三、りんごと割礼
もてるかどうかは別として、叔父さんはとなりに住んでいるおじいさんからよく「おすそわけ」される。
おじいさんはちょっと耳が遠くて、アパートだけど犬を飼っている。いつも犬をベビーカーに乗せて散歩している。
「年取って足腰が弱ってるんだと」
アパートの入り口ですれちがった際、叔父さんが教えてくれた。
「どっちが?」
「犬。じいさんは元気だよ。ちょっとぼけてかけてる気もするけど」
犬はとても大きなマルチーズで、毛がぼさぼさしている。気が小さくてすぐ吠える。ベビーカーにふんぞりかえってぎゃんぎゃん言うので、赤ん坊にも老人にも見える。犬はりんごが好きらしい。
「りんごねは! おしりが! 黄色いのが! うまいから!」
おじいさんの声は大きく、語尾に全部びっくりマークがついているみたいだった。たくさん買ったのだという、りんごとそば茶をくれた。
「家賃遅れた月はいつもなんかくれるんだよな」
叔父さんはめんどうくさがってりんごをむいてくれなかった。アルミのカップに入ったうどんが叔父さんの作れるいちばん凝った料理だ。まあ僕だってりんごは上手にむけない。皮付きのままかじった。ちょっとやわらかくなっていた。
そば茶にはダッタンそばと書いてあって、また『真夏の夜の夢』のことを思い出した。劇をやりたくはないけれどそのせりふは気に入っている。パックのせりふだ。
「行くよ、行くよ。僕が行くのを見ていてごらん。ダッタン人の矢よりもはやく」
はやいことは良いことだ。はやくあるために、僕は水泳の正しいフォームを身につける。
ところではやい、には「速い」と「早い」があって、僕の経験上「早い」は本人の意思に関わらず、なし崩し的にそうなってしまうことが多いと思う。
……そうしてその「早い」件について僕は、母さんのことをいっさい恨んでいない。そんなことでケンカしたり自分のことを恥ずかしく思ったりしたくない。育児雑誌にそのように書かれていて、それが衛生上おすすめということでそのようにしたということらしかった。父さんがいないから、母さんは育児雑誌が相談相手だったという。僕は全然おぼえていない。どう考えても痛かったろうし、それなりに血も出たらしい。想像するとたまひゅんする。でもほとんど赤んぼに近かったころのことを覚えているわけがない。
そういうわけで僕はこうだという抜き差しならない形状が残って、それだけのことだ。みんながみんなそうでないことも知っている。それゆえ僕はひとりで泳ぐことを好む。
でも叔父さんにほめてもらえたのはなんだかくすぐったかったし、ちょっとほっとしたし、大人になったらそれだけのことなんだと思って、ミライにキボーがわいた。そして、抜き差しならない事実で抜き差ししたのはなんだかおもしろくもあったのだ。
「そば茶はあとで実家に持ってくか」
叔父さんはつめたいコーヒーが好きだ。いつもスーパーでパックのコーヒーを三種類買う。ブラックと微糖とコーヒー牛乳。冷蔵庫には1リットルパックが三本並ぶ。並行して開けるから、中途半端に残してしまうことも多いようだった。ブラックだけ買ってじぶんでガムシロップとミルクを入れればいいのにと言ったら、
「そんなめんどくさいことできるか」
ときっぱり断られた。でも牛乳パックは洗って開いて乾かして捨てる、というのは知っているようで、飲んだものはちゃんとゆすぐ。とはいえそこまでで面倒になってしまうらしく、ゆすぐだけゆすいでからっぽの牛乳パックが台所に林立していた。宇都宮の古いビルたちに似ていた。パックの側面には「コーヒー屋さんの豆知識」と書かれていた。
『カフェインは体内でピークに達するまで40分程度かかります。コーヒーを飲んで40分仮眠するとスッキリできます』
とはいえ叔父さんは昼寝すると四十分では起きないし、起きてもぼんやりしていることが多い。まるでカフェインの効果がないのだ。壁の向こうでマルチーズが騒いでもおかまいなしに、ぐうぐう眠る。暑いとはだかで寝てしまうこともある。
ところでさっきのパックのせりふにはこういうのもある。
「ぐるり地球を四十分でひとまわり!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます