二、インドの神さま


「へえ、家出してきたの」

 叔父さんのガールフレンド、ゆみこさんは目をまるくした。

「家出じゃないです。母さんと僕と、お互い冷静でいるためにちょっと距離を置いてみようと思っただけ」

「距離をおくだって。ナマイキ!」

 ナマイキのキ、イの形で歯を見せてゆみこさんは笑った。笑いながらもハサミはよどみない。鏡ごしで会話をしているから僕がみているゆみこさんの顔は左右逆転の顔で、つまりほんとの顔ではないかもしれないと思った。でもゆみこさんは美人で左右対称の整った目鼻立ちだから、あんまり変わらない気もした。まつげがバンビみたいに長い。叔父さんより十五も歳下で、どうしてふたりが彼氏彼女なのかわからない。いつもくしゃくしゃの髪とよれたシャツの叔父さんに対し、ゆみこさんはとてもおしゃれできれいに編み込みされた髪はほとんどキンパツだ。でもすべての発言がバリバリ栃木弁ネイティブだから、どこかのんびりした調子で面白い。

 ゆみこさんの勤める美容室は天井が高く広々としていて声がよく響く。スピーカーを天井近くに吊っているから、BGMも上から降ってきて床に跳ねた。知らない外国語の歌はやけに低音が強くて、音楽はスニーカーの底から身体に流れてくる。

 叔父さんが髪を切りに行くというので、僕もちょっと整えてもらうことにした。ゆみこさんの手はひんやりしている。きのう叔父さんに手が熱いと言われたのを思い出す。大人になったら僕の手も冷たくなるだろうか。

「きみは何年生だっけ?」

「中学二年です」

「へえ! なんかしっかりしてるから高校生かと思った」

 そう言われるとちょっとうれしい。あまり背が高くないぶん(やっと母さんを抜いたくらいだ)、中身で勝負しなくてはと思う。

 うちは母さんと二人なので、僕ははやく大人になりたい。母さんは生命保険をたくさん売る優秀なケーヤクシャインだけど、ときどき弱虫だ。会社で嫌なことがあるとやつあたりするし、ちょっと僕とけんかすると隣の部屋にいるのに長い長いLINEが送られてくる。同じ会社のモリモトさんとつきあい始めてからはそれが顕著だ。僕がしっかりしていなくてはなあと思う。

「それと学校にスマホを没収されちゃって。母さんは仕事してるから、ないと不便だっていうのもあるんです」

 担任の恐怖政治について説明すると、ゆみこさんはうわあと声をあげた。

「かわいそう。教育委員会とかに言いつけちゃえばいいのに。だって不便だし、不安でしょ。落ち着かないんじゃない?」

「意外とそうでもないです。クラスのグループトークに反応しなくていいから、むしろ楽っていうか……。今、そこまで熱心にやってるゲームもないし。なんでもすぐ検索できないのが、逆に新鮮で」

 ここはどこなのか、それは何なのか、あしたの天気は、テレビの感想は、僕はあなたは今何をしているのか、何も検索できないというより「しなくていい」という感じ。しなくていい、は身体が軽い。ふわふわしていて、まるで月面歩行。

「なんか、地球を離れて宇宙に来たみたいな感じで、面白い」

「宇都宮は地球の外ってこと?」

 ゆみこさんは笑った。そう、宇都宮は宇宙のすみっこだ。叔父さんは地球外生命体みたいなものだし、身体の中は宇宙的だった。僕は重力にしばられた東京を飛び出して、宇宙を駆けるロケットだ。

「ま、めぐちゃんは無職でひまだから、メールもLINEもいらないもんね」

 叔父さんとちがって、母さんは扱いが難しい。けんかしたときはウサギがごめんねと言っているスタンプを送ってあげないと機嫌がなおらない。そしてウサギのスタンプを送れば一件落着とわかっていても、なぜだかそれがおっくうなときもある。それは僕が未熟なためか、あまねく人類の特性かは研究中だ。でも人類を代表して言っておく、既読機能のばかやろう。

