水ギョーザとの交接

オカワダアキナ

一、正しい予感


「たぶん死んでないよ」

 仰向けで動かないけど、あれは死んだふりだ。生きている。アパートの廊下に転がっていたセミは羽根を閉じてじっとしていた。もう一度飛ぶためのコンディションを整えているみたいに見えた。ようするに僕の直感であって根拠はないんだけど、こういうのってだいたいはずれない。だてに十三年も生きていない。模範的中学二年生である僕は、いのちの有無を見分けることについてちょっとばかり自信がある。

「うん。おれもそう思う」

 そう言うと叔父さんはさっとUターンして、部屋の中へ戻ってしまった。

「あいつが死ぬまで出かけるのは延期」

 四十歳にもなってセミがこわいのだろうか。たしかに近づいたら、びびびび、と暴れまわりそうではあった。

「セミが死ぬのを待つの?」

 声をかけた叔父さんはもう後ろ姿で、はだしの足がぺたぺたと廊下を歩いていった。残されたビーチサンダルが抜け殻みたいに転がって、叔父さんは羽化したばかりのセミだと思った。扇風機をつけた音がする。

「そう。死んだら起こして」

 たぶん叔父さんはごろんと横になっているんだろう。そんな感じの声だった。

 夕方、やっと涼しくなってきたので夕飯の買い出しに行こうとしていたのだ。けれど玄関のドアを開けてコンクリの廊下にセミが転がっているのを見て、叔父さんは引き返してきてしまった。

「死ぬまで観察してろってこと?」

「がんばれ。夏休みの自由研究」

 やはり叔父さんは畳に寝転がっていた。腕で顔を覆っているため声はくぐもって低い。二階のこの部屋は窓が大きく、西日がまぶしいのだろう。どんな顔をしているのか見えないけどにやっと笑っていそうだと予想する。とはいえ叔父さんはたれ目だからだいたいそう見える。

「セミの研究なんて、小学生でもしないよ」

 さっき廊下に出たとき、どこかの家から玉ねぎを炒める匂いがして夕方だなあと思った。カレー食べたいなあと思った。傾き始めたばかりの太陽はじりじりとしぶとくて、光はまだ白い。けれど一日はとっくに後半戦らしい。

「そう? ゆっくり死ぬさまを観察するのは、立派な研究になりそうだけど……」

 夏休みの宿題に自由研究があるのは事実だった。研究だなんて。中学二年にもなって、大げさでコドモっぽい宿題だ。テーマはなんでもよいという。各自が自由に好きなテーマについて創意工夫して研究すること、ひとりひとり個性を出すこと——、つまり先生たちだって手抜きなのだ。まあ夏だから仕方ないよなと思う。先生たちにだって休みは必要だろう。

 でもそれなら僕だって、好き勝手やってやろうと思った。たとえば、叔父さんを研究対象にするとか。

「ゆっくり死ぬの?」

「たぶんね。生きると死ぬってきっとグラデーションで、境目はぼやけてる」

「そうかな」

 ちがうと思う。今にも死にそうなことと完全な死には大きな隔たりがあって、その境界は厳格だと僕は考える。巨大な崖から落ちたらそれっきり、帰ってこられない。だからいのちの有無についてカンがはたらくし、そうでなくてはこの世もあの世も曖昧になってしまう。それって気持ち悪い。そう思う。

「青葉、セミの寿命はどれくらいか知ってるか」

 青葉というのは僕のことだ。青柳青葉。ばかみたいな名前だと思うけど(死んだ父さんが命名)、十三年のつきあいなので慣れている。叔父さんの下の名前は恵という。めぐむ。ふつうの名前だ。母さんやおばあちゃんはめぐちゃんと呼ぶ。

「一週間でしょ」

 僕が答えると、叔父さんはへえ、と感心した。ばかにしている。そんなのショーガクセーだって知っているし、僕に関していえば幼稚園の頃から知っている!

「土の中で七年過ごして、一週間やかましくさわぐ。ねえ、叔父さん、そんなのはコドモだって知ってるよ」

「コドモ!」

 叔父さんは大げさに笑った。何がおかしいんだろう?

