激突
莉花さんは、強い女の子だ。
頭も良いし、警戒心も強い。腕っぷしだけなら、真一郎が敵うはずもない相手。
あれは念のための保険のつもりだったのに。
「……おいっ、落ち着け! 状況の確認がまだ……ああっ、くそ!」
静止の声を無視して車から飛び降り、三階建ての一軒家に入り込む。最短経路を壁伝いに走る彼の体を、目隠しの生け垣が擦っていく。
雪の残った地面に足をすくわれ、真一郎は思わず手をついた。
『そんなふうに泣かないで? これは必要な儀式なんだ』
その途端イヤホンから流れる男の声。
「っ……ふざけろ」
どこだっ、どこからなら侵入できる?
走って走って、侵入経路を探して。
明かりの灯った、一枚ガラスの部屋。
死んだ目をした、小さな女の子が何人も身を寄せ合っている。少女たちの視線の先には、細身の若い男と、その男に首を絞められる莉花。
『次は痛み。僕のものだという証を刻む』
音質の悪い男の声が滑り込んでくる。好きな女の子の喘ぎが聞こえた。
「……っ」
こらえろっ。莉花さんを危険に晒す気か!
妹の笑顔がフラッシュバックされる。
悔やんでも悔やみきれない、愚かしい過去。気づけば亡くなってしまった、大切な人。
……室内の音を聞く限り、向島は莉花を殺すつもりではないらしい。外では倉科刑事が控えている。一度、連絡を取ったほうがいいだろう。
真一郎はゆっくりとその場から離れようとして、ふと、そばに金属バットが立てかけてあることに気づく。なにに使ったのか、赤黒いものがベッタリと。
それは、血のように見えた。
『ごめんね? 少し熱いけど、ちょっと我慢してね』
そしてそのとき確かに、弱々しい莉花の声が聞こえた。
いや、と。
「っ……!」
気づけば、窓ガラスが粉々に割れていた。
「……っだれが、こんなことを!」
鋭い恫喝に、真一郎はまっすぐ顔を上げる。
「それは、こちらの台詞ですよ」
だめだ! 冷静じゃないっ。冷静になれない!!
ガラスを叩き割った金属バットを捨て、真一郎は拳を握る。
莉花に覆いかぶさっている、男。あれを、殴る。ぐしゃぐしゃにする。
莉花と視線が絡んだ。
「こんばんわ、莉花さん。もう大丈夫です」
莉花は薬でも盛られたのか、身動きが取れないようだった。涙で化粧が落ちている。けれど、その瞳は光を失っていない。そのことだけは救いだったが……
彼女の胸元が大きく開かれてるのを見て、真一郎は頭が熱くなった。
「……あー、そうかぁ。お前、莉花ちゃんと一緒にいた奴かぁ」
向島がゆらりと立ち上がり、二十センチほどの棒を振る。三倍ほどに伸びたそれは、特殊警棒。殺傷能力、十分な代物。
「進学校の優等生くん。気づいた? 俺、何度もお前のマンションまでついていってるんだぜ?」
「……ああ。こそこそ人を付け回していたのは、あなたでしたか」
「見逃してやってたんだよぉ。俺の莉花ちゃんに、指一本でも触れるようなら、ぶっ殺してたけど……お前、相手にされてないよ? 莉花ちゃんは優しいから言わないだけで、蛇蝎のごとく嫌われてるんだぜ」
ね、そうだよね、とすぐ後ろの莉花を振り返って、向島は同意を求める。莉花は呆気にとられているのか、肯定も否定もしなかった。それは、ある意味幸運だった。
ストーカー、妄想的人格。
このタイプは、現実を直視できない。させようとすると、暴れる傾向にある。莉花を敵意の的にしては駄目だ。
「いやいや、なに言ってるんですか? 常識的に考えてみてくださいよ」
真一郎は余裕に満ちた笑みを浮かべた。両手を広げ、自分が武器も何も持っていないことを印象付ける。
「僕は高校三年間ずっと、莉花さんに毒を吐かれようと無視されようとアプローチして、ようやく認めてもらえた彼氏。あなたは薬を使って女の子をさらい、自宅に囲い込んで喜んでいる犯罪者。どちらが男として魅力的かなど、聞くまでもありませんよ?」
「……っ。俺は! 悪くないんだよっ! 悪いのは全部あいつらなんだよっ。お前は、なにもっ、なんにもっ。知らないくせに!!」