「おれは無職ではないよ」

 叔父さんは憮然としてみせて言う。

「かつて身体を酷使して働いていたし、今後いっさい働かないと決めたわけでもない」

「じゃあ今は無職でひまなんじゃない」

 ゆみこさんは素早く断定して笑う。

「うん、まあ、そうだね」

 叔父さんはあっさり肯定して、つけくわえるみたいにあくびした。

「しかもタイミング悪いね、きみはいま免停くらってるでしょ。せっかくかわいい甥っ子くんが来てくれたのに、どこへも連れて行けないじゃない」

「そうなんだよ、まいったね」

「退屈させちゃうんじゃない? 何して遊んでるの?」

「ファミコン」

 正確にはファミコンのプレイ動画だ。むかしむかし叔父さんがやったというゲームのプレイ動画を、ユーチューブで眺める。きのうは寝転がって延々ロックマンの動画をみた。 iPadは一九八七年のテレビの画面になって、叔父さんと僕は友だちの家に遊びに行った同級生だった。

「それって面白いの? ゲームくらい買ってくればいいじゃない」

「いや、やるのはめんどくさいんだよ」

「へんな人」

 ゆみこさんは言った。まあ見てるだけでじゅうぶんなんだよなあと僕も思うけど、それ以上は言わない。美容室だから仕方ない。ビニルのケープでてるてる坊主になっているから、僕らはどうも格好がつかないし発言力が弱まる。

「つまり、きみたちは家でダラダラしてばっかりなのね」

 そうだよ、と叔父さんはうなずいた。

「この町は車がないとどこへも行かれないからなあ」

 宇宙の僻地だから、と叔父さんがぼやいた。車がないとドーナツの外に出られないらしい。ゆみこさんは笑った。

「たしかに僻地。そこそこお店はあるけど、べつの時間が流れている気がするな。こっち帰ってきたら、あっというまに訛りも戻っちゃったよ。私、前まで表参道のお店にいたんだけどね」

「表参道。ぽいですね」

「そう?」

「あの並木道にとても似合いそうだなと思いました」

 ゆみこさんはお腹を抱えて笑った。

「きみは中学生のわりにずいぶんきざだ」

「こいつは秀才だから。おれとちがって」

 叔父さんが言う。

「おれとちがって勉強でも運動でもなんでもできる」

 前途有望なんだよ、と叔父さんは言った。そう言われると照れる。

「青葉くんはスポーツも得意なんだ。何が好き? 部活はやってないの?」

「水泳が好きです。でも水泳部は部員が少なくて僕が入学した年に廃部になってしまった。放課後ときどき学校で泳いだり、スイミングに通ったりしてます。僕は勉強もしなくちゃいけないからそのくらいのペースで適切だとは思うけど」

 僕は模範的中学生なので、十分な勉強と適度なスポーツを両立せねばならない。とはいえ塾のことはあまり好きではない。受験のテクニックや他校の生徒たちとの牽制や、なんだかわずらわしいしせせこましい気がする。叔父さんの家に来ることにして夏期講習をパスできたのはよかった。

「そうなんだ。でもそれはそれで上下関係みたいなものがなくてよさそうだね」

「どうかな。おかげで集団行動はあまり好きじゃない」

 学校の25メートルプールは古くてぼろい。でも独り占めして泳ぐのはなかなか気分がいい。体育の先生がひまをみてちょっと教えてくれる。フォームはけっこうよくなったと思う。ついでに付け加えるなら放課後の更衣室はほぼ僕専用で、いろいろと気楽だ。

「たしかにきれいに灼けてるね。私は中学のころ演劇部だった。だから今も声が大きいんだ。ロミオとジュリエットをやったことがあるよ。元気すぎるジュリエットって言われたけどね」

