猫のお兄ちゃん
唇をくすぐる濡れた感触に、莉花はゆっくりと覚醒した。
覚醒すると同時に、そのまま寝たふりで状況を探る。
ふかふかとした柔らかなところで、仰向けに寝かせられている。気温は快適な温度だ。眠るには適しているが、あのまま雨が降る道路で置いていかれたほうが嬉しかったなと思った。
その間も頬や顎に、ちょんちょんと。柔らかな濡れたものが触れる。
寝返りを打つと、その『何か』が逃げていく。莉花はうっすら目を開けて、起き上がった。
「さいあく」
ヨーロッパを意識した広い部屋だった。
白い壁紙に合せ、家具も白を基調とした高級そうなアンティーク。莉花が寝かされたベッドも、ロココ調のお姫様が眠るような意匠が施されている。
ある意味丁重なもてなしだが、いささかやりすぎだった。
莉花は洋服を着せ変えられていた。
真っ白なフリルのついた、ロリータ服。頭には猫の耳がついた、ボンネット。首には小さな鈴があしらわれたチョーカー。
ちりん、ちりん、と可愛らしい音をたてる白いチョーカーを、莉花は毟り取る。
私は飼い猫ではない。
「私に、悪戯をしていたのは、きみ?」
ベッドの下には、青い目の毛足の長い猫がアクビをしていた。自分の顔を舐めたのは、どうやらあの猫らしい。
「ありがとう。起こしてくれて」
向島からのメールで見たことのある猫だった。
たしか、マルコくん。オス。オスだが、あの男の目覚めのキスから回避できたと思えば安いと、莉花は乱暴に唇を拭う。
その途端、ふらりと体が傾いだ。
手が痺れている。頭が妙にフワフワするし、体もだるい。向島に連れてこられるときに打たれた薬がまだ残っているようだった。そして。
「……本当に、いい、ご趣味でっ!」
違和感を覚えて布団を捲り上げると、足首に枷がしてあった。その鎖はメルヘンなベッドの枠にくくりつけてある。
もうっ……気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い。ストーカー滅べ!
幸いなことに、足枷の鎖は華奢だった。莉花は遠慮なく鎖を壊し、一息ついてから周囲を探る。
まず爽やかなグリーンのカーテンの先にある窓。
はめ殺し窓で開けられない。壊すことは難しそうな上、どうもこの部屋は二階以上の高さにあるらしい。外は樹木で覆われているが、下のほうで、うっすら街灯が見えた。住宅街にある一軒家だろうか。
「あー……私、計画的に監禁された?」
部屋の中をあちこち探しても武器になりそうなものはなかった。爪切りは見つけたが、ハサミはない。本はあっても、先が尖ったペンはない。ふわふわしたロリータ服の替えはあっても、莉花の鞄やコートはない。
せめてスマホがあれば、助けを呼べたのに。
コートのポケットにスマホを入れておいたが、おそらく、どこに入れても回収されていただろう。洋服を着せ替えられた意味は、きっと、向島の趣味だけではない。つまり彼は変態だが、頭の良い変態。たちの悪い変態。
その彼が莉花に求めるものは一体何か。考えるまでもなかった。
「あは! 変態のお人形さんをするなんて、反吐が出ます~」
己を奮い立たせるために呟いて、莉花は自分が取るべき行動がなにか考える。
……こういうとき、彼ならどうする? 人に壊れた防犯ブザーを寄越した、彼なら。
従順なふりを続けて体調を整えてから向島を倒す。却下した。仲間が複数いたり、さらに何か薬を打たれる危険性を考えると、動かないでいるのは愚策。
丁重な扱いを受けている今はリスクを取ってでも、外に出たほうがいい……たぶん。
優先順位としては情報収集。外部に連絡を取る。どうにか逃げる。
「んー、でも、そう簡単に逃がしてくれない気がする、なぁ」
軽く準備運動をしながら、冷静に頭を巡らせる。体調は万全ではないが、不安はさほどなかった。
莉花は空手の有段者である。見た目はどうであれ、心身はヤワではない。連れてきたのがよりにもよって私って向島さんは不運だね、とすら思っていた。部屋の扉を開いて、廊下に出るまでは。
「あ……」
扉を開けると、小さな子供の声がした。
莉花が視線を下にやると、廊下に女の子がうずくまるようにして座っていた。
莉花と同じようなロリータ服を着ているが、健康状態はあまりよろしくないようで、虚ろな目をしている。
「おねえさん、だめです。外に出ちゃ……だめ」
「……なん、で。ここに」
莉花はその女の子を知っていた。正確には写真で見て知っていた。
今起こっている連続幼女誘拐事件を調べているときに、莉花は被害者たちの写真も当然入手した。
その写真の一人。
一番はじめに誘拐された女の子。その子の名前はたしか。
「松林……愛華ちゃん?」
「……おねえさん、私を知って、るんですか?」
十歳のあどけない瞳でまっすぐ見つめられ、莉花はうろたえた。
一ヶ月以上行方の知れなかった少女と、まさかこんなところで会おうとは。つまりここは
「連続幼女誘拐犯の家……」
向島がその犯人。河川敷の死体に驚いていた彼が。美月に声をかけられ純情に慌てていた彼が。動揺する莉花を優しく気遣っていた彼が!