向島はぎりぎりと眦を吊り上げて、幼子のように地団太を踏む。かかったと、真一郎は笑みを深める。
「じゃあ、教えてくださいよ。向島さんが言う、僕が知らないことを」
「俺はなぁ、獣医師なんかなりたくないんだよっ。親が獣医だからって将来を決められて! 友達だってうちとは釣り合わないって言われて、遊ばせてもらえなくて。将来のためだって、クラスのみんなが遊んでるときも勉強勉強勉強。息抜きもさせてもらえない! そんな状態じゃ、試験の結果も上がるもんかっ。それなのにあいつらは、努力が足りない。もっと真剣にやれ、怠けてるって言って。俺はずっとずっと一生懸命やってるんだよっ。わかれよ!」
一息で言い切った向島に、真一郎は冷やかな眼差しを送る。
「知らねえよ。お前の親に言え」
「……っ、おま、おまえ……死ねぇぇえええ!」
逆上して突っ込んでくる向島。右手に握りしめた特殊警棒が、真一郎の頭めがけて振り落とされる。
が、寸でのところで右に避ける。勢い余って泳ぐ、向島の左腕をつかみ、真一郎は軽く捻りあげた。
「っ……があぁぁ、いっだだだだ! は、離せ! 離せよぉ!!」
関節を逆に極めたのだから、そりゃあ激痛だろう。しかし、真一郎はあっさりと解放する。
「大げさですね、まったく。情けない」
真一郎は表情を消して、脂汗を流す向島の前に立つ。
「だから、駄目なんだよ。お前は」
「……なっ……」
「親の期待に応えることができず、できないことを親のせいにして、その不満を親に言うこともできず、親の目を盗んで、自分より弱い相手をいたぶる。お前は親の所有物なのか?」
「ち、ちがう。僕は……」
向島は顔面蒼白となって、きょときょとと周囲に助けを求める。ロリータ服の少女たちに、すがるような視線を送るが、みな目を合わさない。
「なんだよ? みんな、お兄ちゃんがこんなふうに言われてるんだぞ。ほ、ほら、なにか言えよ。なあ? なあ!」
「自分がさらった少女にすがるなんて、見苦しい」
「ひぃ……」
不穏な気配を感じ取ったのだろう。真一郎から逃れようと、向島が背中を向ける。
逃がすわけがない。
一気に距離をつめ、向島の足を払った。仰向けになった向島の腹に、どっかりと座る。
「な、なにを……!」
なにって?
「まずは一発」
拳を振る。
うめき声が聞こえたが構わずに、また一発。血しぶきが上がったが、さらに一発。一発。一発。一発。
「……やめろ!」
殴ることに集中していると、首根っこを掴まれて後ろに引き倒される。
「お前、殺す気か!!」
「……倉科、さん」
血走った目で怒鳴られた真一郎は、ガラスの割れた窓から、倉科の後輩刑事が入ってくるのを見上げる。急激に熱が冷めていくのを感じた。
ああ、残念だ。殺しそこねた。でも……
「今度は助けられた」
小さく呟いて、真一郎はそのままシャンデリアが揺れる天井を眺める。
「君! 大丈夫かい!!」
後輩刑事がソファーでぐったりとしている莉花に声をかけているのが見える。しかし、返答はない。
真一郎が不審に思い体を起こすと、莉花のまっすぐな視線に出会った。
それは心の奥底まで届く、鋭い眼差し。
何もかも暴いてしまうのではないかと体が震えるほどに、強く強く、真一郎を射った。
……けれど、それを望むことは罪だ。
内心、己を嘲笑いながら、真一郎は莉花のもとへ行く。
「真一郎、くん……」
莉花が何か言う前に、真一郎は困ったように笑った。
「……莉花さん、胸元が開いていて、たいへん目のやり場に困ります」
◇◆◇
こうして、一つの事件の幕が落ちる。
一時的な幕間。一時的な安息。
ハーメルンの笛吹き男が歩き出す。
楽しい音楽、面白い踊り。
二人の子供は、まだ知らない。
埋もれた真実が露わになろうとしていることを、まだ誰も知らない。
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