「僕、去年マーキューシオ役をやりました。文化祭のクラス劇ですけど。毎年九月にやるんです」

「ロミオの友だちで死んじゃう役だ。文化祭か、懐かしい響きだな。今年は何かやらないの?」

「今年は『真夏の夜の夢』なんですけど、僕はやりたくない」

「どうして?」

「だって——」

 言いかけたとき、ゆみこさんあてに何か電話がかかってきたらしく、ごめんねと会釈してゆみこさんは奥へ行った。叔父さんは漫画雑誌を眺めていた。真剣に読んではいない。ぱらぱらとめくっているけど眠そうだ。

 美容室は平日の昼間だからすいていて、でも美容師さんたちはみんなきびきびと働いていた。切られた髪の毛はさっと掃いて集められる。僕や叔父さんのかけらはほかの知らない人のものといっしょになって、どこかへ消えた。きのう叔父さんの頭でぴょんとはねていた白髪はもう切られてしまったろうか。

 しばらくして、戻ってきたゆみこさんが言う。

「でもいいなあ、夏休み。一ヶ月以上休みがあるって今思うと天国だよね。逆にひまになっちゃうでしょ」

「そうでもないです。宿題もしなきゃいけないし、叔父さんの世話もしなきゃならないし、やるべきことは多い」

「このおじさんは手がかかるもんね。めんどくさいドーブツのめぐちゃん」

 たしかに手のかかるどうぶつなのだ。体力がないと言ってすぐ横になってしまうし、すぐにべそべそと泣いてしまうし——いけない、思わずいろいろのことを思い返してしまう。

「もし宿題やるんだったら、市立図書館の二番町分室がおすすめだよ。古いけどキレイで自習スペースがしっかりしてる。漫画もあるからめぐちゃんも退屈しないんじゃない? どっちがコドモかわかんないね」

 喫茶室のドーナツがおいしいのだとゆみこさんが教えてくれた。りんごドーナツがお気に入りだけど、甘くないのもおすすめだという。カレードーナツという、ようするにカレーパンもあるらしい。しかし申し訳ないけど、僕はそれどころではなかった。しろい身体の感触がよみがえって耳たぶにどっと血が集まり、痛い。鏡の中の僕は顔を赤くしてしまっていた。

「青葉くん暑い? 汗かいてる。冷たいもの持ってこようか」

 もちろんゆみこさんは叔父さんと僕がセックスしたことを知らない。僕は浮気相手になってしまうのだろうか。気まずいようなくすぐったいような気分で、アタマの中が騒がしい。

「……お前はポーカーに向かないなあ」

 ゆみこさんが奥に行ってすかさず、叔父さんがうっすら目を開けて笑った。白目がちょっとにごってみえた。きのうとちがう目だ。

「ここが美容室でセーフだったろ」

「何が?」

「それかぶってるから、ボッキしても見えない」

「してないよ!」

 つい大きな声を出してしまって、店中の視線が集中した。

「ばあか」

 叔父さんは歌うように言って漫画雑誌に顔を戻し、やがて眠ってしまった。鏡にうつった寝顔をみる。叔父さんは目をつぶると、男でも女でもない、大人でも子どもでもないなにかの顔になる。きのうもそういう顔をしていた。

 ……きのうのことを、順を追って思い返してみる。きのうの叔父さん。ぴょんとはねていた白髪のこと。くらやみでしろくひかった。


 冷蔵庫が壊れてしまったのだ。夜明け前だった。のどがかわいて目を覚まし、ジュースに氷を入れようと冷凍庫を開けたら氷がぜんぶ水になっていた。中の空気はまだ冷たかったけど、冷凍食品はいくぶん柔らかくなり始めていた。

 そのことをとなりの布団の叔父さんに言ったら眠そうに起きてきて、たしかに側面が熱いな、熱がこもってるのかも、などと言って、しかしぼんやりしたまま溶けかけたアイスクリームを食べ始めた。「アイス食べてる場合?」「この時間じゃまだ電気屋はやってないだろ。お前も食って」「おなかすいてない」、叔父さんは直接スプーンをつっこんで食べて、やがてお腹が冷えたとぶつぶつ言ってテーブルに突っ伏してしまった。

