四、輪切りのレモン
バレエ教室はこじんまりとしたビルの三階にあり、外に露出したらせん階段をのぼって入るので少し目が回った。コンクリート打ちっ放しのしゃれた作りのビルで、石でできたお城みたいだ。JR宇都宮駅のすぐ近くだから、ホームに入ってくる新幹線がよく見えた。乗っている人たちと目が合いそうに近いけど誰も窓の外なんか見ていない。雑居ビルばかりでとくに面白味のある景色ではないからだろう。
「近くに住んでるんだから、たまには顔を出しなさい」
美容室で会ったおばあさんはバレエ教室の先生だった。先生といっても今は教室のオーナーという立場で、じっさいのレッスンはほとんど若い人たちに任せているのと言っていた。叔父さんの子どもの頃からの先生なのだそうだ。代田ちかこバレエスタジオと書かれた看板は飾りがかわいらしい。バレリーナのシルエットになっていて、片足を上げていた。
「めぐちゃんは最近何をしているの? 少し前に宇都宮に戻ってきたのはお母さんからきいてたけど、あいさつもないんだから。時間があるんだったら、ちょっとぐらいおしゃべりしに来てくれたっていいでしょう」
「やあ、どうもシャイで口べたなもので」
叔父さんは苦笑した。
「嘘おっしゃい、誰が口べたですか。子どもの頃から文句ばっかり一人前だったでしょうに……」
「勘弁してくださいよ」
叔父さんはすっかり生徒の顔になっている。
ぐるりと鏡が貼られたスタジオは、誰もいないのもあってとても広く見えた。こういうスタジオに入るのは初めてだ。髪をおだんごに結った女の子たちがここで並んで踊るのだろうな、と想像してみる。きっとみんな身体が柔らかい。
鏡に映る叔父さんを見る。ポケットに手をつっこんでぼんやりしている。さっきの美容室とはちがう「ぼんやり」だった。ここで昔踊っていたことを思い出しているのだろうか。
「叔父さんはここに通っていたの」
「うん」
叔父さんは鏡を見ていた。鏡に映る自分、を透かして鏡のもっと奥の奥を見ているみたいだった。小学校に上がる前から通っていたよと言った。
「最初は姉ちゃんが始めて、おれはなんとなく真似したんだ。なんか格好良くみえたんだよ」
母さんがバレエをやっていたのは知らなかった。
「中学上がって、姉ちゃんはやめちゃったけどな」
お茶にしましょと先生が僕らを呼んだ。
「男の子でずっと続けてくれたのはめぐちゃんくらいね」
小さな部屋にはソファと事務机があって、学校の進路相談室みたいだった。いかにも古そうな写真がいくつも飾られていた。先生が出してくれたのはホットの紅茶でとても熱かったのだけど、クーラーがきいていたからちょうどよかった。輪切りのレモンが浮いていた(でも僕には別途缶ジュースもくれた。そんなに汗をかいているように見えたろうか?)。白鳥のかたちをしたシュークリームはイチゴものってすまし顔だ。
レースのかかったテーブルにはバレエの雑誌が積まれていた。見たことのない雑誌だ。ぱらぱらとめくってみるとやはり知らない人たちが写真の中で踊っていた。みんなきれいな格好をしていて、つま先で立っている。外国の男の人もたくさんいた。タイツの足はしっかりと筋肉がついていて、叔父さんとはちがう。
「まったく、いつのまにこんなに大きな子をこさえたのかと思ったわ。あまり年寄りをびっくりさせないでちょうだい」
「まさか。カレシですよ」
そう言って叔父さんは僕の肩に寄りかかってみせた。ろくでもない冗談だ。先生はあらまあと笑った。
「ずいぶんかわいいナイトだこと」
「いいでしょ。四十になって気づいたんですけどね、なんか歳取ったらオンナになっちゃうほうがラクなんじゃないかって気がして——」
無茶苦茶だ。まったく、どう突っ込んだらいいものかとタイミングをはかっていたときだった。
「——やっぱりバレエやってるとおかまになっちゃうんじゃないか!」