「うん、まあいいよ。青葉はもう大人だもんな。さっき大人になったもんな」

 きょう僕は、ある部分において決定的な分水嶺をこえた。ぐるぐるまわるドーナツの輪の中で、そうなるとは思わなかった。叔父さんのアパートはドーナツの輪の内側にある。

「ちょっとこっち来てよ」

 叔父さんは寝転がったまま手招きした。

「何」

 となりに座ると、叔父さんはのそのそと僕の腰に抱きついた。長い腕はうっすら血管が浮いて白い。

「叔父さん、暑い」

「おれだって暑いよ」

 むかし叔父さんはバレエダンサーだった。いろいろな舞台で踊ったらしいけど、昔の話だと言って詳しくは教えてくれない。今も身体は全体的に細長くて、僕とはちがういきもののように思える。叔父さん本人は、最近は何もしていないからお腹がたるんできたと笑う。たしかにしろい身体は筋肉が落ちて、ひっぱると皮がのびる。のびるとすぐ戻らない。なんとなくしなびた果物を連想させた。

「さっき姉ちゃんからメールきてたけど、なんて返したらいい?」

 とはいえ、叔父さんはきれいないきものだと思う。しゃんとしたらもっとかっこいいはずだ。昔の写真はきりっとしていた。たぶん今は本気を出していない。

「母さんから? なんでもいいよ」

 夏休みを宇都宮の叔父さんの家で過ごすことにしたのは、べつに母さんとケンカしたからではない。東京にいたくない理由はいくつもあった。塾の夏期講習や文化祭の劇の練習やクラスのいろいろや。ついでに母さんがつきあっているモリモトさんと会うのも気が進まない。モリモトさんが新しいお父さんになるのだとして、決定権は僕にはない。親しくなっておく必要なんてないし、だいたいその件については母さんもはっきりとは言いたがらないので僕としてはめんどうくさい。

 栃木県宇都宮市。ギョーザが有名な町で、町中あちこちにギョーザ屋がある。ここのアパートの一階にもギョーザ屋が入っている。となりはコインランドリーで、向かいにはコンビニがあるけど二十四時間営業ではない。

「じゃあ青葉は日々マジメに勉強していて宿題は順調です、って送っとこ」

 アパートはおばあちゃんが大家さんをしていて、叔父さんは「カタチばかりの家賃」を払っているらしい。どうしてあの広い広いおばあちゃんのうちでなくアパートに住んでいるのか、知らない。少し前までは都内をあちこち転々としていたけど、いつのまにか叔父さんは宇都宮に帰っていた。

 みやかんと呼ばれる宇都宮環状道路が市の中心部をぐるりと囲んでいて、その内と外で景色はだいぶ変わる。外側は田んぼや畑が多くていかにも田舎の風景だけど、ファミリー向けの住宅地が新しく増えているそうだ(たとえば戸祭という地区は「宇都宮のビバリーヒルズ」だと叔父さんは言う)。いっぽう叔父さんのアパートのあるみやかんの内側は駅もデパートもある。でも全体的に古びていて住んでいるのもお年寄りが多い。ドーナツ化現象だと叔父さんが教えてくれた。

 僕の夏休みはおもにドーナツの内側でおこなわれる。独身でいつもぶらぶらしている叔父さんと遊ぶのは気楽でいい。

「いまどきケータイ没収だなんて、お前の学校は厳しいんだな」

 同じ班の山井がスマホを駆使して英単語テストのカンニングをしたため、班のメンバー全員がケータイを没収された。班ごとにテストの点数を競わされているためで、つまり連帯責任だという。担任は「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」と唱えた。拡大解釈にもほどがある、三銃士のダルタニアンはそういう意味で言ったんじゃない。はっきりいって、すげえむかつく。

「うん。つまり恐怖政治なんだよ」

「それなら青葉たち民衆は抗議の声を上げるべきだ。だいたい、夏休みのあいだじゅうずっと取り上げるなんて保護者からクレームくるだろ」

 母さんは毎日働いているから、帰りの時間や夕食のことなどいつもケータイで連絡を取り合っている。僕のスマホが没収されてしまって母さんはものすごく苛立った。チホーコームインの野郎いつかぶっとばす、と怒り狂った。でも毎日働いているから保護者会みたいなものにはあまり来られない。それにたぶん、機嫌が悪いのはこのあいだ僕がモリモトさんとの食事会をすっぽかしたことも大きいので、僕としては君子危うきに近寄らず。

「きたみたいだけど、うちの担任は頭オカシイから知らんぷりだった」

 叔父さんは笑った。

「先生っていくつくらいの人?」

「さあ。四十代だと思う」

「ふうん。ま、年取ると身体だってアタマだって、どこかしらガタつくよな。おれもだけど」

 そうして叔父さんは息をこぼすみたいに笑うから、けほん、と咳みたいな音がした。抱きつかれたままだったので僕のTシャツはなまぬるく振動し、いろいろのことが思い起こされて脇の下にじわっと汗がわいた。

