賢者の妹

 ……頭が真っ白になるとはこのことか、と真一郎は冷静に思った。

 声が出ず、全ての記憶が飛んで、自分が真っ白になるようだった。

 しかし彼女は答えを待っている。封印していたあの頃を説明できるように、一つ一つ思い出さなければ……

「……真一郎くん?」

「……つきあっていただきたい、場所があります。道々、少しずつ話します」

「うん……」

 立ち上がると、重い重い十字架が、自分の肩に伸し掛かってくる感覚。

 自分の後ろをついてくる少女。

真一郎は彼女に縋りたい衝動をこらえて、ゆっくり歩き出す。


 ◇◆◇


 小学四年生になる頃には、もうすっかり自分は優れているのだと、真一郎は確信していた。

 記憶力が良く、計算が早かったから、勉強は当然のようにできた。身の周りで起こることをすぐに理解し、判断能力も優れていた。

 例えば、家に帰ってきて普段なら『おかえり~』と晩ご飯を作りながら叫ぶ父が、『大変なんだよ、真くん』と薄い冊子を小脇に抱えてやってきた。

 真一郎は『炊飯器が壊れたなら、今日はお鍋でご飯を炊けばいいよ』と返し、父に驚かれた。

『な、なんで、わかったの?』

『えっ……だって、父さんがご飯作りを放り投げて、取説を持ってきたから。炊飯器が壊れたんじゃないかなぁ、って』

 それだけのことなのだが、そんな対応は子供も大人でさえも普通できないらしい。身近にいる、ただ一人を除いては……

『あら~、あんた、私に似ちゃったわね』

 母はその当時から仕事で世界中を飛び回っていた。

 家に帰れるのは月に三日あれば良いような状態だったが、家にいるときはボードゲームやキャッチボール、相撲の相手をしてくれた。真一郎はクラスの誰よりも運動もゲームもできたのだけれど、母にだけは一度も勝てたことはなかった。

 いつも笑顔で感情豊かでありながら、合理的で理性的。

 母は、真一郎にとってのヒーローだった。

 それに比べて父はというと、とにかくよく泣く人だった。

 ドラマを見ては泣き、真一郎が転んで血を流したのを見ては泣き、なんとなく空を見上げてさめざめと泣く。

 不可解極まりない人。

 肩書は絵本作家だったけれど、書店に父の絵本が置いてあるのを見たことがなかったし、日がな一日、絵を描くか家事をするかで、母と比べて平凡。一般常識と当てはめても非生産的で、子供ながらに駄目な大人だと感じていた。

 そう。

 毎日の食事を作り、暖かな環境を整えてくれる人を駄目だと見下す程度には、その頃の真一郎は思い上がった子供だったのである。

 当然、クラスメートなんて話し相手にもならなかった。ただ、それを表に出すと社会から外れてしまうと、母に言い含められていたから、適当に周りと遊び、適当に一人になって本を読んでいた。

 一人ではできない遊びは多く、同じ年頃の男の子たちと遊ぶのは楽しかった。

しかし、小学四年生でも真一郎は他の子供たちよりも遥かに忙しかった。

 放課後は友達と多少遊べたが、休日は家の手伝い。それに、由紀のことがあった。

 鳴海由紀。

 真一郎の二つ年下の妹は、とても体が弱かった。季節の変わり目には必ず体調を崩すし、冬場はほとんどベッドにいるような子だったから、一年の半分近く、学校を休んでいるような有様だった。

