恋心

 彼とは、なんだろう?


 莉花が真一郎を認識したのは、高校入学初日の朝。入学式前の図書室でのことだった。

 誘拐されたときの幸せな夢を、莉花は片隅のテーブルで突っ伏して見ていた。

 暖かな空気。優しい目元。頭を撫でる大きな手の平。

 壊れものに触れるように、髪をゆっくり梳く感触に、莉花はうっとりとまどろみ、ふいに覚醒した。

 ……これは、誰の手。

 気取られぬよう、うつ伏せのまま薄く目を開き飛び込んできたのは指。自分の唇の辺りで、うろうろと彷徨う五指。

『あなた、だれ?』

 ひゅっと、息を呑む気配がした。

 莉花がまっすぐ見つめた先には、一年生の校章をつけた少年。突然声をかけたのだから、驚いているはずだった。しかし、彼の涼やかな一重の瞳は凪いでいた。

 すぐに理解した。これは同類だと。

 最低でも感情をコントロールできる人間だと思った。だから、珍しくこの不届きものに興味を覚えたのだった。

『おはようございます。名も知れない方?』

 莉花は柔らかく微笑んで、小首を傾げた。ぱたぱたと指先で机を叩き、図書室の掛け時計を見上げた。

『えー、もうこんな時間! なるほど~、私のこと起こそうとしてくれたんですねっ』

『…………』

『携帯のアラームを設定していましたが、気にかけてくださり、ありがとうございます!!』

『…………』

『何か言ってください。充電切れちゃいましたか?』

 無反応な少年にひそかに苛立ったとき、少年は愁傷に眉を寄せた。

『あの。何度か声をかけたんですが……まったく反応されなかったので、少し驚いてしまって』

 たどたどしい言い訳に落胆した。つまらないと思って、自分がこの見知らぬ少年になにか期待していたことを知る。

 ……他者に期待するなんて馬鹿げてる!

『すみません。その、少し』

『私も知らない男の子に頭を撫でられて、びっくりしました~』

『……いや、それは』

 無駄。無駄。同類などと、なぜ思ったのだろう。

『では~式に遅れちゃうのでっ。お先でーす』

『あ……いや待って。いっしょに行こうよ』

 引き留められたことに内心舌打ちしながら、莉花は無音で呟いた。


 きもい、と。


『……え』

 それは確かに声に出さず呟いたはずだったが、少年の頬が引きつったように見えた。

 が、すぐに気のせいだと、莉花は片付ける。少年は右手で額を掻きながら、晴れやかに微笑んだから。

『僕は杉崎真一郎といいます。お名前をうかがっても?』

『…………』

『あれ? 今度は、あなたの充電が切れましたか?』

 売り言葉に買い言葉。

『本宮莉花。特技はですねぇ、空手ですっ。中学では痴漢を撃退して表彰されました~』

『あはは。またご冗談を……って』

 少年の顎をこするように上段回し蹴りを繰り出した莉花は、一重の瞳に驚嘆の色を見て満足する。

『ね、冗談じゃないでしょう?』

『……なるほど』

 真一郎はおかしそうに、また、なるほどと呟いた。

『運命とはこのようなものかもしれませんね』

 真意の見えない冷静な瞳で告げられ、莉花の口元に自然と笑みがこぼれた。彼が同類だと確信できて、嬉しかったのかもしれない。

『熱のこもらぬ瞳で、運命を語るのね』

『事実をただ口にしているだけなので。ああ……すみません、たいへんご迷惑でしょうが……』

『はい?』

『僕はあなたに執着するでしょう』

『……頭のおかしいストーカー?』

『まったく、その通りです』


 ◇◆◇


 なぜ、こんなメールを送ったのだろう。

 莉花は首を傾げる。

 躊躇いはなかった。かといって、強い覚悟があったわけでもない。なんとなく、としか言えない。

「莉花ちゃん、今日のお夕飯なにがいーい? 何でも好きなもの言ってくれていいのよ?」

 スーパーのカゴを揺らしながら、ご機嫌な美月が振り返る。莉花は数瞬考え、面倒になった。

「なんでもいいよぉ。美月ちゃんの手料理なら、なんでも美味しい」

「え、そんなことっ……そうねぇ、今日は寒いから、ジャガイモの代わりにカボチャを入れたシチューにしましょうか。ほんのり甘くて、体が暖まるわよ~」

「……わー、たのしみ」

 若干棒読みにも関わらず、美月は鼻歌混じりに食材を選んでいく。莉花は今日から美月の家に住むことになっていた。彼女はそれが嬉しくて仕方がないらしい。

 ……別に放っておいてもらって、大丈夫なんだけど。

 美月の後ろ姿を眺めながら、莉花は右頬を覆うガーゼに触れる。その下には、母親に叩かれたときについた爪痕。

 ずっと。ずっとできなかったことをした。

 思春期の子供なら誰でもする、親に反抗するということ。

 両親の問題が見えていながら、ずっといい子でいた。それが賢い生き方だからと、自分は人形で主張したいこともないからと、自分の意志で彼らの望むように生きてきた。

 自分で納得して、そうしてきた。そのはずだった。

 けれど、母に叩かれたとき思ったのだ。


 ああ、もう頑張らなくていいんだ、と。


 解放された気持ちになってはじめて、自分が縛られていたことに気づいた。その解放は一瞬のことではなく、莉花に幾つかの変化をもたらした。

 はじめは病院の夕飯が、妙に美味しく感じたことだった。朝食べたときは質素で薄味で辟易としたというのに、朝と同じお粥がすとんと胃の中に落ちていった。

 味覚だけではない。今まで蓋でもされていたかのように五感が鋭くなり、過剰に動く瞬間があった。

『お姉ちゃん、ごめんなさい……』

 一人で退院の準備をしていると、松林愛華に声をかけられた。向島の命令に従って莉花を危険に陥れたことを、ずっと気にしていたらしい。

 しかし、莉花は愛華を恨んでいなかったし、大して気にも留めていなかった。考えることが他にあって、存在を忘れていたといってもいいくらいだった。

 にもかかわらず十歳の小さな少女は、とんでもない犯罪をしでかしたかのように真っ青な顔で謝ってきたのだ。

 その瞬間、ふわりと胸が暖かくなって、涙が出そうになった。この子が無事でよかったと、自然と思えた。

「……不思議」

「莉花ちゃん、なにか言った?」

 レジをすませた美月に問われ、莉花は首をふるふる振る。

「なんでもない」

 以前ならば気にも留めなかったことで、感情に突き動かされる瞬間がある。

 それは良いことなのか、悪いことなのか。

 莉花はコートのポケットの中で、携帯電話に触れる。

「なんだろう、この気持ちは……」

 それはあたたかな、執着心。


 これが、恋なのだろうか? 


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