いつのまにかドアのところに小さな男の子が立っていて、ほとんど叫ぶみたいに言った。小学校低学年くらいの子だ。
「あら、もう来てたの」
男の子は首を振った。
「もう帰りたい……」
涙目でそう言うと、男の子は駆けて行ってしまった。
「へそまげちゃったわ。めぐちゃんがへんな冗談言うからよ」
栗色の髪が外国の人形みたいな子だった。きのうの夜、窓の外にちらついた妖精のことを思い出した。
「おれのせいですか」
「最近学校でからかわれちゃったみたいでね、男子でバレエなんておかまだって」
「相変わらずこの町は未開人ばかりだ」
叔父さんはシュークリームをかじった。かなり大口だったので白鳥はあっというまによくわからないかたまりになってしまう。長い指にはティーカップが小さく見えた。
「……ねえめぐちゃん、あの子の指導をやってみない?」
叔父さんは思い切り紅茶をむせた。
「無理ですよ。何年ブランクがあると思ってんですか」
「具体的なレッスンを全部みろっていうわけじゃないの。ときどき練習につきあってあげて、話し相手になってほしいの。ついでにここの電話番でもやってくれればいいわ。教室に男の人がいてくれたらあの子も心の支えになると思って」
「そこまで過保護になるこたない。あのですね、友だちにからかわれたくらいで凹むような奴は、どうせ続かないです」
「そうは言うけど、あなたの場合はお姉さんが守ってくれていたでしょう。からかう子たちを片っぱしからこらしめてくれてたじゃないの」
「まあそうですね」
叔父さんは素直にうなずいた。母さんはとても気が強いので、なんとなく想像がつく。
「すごくまじめな子なのよ。一所懸命レッスンに取り組んでいるし、踊ることが大好きな子なの」
「そんなの誰だってそうです」
叔父さんは長い足を組み替えた。
「もし本当に才能があるなら、それこそこんな田舎にいるべきじゃない。ここや先生が悪いわけではないですけど、東京の、もっと男子に力を入れているところに行くべきでしょう。いくらだってある。何かしら、ひととちがったセンスみたいなものがあるなら、自然と自分の行くべき場所に呼ばれるものだと思う」
そうしてまぶたを伏せ、カップの中に視線を落とした。
「それでも本物の才能があるかどうか、うまくいくかどうかなんてわからない。意味のないことに賭けさせていいのか、おれにはわからない。大人が勝手に騒いで期待をかけちゃ、かえってかわいそうです。百年にひとりの天才は、ほんとに百年にひとりしかいないんです」
僕もカップの中を見る。輪切りのレモンが揺れている。叔父さんのもそうだろう。
相変わらず冷たいこと言うのね、と先生は言った。ちょっとかなしげな声だった。でもふわりと微笑んだ。
「べつに百年にひとりの逸材でなくても踊る理由があったっていいでしょう。意味みたいなもののことは難しいけど」
叔父さんは飲み干したカップからレモンをひょいとつまみ上げると、ひとくちで食べてしまった。
「さあ、おれにはわかりませんよ」
そうしてそっぽを向くみたいに窓の外を見た。新幹線は走っていない。
やがて次々と生徒がやってきた。たしかに女の子ばかりだ、柔軟体操をして笑いあっている。さっきの男の子も黙々とストレッチをしていた。
帰る前にちょっと見て行ってよと先生が言うので、僕らは少し見学していくことにした。
「この中で誰がいちばんうまい?」
「ちょっと見ただけでわかるもんか」
叔父さんは首をすくめた。でもしばらく眺めてから、小さく指をさした。
「……まあ、あいつはきれいだな」
さっきの男の子だった。バーに手をかけて、屈伸している。伸ばした腕が指先までなめらかに伸びて、なんだか鳥みたいだった。