 真一郎はつきっきりで勉強を教えたが、残念なことに、由紀はムラッケの多い性質だった。

 国語や音楽、美術は得意だが、算数や社会などは本当に呑み込みが悪く、真一郎を苛立たせた。そもそも興味がないものに対しての集中力のなさに、真一郎は怒鳴ったものだ。

『そんなんじゃ、立派な大人になれないぞ!』

『お兄ちゃん。立派な大人って、なあに?』

『しっかり社会のために働いて、誰かの役に立つ人のことだ。母さんみたいにお金を稼いできて、家族を養える人のことだ』

『お父さんは、立派な大人じゃないって言ってる?』

『っ……そうだよ!』

『そんなことない。私、お父さんの絵本大好き! お父さんの絵本を読んでいると、寂しいけれど、暖かな気持ちになるの』

 そう言って、妹は枕元から父の絵本を取りだした。

『私、この絵本、大好き! 『ハーメルンの笛吹き男』! お兄ちゃん、読んで読んでー

!!』

 由紀は父親の絵本の一番のファンだった。そのせいか、父とも非常に仲睦まじかったから、真一郎はなんとなく疎外感のようなものを覚えていた。

 そんな冬のある日、父が由紀にだけコートを買ってきた。

 父曰く『赤ずきんちゃんみたいになれるコートだと思ってね』と、フードがついた赤いコート。

 由紀はたいそう喜んで、これを着てお外に出たいとごね、父を困らせた。

 由紀の体は寒さに弱く、その日も小さな咳をしていた。その上、外では雪がこんこんと降っていて、真一郎は明日の学校は休みにならないかなと思っていたのだけれど……

『お兄ちゃん。天井からは、雪が降ってこないね。なんで降ってこないんだろう』

『……降ってきたら困る。寒いじゃないか』

『ひらひらと、綺麗じゃない。白い花びらみたい。あーあ、お外に出たいなぁ』

 呑気なことを言っていた由紀は、兄に向かって両手をパンとあわせて、小首を傾げた。

『お兄ちゃん、お願い! 明日、ちょっとだけお外に出して? お兄ちゃんといっしょにだったら、お父さんも、外に出ていいって言ってくれると思うから』

『ダメだ、風邪をひいてるだろ』

『ちょっとだけ~ 五分だけっ! ……私、一度、雪の中を歩いてみたいの』

 病弱な由紀は、雪が降っている外を歩かせてもらったことがなかった。ずっとベッドだ。

 そのことに同情した真一郎は、明日は早く帰ってきて一緒に外に出ることを妹と約束した。いや、半ばさせられたと言うべきか。

 しかしどちらにせよ、真一郎は由紀と小指を絡めて、指切り千万をしたのである。

次の日の朝、由紀は興奮状態で窓から手を振って、真一郎を見送った。学校が終わったら超特急で帰ってきてね! と、何度も念押しされたのである。

 それなのに、それなのに、だ。

 放課後、クラスの友達に雪遊びに誘われて、ちょっとだけと思ったらすっかり遅くなってしまった。慌てて帰ると、家の前、雪の上に赤いコートが両手を広げて落ちていた。

 ……一瞬、由紀が倒れているのかと思った。

けれど、そこにあるのはコートだけ。家の中にも由紀はいなかった。

 はじめ真一郎は、由紀は父と出かけたのだと思った。二人は仲が良かったし、父の姿もなかったから。しかし父は一人で帰ってきたのである。

『父さん、おかえり。由紀は?』

『? なんのことだい、真くん。由紀は家にいるだろう?』

『……っ』

 そこでようやく事の重大さを認識し、慌てて警察に連絡したが、その日、由紀は見つからず。三日たっても、母が帰国して一週間たっても、由紀は見つからなかった。

消えてしまったのだ。

 父は真一郎を責めることはなかったけれど、毎日泣いて泣いて、泣き続けて―

涙が枯れたある日、ぼんやりと呟いていた。


『真くん……ハーメルンの笛吹き男という童話はね、実際に起きた連れ去り事件を元にしているんだよ。その笛の音は甘く、優しく、子供たちを誘って……あの子も、誘われたんだろうか』

 父の目はあまりに弱弱しく、現実から乖離し、真一郎はぞっとした。

 しかし、その後の父はいつものように晩ご飯を作っていた。朝になると真一郎を学校へ送り出し、由紀のことを想って暗い顔をするが、普通に毎日を暮らしていた。だから、見過ごされた。

 父が壊れてしまったことを、真一郎が思い知るのはそれから三日後。母がたまった仕事を片付けるべく、日本を離れた翌日のことである。

 真一郎が晩ご飯の買い出しについていくと、壊れた父は、妹と同じ年頃の女の子を、家に連れて帰ろうとしたのだった。


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