ママの外面

「ママ、本当に心配したのよ? よかったわ、無事で!」

 病院のベッドの上で、莉花は母に力いっぱい抱きしめられた。香水の甘ったるい匂いに、息が詰まる。

 近くで控えていた医師が、一つ咳払いをする。

 四十代の痩せた男だ。眼鏡の奥の瞳が冷やかだが、母はまるで気づいていない様子だった。

「……お母さん、娘さんの状態を説明させてください」

 そう切り出して、医師は朝の回診で莉花が聞いた内容を説明する。向島に体の自由を奪う薬を打たれたが、そのことによる後遺症はないこと。しかし、念のため検査をし、二日間の入院が必要だと話したところで、母は眉間に皺を寄せた。

「あら、入院ってたったの二日なんですか? 娘は首を絞められたんですよ! もっと精神的なケアが必要じゃありませんっ?」

「朝一番でカウンセリングをしましたが、その必要はないと判断しました。武道をやっているそうですね。お母さんの教育がしっかりとしているのか、心の強い娘さんだ」

「……ええ、そうですの」

 褒められたことに気を良くし、母の癇癪が収まる。

 ……お医者さんって、すごいな。この人の扱い方をよく分かっている。

 昨晩、警察に保護された莉花や被害者少女たちは、地元の病院に搬送された。莉花は薬のせいで動くことができず、暴行を加えられた直後だったので当然の対応であったが、実際のところ、衰弱していたのはずっと監禁されていた少女たちのほうだった。

 向島はその手で一人の少女を縊り殺した。

 少女たちはその光景を見ていた。それまで一緒に寝起きし、異常な状況下で支え合っていた仲間が殺されていくのを。そして、次は自分かもしれないと、恐怖と戦いながら生きてきたのだ。

 医師の診察を受けている際、少女たちは、どこかぼんやりとした様子であった。しかし、警察から知らせを受け駆け付けた親の顔を見るなり、一人が泣きだし、他の少女たちにも伝染した。恐慌状態となった少女たちのもとに、次々と保護者がやってきて宥めることになったのは、昨夜十一時のことである。

 大急ぎで駆け付けたのだろう、少女の母親たちは乱れた格好で、化粧をしていない者も多かった。けれど、我が子の無事に涙する姿を、莉花は決して醜いとは感じなかった。

 警察から連絡があった翌日の昼に、綺麗に化粧をほどこして優雅にやってきた母と比べればよほど美しい。

「それにしても、病室はもっと何とかなりませんの? 追加料金をお支払いしますので、個室にしてくださいません?」

 莉花の病室は四つのベッドがあり、莉花以外の三人は監禁されていた少女たちだ。カーテンで仕切られているが、両親ともに揃って談笑しているのが、ちらちらと見える。

「ママ、たかだか二日の入院だから、私のために頑張らないで? それよりも、パパは?」

 一瞬、母の顔が歪む。痛いところを突いたらしいが、医師の手前か、悲しげに首を振った。

「……ええ。パパ、どうしても抜けられない会議みたいで。莉花のこと、とても心配していたわ。パパを恨んだりなんてしないでね?」

 その白々しい嘘は、己に言い聞かせるようにも聞こえた。

 今までずっとそう。

 子供の頃からずっと諦念を抱いていたけれど、それでも、母の言うとおり生きてきたのは、諦めきれなかったからだと、ふいに気づく。

 母は女であって、母親ではない人。

 子供のように我が儘で、大人のように狡猾で。

 莉花は大人たちから目をそらし、窓の外に視線を転ずる。

 冬の空は空気が澄んで、高く、どこか物悲しい。渡り鳥だろうか、真っ白な鳥がその青を力強く羽ばたいていく。

 ……うん、もういいや。

 莉花は朗らかに笑って、母を見上げる。

「ねえ、ママ? 私、お願いがあるの?」


 ◇◆◇


『○○県内で女子児童八人が行方不明となっていた事件で、○○県警は20日、獣医学部に通う向島裕貴容疑者(21)を未成年者誘拐容疑で逮捕したと発表した。調べに対し、「間違いありません」と容疑を認め、遺体となって発見された川島絵麻ちゃん(10)の殺害についても話しているという。一か月半もの間に八件もの誘拐を繰り返した向島容疑者は、近所でも評判の好青年であった。両親は動物病院を経営しており、容疑者は一人暮らしの自宅で被害者たちと暮らしていた。容疑者の知人の通報により、事件発覚となった。被害者は病院に搬送され、回復に向かっている』


