは短く言って、のろのろとトイレに歩いて行った。その背中を見送りながら、すげえ軽い、とリンダはひとりごちた。

「ねえ、めぐちゃんて何か病気?」

 空っぽになったグラスを片付けながら、リンダは僕にたずねた。

「なんか青白いし、ふらふらしてる。具合悪いの?」

「わかんないよ」

 わからない。僕にはそう言うしかない。

「四十歳だから、いろいろだめになってるんだって。そういう歳なんだって」

 ウソだあ、とリンダは言った。

「店長なんか四十五だけどめちゃくちゃ元気だしめちゃくちゃこわいし、ウチの父ちゃんは還暦だけどがんがんテニスしてる。四十で弱っちゃうわけないじゃん」

「……うん」

 そう言われるとそうなのだ。同じような年齢でもうちの担任はハツラツと恐怖政治をおこなっているし、母さんだって元気だ。仕事もするし怒り狂うし、恋だってしている。

 おれはもう四十だからと叔父さんは言うけど、もしかしたらもっと何かあるのかもしれない。

 でも僕はそういうことをきくのがとてもこわい。よくない予感がするものはつい放置してしまう。返事をするのがおっくうなLINEに既読をつけるのがためらわれて、見ないふりをしているうちに、開くことすらできなくなってしまう、そういうのとたぶん一緒だ。

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