叔父さんは生徒たちのすきまを縫ってすいすい歩いて行くと、男の子に何か話しかけた。腰のところに叔父さんが手をかけてやると、男の子はすうっと手足を伸ばした。小さいのに身体は細長く見えた。叔父さんが耳元で何かささやいて、男の子はくすくす笑った。妖精のパックみたいだと思った。僕のところからは何を話しているのか聞こえなかった。
帰り道、川沿いの道をぶらぶら歩いた。細い川はドーナツの内側を曲がりくねって流れている。
「ねえ、さっき男の子に何を教えていたの? とくべつなコツみたいなもの?」
何か必殺技的なことを伝授していたみたいに見えたのだ。
「そんなもんあるわけないだろ」
あったらおれが知りたい、と呆れた顔をした。
「ちょっと魔女の攻略法を教えてやっただけだよ。あのばーさん先生は虫が嫌いだから、シゴキがきつかったら昆虫図鑑でも投げつけとけって」
叔父さんはいたずらっぽく笑った。
川のそばだから小さな虫がたくさん飛んでいて、僕らはそれを払いながら歩いた。遠くでセミが鳴いていた。
「さっきゆみこが言ってた図書館、今度行ってみるか」
叔父さんが言った。
「家だと宿題すすまないだろ」
「そうだね」
どうも叔父さんと部屋にいるとまたセックスしてしまいそうな気がする。
「自由研究用の本でもさがそうかな」
「昆虫図鑑か?」
叔父さんは笑った。
セミの逆、と言っていたのを思い出す。土の中でじっとしていてやっと外に出るセミの逆? 明るい空の下で過ごした夏は短かくて、残りの人生は地中にもぐっているといいたいのだろうか。羽化の逆。羽根をしまって茶色く小さくなって、眠っているとでも?
「……叔父さん。さっき、先生にアルバムをみせてもらったんだよ」
「アルバム?」
「叔父さんはむかし『真夏の夜の夢』を踊ったんだね。シェイクスピアのあのお話がバレエの演目にもなっているのは知らなかったよ」
「……ああ、あれか」
だから叔父さんはせりふを知っていたのだろうか。でもバレエにせりふはないと思うし、きのうのことは夢だったような気もする。
「あのときのおれはかっこよかったろ」
若い頃の叔父さんはむしろつり目で、つまり歳をとって目の周りが重力によって落っこちて、今はたれ目になっているらしかった。
「今だってかっこわるくはないよ」
「ばかいえ」
叔父さんは短く言った。
「今とは全然ちがう。あのときおれは本当にかっこよかったんだよ。本当に、きれいな踊りをしていたんだ」
叔父さんはデメトリアスの役だった。魔法がとけないままの男の役だ。僕らのやる劇と同じ物語だけど、もちろん衣装や照明はもっとちゃんとしたもので、なんだか人間ではないみたいに見えた。いやデメトリアスは人間の役なのだけど、叔父さんの高く跳んでいる姿は、やはり僕とはべつのいきものだった。
いろんな写真をみせてもらった。外国の騎士みたいな格好のものがあり、上半身はだかのものがあった。どれも手が大きく見える。
両脚を開いて曲げた、不思議なかたちで跳んでいるものが目を引いた。空中で止まっているみたいだ。パ・ドゥ・シャというのだと先生が教えてくれた。猫のステップという意味なのだそうだ。
「ねえ、ちょっとやってみてよ」
「無理無理」
そう言って叔父さんは歩いて行ってしまったが、やがてふらふらとうずくまった。
「叔父さん!」
あわてて駆け寄ると、叔父さんは恥ずかしそうにつぶやいた。
「さっきのシュークリームが胃にもたれてさ……」
無理して食うんじゃなかったと笑った。まったく、めんどうくさいドーブツだ。とりあえず背中をさすってみる。
「ありがと。ちょっとマツキヨ寄っていい?」
「いいよ。薬買うの?」
「ちがうよ。おまえ用のコンドーム」
「すけべ!」
僕は思わず背中をはたいた。シャツごしの背はなまぬるく、うすっぺらだった。
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