そんな新聞記事が上がった日の夕刻、真一郎は以前、莉花と何度も行った喫茶店へと、美月に連行されていた。真一郎は倉科父とは何度も話したことがあるが、娘の美月と話すのは初めてだ。お互いに存在を認識していたが、近づかなかった。

 その初めてが『何も言わず、放課後、面を貸してください』と嫌悪感丸出しの虫けらを見る目で誘われた。莉花の友人らしい、と思った。

 喫茶店には、警察に保護された後ずっと連絡の取れていなかった莉花が、いつも通りの女の子らしい笑顔で出迎えてくれた。

「三日ぶり~ 元気だった?」

「……いや、あの」

 笑顔だけは、いつも通りだったが……

「どうしたんですか、その頬は?」

 莉花の右頬には、白いガーゼが張られていた。最後に見たとき傷などなかったというのに、この三日の間に、一体なにがあったのだろう?

「発情期の雌猫に引っ掛かれた、みたいな?」

「それ、明らかに嘘ですよね」

「えー、人をそう疑っちゃ、だめだよぉ」

 どうやら、応える気はないらしい。

「……莉花さん。お体のほうは、大丈夫ですか?」

「問題ないよ~ もうっ、みんな心配しすぎ。入院させられちゃった。ようやく解放されたんだ!」

 それはそうだろう。

 向島は両親の獣医病院から盗み出した薬品を使って、少女たちの自由を奪っていた。莉花は二度注射された上に、暴行を加えられている。繊細な女性なら精神神経科に入院してもおかしくないのだが……

「病院のご飯って少ないの~ デザートもないし」

「…………お元気そうで何よりです」

 唇を尖らせた莉花は、ティラミスをフォークで突っつく。飲み物はホイップクリームの浮いたココア。見ているだけで胸やけがしてくる。

「真一郎くん、座って座って~ 早速だけど、お話してくれるかな? い・ろ・い・ろ・と?」

「莉花ちゃんの質問に答えて、さっさと帰ってください」

「……莉花さんに倉科さん。両手に花な状況は非常に喜ばしいのですが、いささか眼差しが剣呑といいましょうか。警察の事情徴収よりも圧迫感があって、心の臓が震えあがると申し上げましょうか」


「「吐け?」」


 莉花は小首を傾げ笑顔で、美月からは舌打ちで睨まれ、真一郎は両手をあげて降参した。

「さて……しかし、何をどう話したものでしょうか?」

「っ……あの日、私は父から連絡を受け、莉花ちゃんの家に行くように言われました」

 苛立った様子で、美月は口火を切った。

 あの夜、帰宅したら連絡するよう約束したというのに、いつまで待っても莉花から連絡がなく、美月は不審に感じていたという。こちらから何度連絡しても莉花の携帯は繋がらず、気づけば電源が切られていた。

 そんなヤキモキしているところに刑事である父から思わぬ指示を受け、美月は莉花の家に急いで向かった。そしてそこでまだ帰っていないと莉花の母に聞かされ、美月は電波の向こうの父親に噛み付いたのだった。

『落ち着きなさい。あとは父さんに任せて、お前は家に帰って彼女の無事を待ちなさい』

『無事ってなんなの!? 莉花ちゃんになにがあったのっ?』

『分からん。俺もよく分からんから確かめに行くんだ』

「父はよく分からない、と確かに言っていました」

 その後、倉科は部下をともなって向島の家を訪ねた。近所で事件が起こり事情を聞いて回っていると警察手帳を見せると、向島の様子が明らかに変わったという。異変を感じ取った二人が自宅内をあらためたところ、誘拐された少女たちと莉花を発見したというのが、父から聞かされた事の経緯だと、美月は真一郎に語って聞かせた。睨みながら。