「こういうときどうしたらいいか、ぐぐって」

 叔父さんは僕にスマートフォンを渡した。「お腹?」「冷蔵庫だよ、ばか」、冷蔵庫・壊れたで検索したところメーカーの相談室に電話すべきと出てきたのでそう伝えると、インターネットの集合知なんて役に立たねえなあと言って、それきり叔父さんは押し黙った。

 手持ち無沙汰だったので僕も真似をしてテーブルに伏せてみた。テーブルはひんやりとして頬に気持ちいい。耳をつけたら、叔父さんの息が大きくきこえて、テーブルが呼吸しているみたいだった。外は雨が降っているらしい。新聞配達だろう、バイクが水たまりを跳ねかしてばしゃばしゃと走っていくのが聞こえた。学校のプールで浴びるシャワーみたいな音だ。つまり町はいま25メートルプールで、僕らはプールに撒かれるまるい塩素剤かもしれない。水の中に溶けていくのだ、そんなことを考えていたら叔父さんの鼻をすするような音がテーブルを振動させた。ぐす、という音が数回続いたのでどうしたのだろうと顔を上げたら、叔父さんが泣いていた。

「どうしたの」

「どうもしない……」

 大人の男の人が泣いているのをみるのは初めてで、なんだかこわかった。父さんの葬式のさい泣いていた人はたくさんいただろうけど、僕は赤んぼのときだったから知らない。叔父さんは静かに泣いたまま布団へ戻ってしまった。頭からタオルケットをかぶったため、足がはみ出た。少し曲がった爪が、窓からの青にひたされていた。夜の終わりは青いのだ。街明かりにけぶった赤色の曇り空も、この時間には静かな青に染まるらしい。いつもなら眠っている時間だから知らなかった。叔父さんは僕の視線に気づいたのか足をひっこめた。

「バレエやってると足はキレイじゃなくなっちゃうんだよ、どうしても」

 どうして泣いているのか、そのことに触れていいのかわからなかった。ここにいていいのか、立ち位置が不安定だ。こういう感じは覚えがあるぞと思って劇のことを思い出した。『真夏の夜の夢』。練習中、あらゆる方向からの視線が刺さる気がしていやな汗をかいた。せりふが次々アタマの中で再生される。思わず口からこぼれていた。


「暗い夜は人の目からその働きを奪いとる、でもそのかわりに耳の働きを鋭敏にしてくれる」


 そうしたら叔父さんが言ったのだ。


「ライサンダー、あなたを見つけたのは目ではないのよ。ありがたいことに耳があなたの声に導いてくれたのよ」


 僕が言ったものに続く、ハーミアのせりふだった。びっくりした。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』。恋人と森に迷い込む若い娘のハーミアは妖精パックのいたずらに遭い、しっちゃかめっちゃかの夜を過ごす。

「どうして知ってるの?」

 思わずタオルケットをはがした。叔父さんと目が合った。

「なにが?」

「いま、せりふ……」

 暗い中で目だけひかって、がちん、と音が鳴ったみたいにかち合った。泣いていたから目元はきっと赤い。

「……おれは、なにか言ったか」

 叔父さんは不思議そうにした。たしかに叔父さんの声だったのだ。そしたら視界の片隅でなにか小さな影が走った。窓だ、と思って顔を上げたけど何もいなかった。いるわけはない、ここは二階だ。

「言ったよ。真夏の夜の夢のせりふ」

「おれが?」

 叔父さんはぼんやり言った。やがて、またひとすじ涙がこぼれた。暗さに目が慣れたからか、つうっとすべるのがわかった。そして小さな声で言った。

「……中身が腐る」

「え?」

「冷蔵庫だよ。全部溶けて、全部腐る。肉とか野菜とか、全部だめになるんだ。そのことがおれはとてもつらい」

 冷蔵庫が壊れて泣いているのだろうか。そんなの修理に出せばいい、中身なんて溶けてしまう前に食べるなり、おばあちゃんのうちに持っていくなりすればいい、わけがわからない、泣くようなことではぜったいにない。でもそういうせりふは口から出なかった。かわりに僕は叔父さんの頭をぎゅっと抱きしめていた。どういうわけだかそうした。