「ううん……もしも」
もしも、彼を犯行グループの一人、それも下っ端であると仮定するとしたら、もしかしたらここには。
ここには八年前のおじさんが、いるかもしれない。
心臓が高鳴った。
おそらく不安と期待で。
不安はおじさんが殺人犯だと決定づけられ、自分はそんな人にすがっているのかもしれない、絶望感から。
期待はそれでも会いたいと強く想ってしまったから。
莉花は胸を抑えて喘いだ。呼吸が、苦しい。頭が痛い。胸が締め付けられるように、痛い。痛い。
「おねえさん……ど、どこか痛いんですか?」
「……うん? 大丈夫、だよ。私、強いから、ね!」
呼吸を整えて、今やるべきことは?と己に問う。
やるべきことは、逃げることだ。けれど、やりたいことは……
「ねえ、愛華ちゃん。この家にはどんな人が住んでるの?」
「……私と同い年の女の子と、猫のお兄ちゃん」
「猫のお兄ちゃんって、二十歳くらいの一見すると優しそうな男の人、かな? 愛華ちゃんをここにつれてきた人?」
「うん。私、おにいちゃんの家の猫が見たくてここに」
餌は猫か。
そういえば、彼は猫のカフスボタンをつけていた。あれも少女の気を引く小道具だったのかもしれない。
「猫のお兄ちゃん以外に、だれか見たことある?」
「見たことはない、です。けど……ときどき、みんな、猫のお兄ちゃんに、一つの部屋に閉じこめられる。たぶん、誰かきてると思います」
この子は頭が良い、と莉花は思った。枷になるようなら置いていくことも考えたが、つれていったほうがプラスに働くだろう。
「愛華ちゃん、協力して。いっしょに逃げよう」
「……むり……だって」
莉花は少女のやつれた頬を見る。裸足の足には、足枷の跡が痣となっていた。そして、ふと彼女の首元に目が吸い寄せられる。
ブラウスの一番上のボタンが外れている。鎖骨の下あたりに、赤黒い痣のようなものが……
「それ、なに?」
「っ……な、なんでもない。なんにもないです!」
少女は青ざめながら襟元を掻き合わせ、首をぶんぶんと振った。莉花はすっと目を細めた。
ここで一体、少女たちはどんな扱いを受けているのか。
自分は感情に流されるほうではないが、少し傷ましく思った。そして、この子は知らないかもしれないが、誘拐の被害者の一人が亡くなっているのだ。
自分一人なら我が儘も許される。我が身の危険を承知で、誘拐犯のおじさんに会おうとすることもできる。でも……
「猫のお兄ちゃんは、今、この家にいるの?」
「え……たぶん。昼間は私たちを閉じ込めて出かけますけど……夜はずっと、おうちにいます……」
「じゃあ、この家のどこかに、電話は、ない? 知らない?」
「……電話。お兄ちゃんは携帯を持ってます、けど……」
それは避けたほうが良い。
「私のコートとか荷物がどこに置いてあるか、知ってる?」
「それは……下のダイニングキッチンに」
「そこに、誰か、いる?」
「……わ、わかりません。行ってみないと」
「私をそこにつれていって」
少女はもごもごと口ごもったが、莉花はさらに強く言葉を重ねた。
「私をつれていって」
◇◆◇
死ぬとき、私は何を思って死ぬだろう。
そもそも生きる意味とはなんなのか。朝起きてご飯を食べて、学校に行って己がやるべきことをこなし、周囲と何となくうまくやりながら、自宅では両親の間で波風立てないように、いい子を演じて。
疲れた体のために栄養を補給して、お風呂で身綺麗にし、眠る。毎日そんな繰り返し。
死を身近に感じたとき、私は果たして生きたいと思うのだろうか。
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