「行方知れずとなった莉花が向島の家にいると、どうやってつきとめたのか。そのことについて、父は話してくれませんでした。そして入院している莉花ちゃんから、その場に、あなたもいたと聞かされました」

「お父様は、そのことについてなんと?」

「父は、あなたはいなかったと言っています」

 真一郎はこりこりと、額を指で掻いた。美人の目力はすごいなぁと関係ないことを考えていると、美月の隣の莉花がカップを置いた。

「あのね~」

 莉花の、のんびりとした声に、真一郎の背筋がぴんと伸びる。

「私、事件のことは、ちゃんと覚えてるの。向島さんに首を絞められて朦朧としていたけれど、ちゃんと全てを見ていた。すごいね! 喧嘩も強いって、はじめて知ってビックリしちゃった~」

「いえいえ、男子のたしなみ程度ですよ」

「ううん、なにか武道をしてるよね? ねぇ、今度、うちの道場こない?」

「心の底から、ご辞退いたします!」

「真一郎くんは紳士さんだから、女の子には手を上げられないってこと?」

「フルボッコ確定な未来を、全力で回避しようとしているだけですよ」

「そんな謙遜しなくてもいいのに」

 そう、にこにこ笑っていた唇が、別の言葉を刻む。ざんねん、と。

 ……これは、お怒りか。

 読唇術を駆使した真一郎は、お冷を飲むことで莉花から視線をそらす。

「真一郎くん?」

 けれども、追いかけてくる甘やかな声。

「倉科のおじさんに、真一郎くんのことは見なかったことにしなさいと言われた。わからなくもないよ? だって、真一郎くんは、私を助けるためとはいえ犯罪行為をしている。私は頭が良くなくて精確には理解できてないから、真一郎くん、教えてくれないかな?」

「……不法侵入、器物破損。傷害罪は向島が先に襲いかかってきているので、正当防衛が成立します。まあそもそも、僕の全ての罪は、警察がもみ消してくれましたので、ご心配なく」

「あはは、わるーい」

「この世は、全て白と黒で分けられるものではないでしょう……こってり、警察に絞られましたが」

「そっか~ ねえねえ、真一郎くんの罪って、それだけじゃないよね?」

 胸がざわめく問いかけに、真一郎はうっそりと笑んだ。

「……なんのことでしょう?」

「私、一つ、すごーく気になってることがある。ねえ? 盗聴器とか発信器とか、今もまだ私についていたりする?」 

「……莉花ちゃん、なにを!」

 美月は顔色を変えたが、真一郎は飄々としたものだった。

「なぜそう思うのでしょう?」

「警察とただの高校生が行動をともにする理由は、その高校生が情報提供者である場合しか考えられないよ。じゃあ、真一郎くんはその情報はどこから拾ってきたのか? 一番納得しやすい答えがそれだったの」

「もう少し夢を見ていただけると、ありがたいのですが」

「私、子供じゃないの。それに、あなたも物語の王子様ではないでしょう」

 動じることのない莉花に、真一郎は思わず唸った。降参である。

「ご想像の通りです。あのハートのキーホルダーは防犯ブザーではなく、発信機と盗聴器を兼ね合わせておりまして、ハート部分を引き抜くと、僕のパソコンに位置情報が送信される作りとなっていました」

「騙したんだ?」

「あなたを守るためです」

 さらりと言ってから、真一郎は莉花の出で立ちをじっと見つめた。

 今日の服装はウサギの耳がついたフードつきのモコモコチェニク。アーガイルチェックの赤いタイツに可愛らしいブーツ。

 薔薇色の頬も、大きな瞳も非常に愛らしい。

「莉花さんは犯人が小学生を狙っているので大丈夫だと思っていたかもしれませんが、その、莉花さんはとても幼く……いえ、可愛らしい見た目なので、毎日、パトロールをしていたら犯人の目に止まってもおかしくないと思っていました」