 真夏の夜の夢、パックのいたずらによって操られた恋人たち。僕にもなにかそういう妖精の魔法みたいなことが起きたのだろう。妖精王オベロンがパックに与えた魔法の薬。僕は抱きしめた叔父さんの髪にくちびるをうずめていた。わずかに汗のにおいがした。左目のすぐ先で白髪がいっぽん、ぴょんとはねていて、思わずそれを口に含んだ。叔父さんはめそめそ泣いた。肩が震えている。震えているのが僕の肌に伝わり肉に伝わり骨に伝わる。ひとの身体はテーブルと同じものだと思った。

「……僕はこんどの文化祭、『真夏の夜の夢』の劇をやりたくないんだ。くじでパックの役になっちゃったんだけど」

 叔父さんの頭を抱いたまま言う。叔父さんは黙っていたので勝手に続けた。

「パックに魔法をかけられる若者のうちのひとり、デメトリアスはさいごまで惚れ薬の効果のまま、ヘレナと結ばれるでしょ。デメトリアスがはじめ自分で選んで恋したのはハーミアだったのに、話の収まりが良いようにデメトリアスだけそのままなんだよ。魔法はとけない。デメトリアスの意思は置き去りだ。僕はそのことに納得がいかない。だからやりたくない」

 叔父さんの息は熱くて湿っていた。ずっと泣いていたので僕のTシャツはぬれてしまった。やがて叔父さんはぐしゅんとくしゃみをして、僕の腕の中だったため、鼻水が盛大に服に垂れた。

「あーあ」

 仕方ないのでTシャツを脱いで、それで叔父さんの顔をぬぐった。僕のはだかを見て、叔父さんはぼそっと言った。

「……灼けてるな」

「うん、プールで泳いでるから……」

「なんだかインドの神さまみたいだ」

 それで、インドの子どものことを思い出した。『真夏の夜の夢』で妖精王オベロンと妻のタイテーニアがけんかする原因になる、さらわれて妖精の国に連れてこられたインドの男の子。さんざんせりふには出てくるけど、その子どもは舞台に姿をあらわさない。登場しない。『真夏の夜の夢』はほんとうにわけのわからない話なのだ。

「神さまならわかるだろ、おれはゆっくり死んでいっているんだよ」

 叔父さんは言った。どんどんだめになっていく、少しずつ壊れていく、一日一日少しずつ死んでいく、冷蔵庫がその予兆だ、そんなことをつぶやいた。「足の爪をこんなに歪めたのに、踊りは止まってしまった。どこへも行かれなかった」、言っていることの後半は何を意味するのかいまいちわからない。寝ぼけているのかそうでないのかつかみかねた。ともかくそれをさえぎるためにもう一度、Tシャツで叔父さんの顔をぬぐった。わざと乱暴にした。叔父さんは目をつぶった。

「……オベロンの作った惚れ薬は」

 僕はなんとなく言ってみたのだ——妖精の使う魔法の薬は、目を覚まして最初に見たものに恋をさせてしまう、と。

「うん、知ってる」

 言って、叔父さんは目を開けた。透明な目だった。しろい頬は夜のせいで青く、やはり僕たちはプールの排水口に吸い込まれていく塩素剤だった。

 そうして叔父さんとキスをした。

 ひとの唾液はへんな味だと思ったけど不快ではなくて、なんだか身体中の関節がむずがゆくなった。そう言ったら叔父さんは小さく小さく笑った。

「青葉、クロールで息継ぎってできるか」

「できるよ。できなきゃ泳げないよ」

「そうか。おれはできない」

 そうして何度もキスをして、僕はあっさり勃起して、流れるようにその先もしてしまった。窓の外にまた何かちいさな影を見たけれど、僕は目の前のことに精一杯で確認することはできなかった。栗色の髪がよぎったのだ。たぶん妖精のパックだろうと、そのときはごく自然にそう思った。