「……おれはセミの逆なんだ」

 どういう意味だろう。叔父さんの言うことはしばしば意味不明。

「夕立が来るかもな」

 それは正しい予感のような気がした。雲が厚い。さっき外に出たとき、風も出てきていた。身体にまとわりつくような風だ。この町は盆地だからとても暑く、雨が降りやすい。いつも夜空は赤っぽく灰色にけぶっている。たぶん街の灯りが雲に反射しているのだろうけど、東京ではこういう赤にはならないのでフシギだ。

「きっとどしゃぶりになる」

 叔父さんはぼそぼそと予言して、おなかとおしりが痛いとつぶやいた。

「大丈夫?」

「大丈夫だけどさ」

 言って、叔父さんはTシャツごと僕のおなかを軽く噛んだ。くすぐったいと言うと、叔父さんはいっそう柔らかく噛む。どうぶつみたいだ。

「……青葉」

「うん?」

「エッチしたオンナノコには優しくするもんだよ」

 今朝、叔父さんと、そういうことになった。いや僕だってわけがわからないとは思う。男だし、シンセキだし、歳もずいぶんちがう。

「でも叔父さんは男だ」

「うん、そういえばそうだった」

 叔父さんも僕もおかまとかホモではないと思う。いやそういう定義について僕は不勉強なのでわかりかねるけど(そしてわからない分野について断定的な発言はすべきでないと思う)、ともかくそうなったし、とても自然な流れだった。うまく説明できない。いろんなことがちょっとずつそうさせた。叔父さんが死にかけていると言ったこと。冷蔵庫が壊れてしまったこと。あるいは妖精のしわざ?

「……具体的にどうしたら優しいの?」

 まさか叔父さんでドーテーを卒業するとは思わなかったわけだけど、まさか差し込んだその瞬間に思わず「宇宙だ!」とつぶやいてしまって爆笑されるとは思わなかったわけだけど——だって宇宙だったのだ、ひとの身体のなか、内臓は宇宙だったのだ——! でも、それだけだ。

 とんでもないことをやらかしたと思ったはずなのに、僕も叔父さんもまるでふつうだ。世界はぶっこわれない。

「うーん」

 叔父さんは考え込む仕草をした。たぶん何も考えていない。僕だってそうだろう。あえて言うならセックスするとしばらくちんこはヒリヒリして痛いんだなあということぐらいで、気持ちとしてはすごくニュートラル。

「とりあえずチューしてくれたら嬉しい……」

「やだよ」

 そう言ってみたら、叔父さんはすねたみたいにごろんと寝返りをうってしまった。ので、思わず頬を追いかけて、キスをした。

「青葉、お前ちょろすぎだよ。悪いおねえちゃんにだまされないようにしろよ」

 忠告しているつもりなのだろうか。わるい叔父さんのくせに。

「誰にも内緒な」

「当たり前じゃん」

 僕がそう言うと、叔父さんはくすくす笑った。

「お腹さすってよ」

 言われるままにお腹をなぜる。シャツごしにふにゃっと柔らかいのがわかった。

「青葉の手は熱い。コドモ体温だな」

「夏だからだよ」

「そうか」

 で、まあ、そういう流れでもう一度、そうなった。つまり叔父さんが死にかけていると言うからで、冷蔵庫が壊れたからで、やっぱり妖精のしわざだろう。だから夏のせいでもあるかもしれず、うん、シェイクスピアならわかるかもしれない。

 二回めもやっぱり宇宙的だった。さっきはビギナーズラックだったのか、今回僕はあっというまに暴発してしまって恥ずかしかった。叔父さんは2ラウンドめはきついと言って、射精しなかった。

 七月が終わる。夏休みはあと一ヶ月もある。永遠に夏がつづく気がする。蒸し暑いこの町で、しばらく叔父さんを観察しようと思う。僕の自由研究。四十歳の叔父さんは、アタマも身体も少しずつ止まっていくのだとぼやく。ちょっとずつ死にかけていると言ってはばからない。

 叔父さんがお風呂に入っている間にさっきのセミを見に行ったら死んでいた。最初から死んでいたのかもしれない。僕の予感ははずれていたのだろうか? わからない。ともかく動かないセミを拾ってアパートの外へ投げた。握ったときはかさっと軽い音がしたのに、二階から葬ったら何の音もしなかった。夕暮れ、無音の葬送。

「叔父さん、セミはもういなかったよ」

 飛んでいっちゃったみたいだよと嘘をついた。叔父さんはふうんと興味なさそうにつぶやいて、ともかく夕飯を食べに行くため服を着た。

「冷蔵庫、どう?」

「今のところ大丈夫そう」

 予言通り雨が降り出した。


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