「……真一郎くんは、向島さんを怪しんでいたの?」

「いやいや、まさか」

「本当に?」

「……いやまあ、向島が犯人と知ったときは、さほど意外に感じませんでした。彼はいかにも優しそうで人当たりがいい人間だったので子供はあまり警戒しないだろう、と思っていましたし。それと、莉花さんは気づかれてませんでしたが、非常に粘着質な人間だと思いました」

「そっか。真一郎くんもストーカー気質だから、同類が分かるのかなぁ。さすがだね!」

「……あの、ショックではありませんでしたか? その、向島に騙されて。人間不信に陥ったりは」

真一郎が事情徴収のときに聞いた話では、向島は本屋で莉花が困っていたからたまたま声をかけたのではなく、その三十分以上前に莉花を見かけ、声をかける機会をうかがっていたらしい。その後ちょっとずつ仲よくなり、いずれは家に招き入れようとしていた、とのこと。

そんな男に目をつけられていたなんて、普通ならば恐怖を感じるはずであったが……

「なぜ? 私は向島さんが犯人だと知っても、騙されたとは思わなかったよ。だって、あの人になにも期待していなかったし。そういう人だったんだ、と思うだけだよ」

 あっさり言われて、真一郎は絶句する。

 まったくもって敵わないと思うと同時に危なっかしさを感じ、吐息をこぼす。

「……本当に念のためでしたが、お守りを渡しておいてよかったです。ご無事で、本当に、よかったです」

「ううん。そんな大したことないから」

 けろりと答えた莉花とは対照的に、美月はまなじりをキリキリと吊り上げていた。

「莉花ちゃん、もう帰りましょう。そんな変態と同じ空間にいると、穢れてしまうわ!」

「えー、まだココアが残って」

「どうでもいいわ」

 莉花の手を取り、美月は立ち上がる。真一郎を睥睨した。

「誘拐事件は解決したのだから、あなたはお役ごめん。莉花のワガママにつきあってくれて、今まで、どうもありがとう」

「はあ……」

「二度と近づかないで頂戴」

 高飛車に言い切った親友に、莉花は苦笑する。

「それって美月ちゃんが決めることじゃないと思うけどぉ。でも、そうだね? 事件は終わったんだ。私はちょっと忙しくなるから、真一郎くんは連絡しないでね?」

 ばいばい、と手を振られ、真一郎は片目をつぶる。

「また、折を見て、ストーカー行為をさせていただきますね?」

「あは! 一回死ねば?」

 莉花は美月に引っ張られ、立ち去る。

一人残された真一郎は、口元に苦笑を刻みながら、目を閉じた。

 仕事終わりらしい女性たちの愚痴、夕食を何にしようか子供に尋ねる母親の優しい声、パソコンキーを打つ音。フォークが食器に当たる金属音。

 古ぼけた壁掛け時計が、時を刻んでいる。

 チクタクと、チクタクと。

 止まることなく、規則的なその音に聴覚を支配されたところで、真一郎はふうと息をつく。

 見上げれば、時計は五時を指している。

 向かいの席には、白いカップ。飲み残しのココアを見つめながら、あと何度、彼女に会うことができるだろう、と考える。

 卒業まであと五日。

 真一郎は都内の法学部に進み、莉花は似合わないことにお嬢様学校だ。

 学校が分かれれば、今までのように気軽に彼女の姿を目にすることはできなくなるだろう。二人で会うことは、もうないかもしれない。


『そっか~ ねえねえ、真一郎くんの罪って、それだけじゃないよね?』


 突きつけられた気がした。己の罪を。

 贖うことを許されぬ罪。それは子供の感傷に過ぎぬ、逃避かもしれないとも思った。けれど、あの日、背負うことを選んだのだ。

もしも、自分を断罪する存在がいるとしたら、一人きり。

 世界中で、ただ一人。

「まったく、感傷がすぎる」

 無表情のまま、真一郎は携帯に手を伸ばす。

 鼓動が高鳴る。

 莉花からの新着メールに書いてあったのは、ただ一言。


『ねえ、デートしよっか?』


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