 僕はこれまで男に勃起したことなんて一度もなかったし、叔父さんにガールフレンドがいることだって知っていた。つまり妖精のせいで、冷蔵庫が壊れたからで、叔父さんが死ぬとか言うからだ。

 モノゴコロついて自分のちんこが自分以外の手に包まれるのは初めてで、叔父さんの手のひらは意外としっとりしていて僕は電流が走ったみたいになった。もろもろを叔父さんにほめてもらえたので、どこかゆるされた思いだった。僕の下で叔父さんは仰向けになって足を広げて、なんだか赤んぼみたいだなあと思ったのだけど、その次の瞬間には僕のほうが叔父さんの薄い胸にすがりついてしまって、小さな乳首にむしゃぶりついてしまって、僕だって赤んぼだった。

「……冷蔵庫」

 ぜんぶ終わったあとで、マラソンみたいな息をしながら叔父さんが言った。

「冷蔵庫、とりあえず一回プラグを抜き差ししたら、直るかもしれない」

「そうなの?」

「さあ。でも家電ってわりとそういうところあるから……」

 そうして身体をティッシュで拭いてから、プラグをひっこ抜いて差してをやってみた。セックスみたいだと思った。しばらくしてからほんとうに冷蔵庫はふたたび冷え始めた。


「お待たせ。梅ジュースだけどいい?」

 ゆみこさんにグラスを差し出されて我に返った。

「あ、はい」

 つめたい甘さと酸っぱさが口の中にぎゅっとしみて、目が覚める。金色に透ける液体はのどの奥にとろりとまとわりついて、氷がからんと鳴った。

「それ梅酒みたいでしょ」

「梅酒を飲んだことがないです」

「ああそうか。まあ梅酒ってそんな感じなの。うちの母が作ったジュースなんだけどね、大量にもらっちゃったからここで出してるんだ。お母さんはそういうのマメなんだけど、私はからっきしだわ」

 梅の実落ちても見もしまい、とゆみこさんが笑う。演劇部の発声練習だと言う。

「まいまいねじまきまみむめも、うめのみおちてもみもしまい」

 たしかに実が落ちる瞬間を見張っているのは難しそうだ。学校に梅の木があるけど、木になっている実か落ちている実かどちらかしか見たことがない。つまり生きている梅と死んでいる梅で、死ぬ瞬間にお目にかかったことはない。きのうのセミだってそうだった。死の瞬間は特別なのだ。

「これが飲めたら梅酒も飲めますか」

「試してみなって言いたいけど、言っちゃダメなんだろうなあ」

 僕は十三歳だからしてはいけないことが多い。叔父さんとセックスをしたのもいけないことなのだろう。

「今度プール行こうか」

 僕のえりあしを整えながら、ゆみこさんが言う。

「せっかく水着買ったんだけど、このおじさんはプールも海も嫌がるから。きみは泳ぐの、何が得意?」

「なんでも好きですけど、今一番練習しているのはバッタ」

「バッタ?」

「バタフライです」

「いいね。じゃあ今度ドライブがてら行こう。私の車はかっこいいよ」

 鏡の中の叔父さんを見る。起きたのか、目をしょぼしょぼさせていた。

「なに、プール?」

「そ。泳げないめぐちゃんは放っておいて、若くてかわいい男の子をナンパしてんの。悔しいでしょう」

「全然。おれは老若男女にもてるから引く手あまただもんね」

 勝手にどーぞと叔父さんは言った。でも叔父さんが来ないならちょっとつまらないなと思う。ゆみこさんと二人でプールというのはなんだか緊張しそうだし。

 そんなことを考えていたら、きれいな白髪のおばあさんがこちらにやってきた。

「ああ、やっぱり。めぐちゃんじゃない」

 おばあさんは叔父さんに声をかけた。いかにもパーマをかけたばかりといったふうで、くっきりとした長いウエーブが魔女みたいだ。背筋がしゃんとしている。

「げっ」

 叔父さんは露骨に顔をしかめた。老若男女にもてる、をさっそく実践しているのだろうか?

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